「スポーツ史への現代的視角」11、13 体育の科学(1988.9 & 1989.2)連載

クーベルタン、その虚像と実像

1. はじめに 7.出生・先祖・家族
2.フランスの動向 8.学歴・研究歴
3. ドイツの動向 9.トーマス・アーノルド論
4.アメリカの動向 10. 教育改革とオリンピック競技会の復興
5.マルクス主義の動向 11. スポーツ心理学とスポーツ教育学
6.今後の展望 12. 限界と超克、現代オリンピズムの課題

1. はじめに

 わが国でクーベルタンについて論じる人々の関心はこれまでアマチュアリズム論ないし近代スポーツ論と結びついており、スポーツ社会学的視点からクーベルタン思想の現代的是非論が行われてきたと言ってよかろう。私事にわたるが筆者は1960年に東京教育大学で今村、岸野両恩師から卒業論文のテーマにこの人物の著書『実用体操』を与えられて以来、その教育学的観点を追いつづけ、特に初期の業績について成果のいくつかを公表してきた。(1)
 その間つねに感じてきた素朴な疑問は、クーベルタン自身の自伝的回想録である『21年間のキャンペーン』(1909)に記述されている事柄とオリンピック競技復興の父としてのクーベルタン像とが随分違っているのに誰もこれを問題にしないということだった。(2) カール・ディーム編・大島鎌吉訳の『ピエール・ド・クベルタン、オリンピックの回想』 (S.37.)は上記の知識があったので非常に面白かったが、フランス体育史の知識の乏しい一般の読者には可なり理解の困難な部分が多かったはずである。
 要するにクーベルタン自身の見解をそっちのけにして (あるいは、アマチュアリズムと一緒にもう役割が終わったといった見解も見られた) オリンピック関係者のクーベルタン像が前面に出ていることは、初学の筆者の目にも明らかだったということである。言い過ぎになるかも知れないが、近代スポーツはクーベルタン抜きで、あるいは歴史的事実認識抜きで今日の盛況を享受しているようにも筆者には思われた。これを川の流れにたとえて表現すれば、クーベルタンは平行して流れる〈近代スポーツ〉という大河と〈近代教育〉という大河の間に〈オリンピズム〉という名の運河を開くことによって、二つの流れの相互交流を実現しようとしたという比喩が成り立つ。(3)
 ピエール・ド・クーベルタンに関する研究は主として〈オリンピズム〉ないしオリンピック精神の普及運動の関心から、国際オリンピック委員会の内部組織である国際オリンピック・アカデミー(IOA) に結集する研究者たちの手ですすめられてきた。わが国でも日本オリンピック・アカデミー(JOA) が中心となって、IOA セッションへの参加やオリンピック事典の編纂などの対応の努力が認められるが、クーベルタンについては残念ながら大筋において旧来のクーベルタン像を踏襲している。

2. フランスの動向

 フランスではクーベルタン自身を含む20世紀初期の体育方法の派閥争いのあおりで、クーベルタンの業績評価は歴史研究としては長い間低迷をつづける。(4)しかし、クーベルタンの原典の復刻という点ではフランスの貢献は否めない。すでに同時代のジロドゥーやモンテルランらの文学作品(5) にはクーベルタンの〈オリンピズム〉を支える思想が読みとれるし、このスポーツ文学の伝統は戦後も、セネイ、エルヴェ共編『ムッシュー・ド・クーベルタン』(6) やヴィアラールの『若いスポーツ人への公開書簡』(7) などに認められる。1966年のエイケム女史の『ピエール・ド・クーベルタン、オリンピック叙事詩』(8) もノンフィクション作品としての性格が濃厚である。この作品は未公開史料の発掘による新しいアプローチを示唆した点で、その後の研究を刺激した。1975年のブーロンニュの博士論文『ピエール・ド・クーベルタンの生涯と教育学の業績』 (9)はエイケム女史の史料源を上回る根底的な史料収集作業に基づく信頼性の高い人物研究であり、教育史の分野に属する。この論文は、後述のごとくその後の西欧のクーベルタン研究に重要な変化をもたらす契機となった論文であり、豊かな教育的人間観に基づくスポーツ・フォー・オールの思想を未来のスポーツのために説いている。
 ブローニュはつぎのように述べて、これまでのオリンピック運動の中でのクーベルタン研究に不満を呈している。

