クーベルタンの文明の概念は、文化の高度化、技術化、都市化、社会組織の専門分化、階層化への連続的発展過程としての文明ではない。また、新カント学派の影響下に定着した物質文明・精神文化といった対立項としての反啓蒙主義的文明概念でもない。むしろ、彼が批判していたシュペングラー (O.Spengler, 1880 - 1936) の有機体的歴史概念に近い。すなわち、誕生・成長・衰弱・死という必然的過程をたどる歴史個体のように、脱西欧中心の世界観に近いものと言うべきであろう。しかし、クーベルタンには、そのようにして相対化された西欧文明に対して、シュペングラーのような《没落》という諦念がまったくない。彼は、啓蒙主義の蒙昧・野蛮・文明といった段階論的進歩観に立脚するフランス文明中心の単線的世界進歩の楽観主義と、その百科全書的知識観を根底的に批判するが、そのようにして相対化された地球上の一つの文明としての西欧文明に愛着を持ち、それを支えてきたヘレニズム的エネルギーの枯渇に潤いを与え、永続させる何ものかを積極的に探究した。
オリンピズムとは、上記のような文明観から導かれた人間性 (ユマニテ) のスポーツ的側面を意味し、それはクーベルタンにとって単なる想念ではなく、実践であり勤行(ごんぎょう) のようなものである。彼は最後に、これを《レリギオ・アトレタエ》 (Religio Athletae) と言い換えている。それはどの文明にも認められ、受け入れられるところの、人間の本能の普遍的表出であるというのである。しかし、彼のオリンピズムは、彼の文明史観から見れば、一つの運動形態にすぎない。スポーツ教育学はオリンピズムを含むさらに地球的な人間の変革ということ、とりわけ知識観と道徳観に直結する《スポーツ性》 (sportivite) の普及ということを要請しているのである。クーベルタンは、人間におけるスポーツ性の永続を文明形成力と見なした。クーベルタンの文明史は、地球という星の上に展開する民主主義の動的秩序の実現への永遠の歩みである。それは、さまざまな政治形態や組織形態があっても、すべては民主主義に向かうべきものと、彼は考え、しばしばこれを《ユーリトミー》と表現している。
《スポーツ性》という概念は、クーベルタンにとって、歴史学の概念であると同時に、心理学の概念でもあった。彼はベルグソン (H.Bergson, 1859 - 1941) やフロイト (S.Freud, 1856 - 1939) の同時代人として、数学的機械観 (近代科学) に基づく体育学の身体トレーニング理論への独走に反対し、《筋肉の記憶》 (memoire des muscles) という独自の概念によって、スポーツ心理の研究の重要性を示唆し、1913年ローザンヌ・オリンピック会議によってその端緒を記した。今日の《キネステシス (筋感覚) 》の概念は、クーベルタンの《筋肉の記憶》に近い概念である。彼は、スポーツ的身体運動の心理的記述を試み、こうした方向での研究が「精神と筋肉の結婚」を成功させ、教育学の古い百科全書的知識観を変革させる道であると信じていた。彼のこの発想は、ジロドゥー(J.Giraudou, 1882 - 1944) モンテルラン (H.de Montherlant, 1896 - 1972) プレヴォ (M.Prevost, 1901 - 1944)等のスポーツ作家協会 (Association des ecrivains sportifs) の結成を促し、スポーツ文学を発展させた。とりわけプレヴォは、キネステシスの記述ということに挑戦している。
このようなオリンピズムの文明観は、やはり西欧中心主義の臭いが残り、アジアやアフリカ、南米をも包摂する地球的文明観の標題として相応しくないかも知れない。この点、スポーツ教育学は教育学ならびに歴史学の今後の研究対象となり得るものと言えよう。
彼の改革思想は『21年間のキャンペーン』 (Une campagne de vingt-et-un
ans, 1906)、 『公教育ノート』 (Notes sur l'education publique, 1901)、
『20世紀の青年教育』 (L'education des adolescents au 20e siecle, 3 vols.,
1906-1915)、 『スポーツ教育学』 (Pedagogie sportive, 1922)、『世界通史』
(Histoire universelle, 3 tomes, 1926) 他膨大な著述の中に一貫して認められ、スポーツによる青年教育、成人教育を改革目標とするフランス教育学の知識観と道徳観への根底的挑戦である。スポーツ教育学とは、このような彼の改革思想を意味するのであって、スポーツの教育方法学を意味するものではない。