 「どれもこれも同じ間違いを繰り返しているのではないかと考えたくなる。誠実な気持ちは良いとしても、通説を鵜のみにし、批判精神を疎かにした誤った独断的前提によって現状維持と神話のでっち上げが行われる。すなわち生身のクーベルタンからオリンピズムを抜き取り、これに哲学的粉飾をほどこし、彼をその教祖にするといった一種のクーベルタン神話が作られるのだ。」(p.17)

3. ドイツの動向

 西ドイツではカール・ディーム研究所のクーベルタン関係史料編纂が強力に推進されてきたことはわが国の関係者にもよく知られている。1975年のミュラーの博士論文『国際オリンピック・アカデミーにおけるピエール・ド・クーベルタンとカール・ディームのオリンピック思想の成果』(10)によれば、1960年代以降約150ものドイツ語の大小論文が発表されているという。ミュラーやレンク(11)ユーバーホルスト(12)らはクーベルタンのオリンピック競技会復興計画にオリンピア遺跡発掘事業が影響したと見ている。概してオリンピック運動の発起人としてのクーベルタンの個人的役割は否定的に論じられる傾向が見られる。古代オリンピア祭典競技の禁止から近代オリンピック競技会復興までの年月にヨーロッパで行われた多くのオリンピック競技の企ての事実を報告した1974年のレンナルツの論文(13) もこの意味でクーベルタン研究に重要な変化をもたらしたものの一つと言えよう。同じ路線で、クーベルタンのオリンピック競技会復興の着想を可能にしたイギリスのオリンピア競技会の組織者ウィリアム・ペニー・ブルークスに関するリュールのごく最近の研究(14)も注目される。
 上記ブローニュはディーム没後その業績を正当化するための保証人としてクーベルタンが利用されているとしている。しかし、西ドイツのクーベルタン研究はカール・ディームの貢献を抜きにしては語れない。その意味で今後のカール・ディーム研究が注目されるところである。すでにリュールとラーチによるディームの手記についてのごく最近の共同研究(15) なども出はじめている。一方では、リゼロット・ディーム女史の『クーベルタンの哲学におけるオリンピック思想』(16) のように、ブローニュの研究を補足する教育学的視点からの研究も発表されている。

4.アメリカの動向

 アメリカ合衆国ではクーベルタンとオリンピック競技会に関する論文が数多く提出されているが(17)、クーベルタンの人物研究は数少なく、1962年のルカスの博士論文『ピエール・ド・クーベルタンと国際オリンピック運動の草創期』(18)ならびにその後の論文(19)の右に出るものはなかったと言ってよい。しかし、1981年に出版されたマカルーンの博士論文『この偉大なシンボル、ピエール・ド・クーベルタンと近代オリンピック競技の起源』(20)はアメリカ合衆国のみならずヨーロッパにおけるクーベルタン研究にも波紋を投げかける話題作である。マカルーンはきわめて客観的にクーベルタンの言動をその時代の社会的文化的関係の中に位置づけながら、これまでの定説を覆すクーベルタン像を描き、オリンピック競技会の復興はクーベルタンのライフワークではなかったこと、オリンピック競技会の構想はそれまでヨーロッパ諸国の地方的スポーツ競技会によくこの名称が用いられた事実からしてクーベルタンの独創ではなかったこと、弱冠24歳の若者がこのような巨大な事業を思いついたことの無鉄砲さ、学生スポーツ組織化のやり方のまずさ、トーマス・アーノルドについて故意に誤解していること、など指摘している。残念ながらマカルーンの研究は歴史研究方法を無視している嫌いがあり、心理分析による人物描写となっている。ミュラーはマカルーンの研究を問題提起として高く評価しながらも歴史研究として批判的見解を表明している。(21)しかし、この論文もまた従来のクーベルタン像を虚構としクーベルタンの実像に迫ろうとしている点では、クーベルタン研究の時代の趨勢を見事に表現していると言えよう。ミュラーはまた、アメリカ青年に対するクーベルタンの期待の高さについて、特にルーズベルト大統領との往復書簡などを手掛かりにして描き、クーベルタンの教育学関係の業績がほとんどアメリカでは知られておらず、オリンピズムを考察する論点として、個々のスポーツ種目の平等性、エリート主義、高度スポーツとレジャー・スポーツの相互関連性、調和の理念としての芸術とスポーツの結合などが取り上げられていないと指摘し、クーベルタン研究におけるヨーロッパとアメリカの協力が不十分であると論評している。