クーベルタンのスポーツ教育学の歴史的意義は、究極において、今日の体育理論の存在理由の見直しを要請している点に求められるであろう。そのことは同時に、今日の教育学の存在理由の見直しをも要請しているのである。体育学の問題をクーベルタンほど大胆に、教育目的論として主張した近代人は稀である。
彼は大学の授業科目の中にオリンピズム論が加えられることを念願していた。今日、それはさほど困難な問題ではなくなっている。しかし、彼の望みをさらに現代的に解釈すれば、オリンピズム講義は歴史学講座の授業科目のひとつとなるべきものであろう。この事実から、クーベルタンのスポーツ教育学は、近代的職業観の変革の問題とも深い関わりを持っていると考えられる。
学校教育の総体の中で体育が今後も、高度な専門的知識の土台(身体)のための健康・体力の形成に安住し続けるなら、われわれはロック (J.Locke, 1632 - 1704) やルソー (J.-J. Rouseau, 1712 - 1778)の時代の近代教育学を一歩も出ないであろう。教育学がこれに暗黙の了解を与え続けるのであれば、教育学は近代の身体観・知識観・道徳観を一歩も出ないことになろう。クーベルタンは、新教育運動における児童研究に疑問を呈し、青年教育ならびに成人教育の重要性を主張し、近代教育の百科全書的知識観に対する新しい知識観を《ネオ・アンシクロペディズム》 (Neo Encyclopedisme)と表現した。そこには、高等教育の知識主義、科学主義への批判が含まれている。高等教育は、学問的位階にもとづく社会=職業的位階そのものの生産現場であり、すべての学校教育階梯における教科がこれに連動している以上、高等教育に至るこうした青年の社会=職業的形成の過程において、体育が何らかの職業的展望を持つ教科であってもよいのだ、ということを示唆しているように思われる。学校における社会科の教科内容でも、職業観の形成と関わって、スポーツの職業に関する知識を指導すべきであり、また、歴史教育の中でも、人間の社会=職業的活動分野としてのスポーツ的専門職業の過去を明らかにし、人類社会におけるその文明形成の役割を指導するところまで行かなければならないのではないか。
この点では、かつてのクーベルタンの中等教育改革論の中に見られた職業観は、すでに過去のものとすべきなのである。彼は、知識観の変革と道徳観の変革を改革の柱とし、スポーツをめぐる技芸観を解体させることに成功したが、このスポーツそのものを社会化する過程のつぎに、社会化されたスポーツが種目別に個別発展し、新たな社会=職業分野を確立する過程については、大衆スポーツの腐敗現象といった消極的な面についてのみ注目する傾向があった。彼はスポーツ競技者の専門的トレーニングを批判し、スポーツ心理の研究の重要性を主張するために、スポーツ生理の研究を批判した。彼が、スポーツの腐敗として認識していた事象は、必ずしもスポーツの専門家の出現と結びつけられるべきものとは言えない。また、スポーツ競技者の筋肉トレーニングと一義的に結ばれるべきものともいえない。一方では、クーベルタンは、周知の通り、5人の専門家が驚異の記録を樹立するには、結局、100人の愛好家が必要だとも述べているのである。
クーベルタンは明らかに、スポーツの専門家をめぐる論議において矛盾を来しているのである。クーベルタンのオリンピズムが、しばしばアマチュアリズムと混同されてきた背景には、このような彼の職業観から生じるところのアマチュアリズム批判の曖昧さに求めることもできよう。彼はアマチュアリズムに疑問を感じていたが、彼の文明史観をもってしても、それを克服する職業観の提示は見られなかったのである。
この意味において、現代のスポーツ教育学は、クーベルタンから一歩前進して、スポーツをめぐる職業観の変革という課題を追求すべき時代にきている。今日の種目別国際スポーツ組織の発達は、以上の歴史的文脈から見ると、スポーツの社会=職業的集団の発達過程であるかのように見える。しかし、個々の集団の経済的基盤はまだ脆弱であり、その社会=職業的機能を強固なものとするには、スポーツに対する教育観よりむしろ、スポーツをめぐる職業観の広範な変革過程が介在しなければならない。
クーベルタンは、スポーツ文明史の叙述の中でアモロスのジムナスティーク普及運動の非永続性に疑問を呈したが、そのアモロスから約1世紀、今度は、クーベルタンが、次の世代に教育学の課題実現を託さざるを得なかった。スポーツ教育学はオリンピズムとなって、クーベルタンの願いを、アジアの今日のわれわれに伝えようとしている。
スポーツ性と教育学の結婚はまさに21世紀の研究課題だというべきであろう。
(完)
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