5. マルクス主義の動向

 マルクス主義のクーベルタン像にも変化が現れてきた。この立場からは、クーベルタンはブルジョア・スポーツ運動の推進者としてその現代性を問われるてきた。ブレーム(22) はクーベルタンの帝国主義的植民地人種差別論や不平等肯定論と普遍主義、世界主義をうたう世界教育改革構想や人類平和のためのスポーツ国際化の企ての矛盾を、多くの引用に基づいて批判している。クーベルタンのこの側面に関する限り、ほとんど数行を費やすこともないほど事実はきわめて明白であり、従来そのように扱われてきた。しかし、矛盾の大きさが業績の大きさを立証するという観点からクーベルタンをもっと精密に読むという作業が進んでいるという点で、ここでも〈クーベルタン神話〉の崩壊への変化が認められる。東ドイツのアイヒェルの最近の論文『教育家、歴史家としてのピエール・ド・クーベルタン』(23) は更に積極的に初期の『21年間のキャンペーン』のスポーツ教育学の構想と晩年の『世界歴史』や労働者教育改革構想、地方自治体による古代ギュムナシオンの復興計画を、失敗であったけれども意志強固な一人の共感すべき人間の歩みとして統一的に評価しようとしている。なお、これらのクーベルタン晩年の活動についてはすでに前述ブローニュ論文にすべて展開され、その後の多くのクーベルタン研究の中でも触れられている。

6. 今後の展望

 以上がクーベルタン研究の最近までの変化のあらましである。〈クーベルタン神話〉を暴くという言葉がブーロンニュ論文に登場して以後、1980年代に入って、オリンピック競技復興者としてわれわれが共通に理解してきたクーベルタン像は変わりつつある。
 1986年3月ローザンヌで開催された国際シンポジウム「ピエール・ド・クーベルタンの現代理解」は、ここ20年来のクーベルタン研究の成果を一堂に集める記念すべき会議であったと言えよう。上記の多くのクーベルタニストたち、ならびに各国のクーベルタン研究者がこの会議に参加している。このシンポジウムの提唱者サマランチ会長はクーベルタンの業績には可なり隠された部分が多いことを認め、「伝説は真実に歩みを譲る」と開会の挨拶で述べている。(24)
 クーベルタンの実像に迫る研究が盛んに発表されるようになった理由は、ある意味では国際オリンピック委員会のアマチュア観の崩壊に求められる。その経緯は関係者周知のことであり、あらためての解説はここでは不必要である。しかし、重要なことはアマチュアリズムに代わる何らかの秩序原理が現代スポーツに必要であることに変わりはないという点である。
 このシンポジウムを機会に『クーベルタン著作選集』(25)の出版が報告された。これは今年になってわが国でも販売されている。体育史史料編纂の歴史から見ても重要な企画であり、今後のクーベルタン研究の必須の基本的史料と言えよう。ベルナール・ジレの文献目録とカール・ディーム研究所の史料目録を手掛かりとして1万3000頁(再録されたものを含めると6万頁)に及ぶと見積もられるクーベルタンの全著述を探索・収集し、最終的に約3000頁にしぼって分類項目別に編集している。
 クーベルタン研究は史料編纂の状況から見てもオリンピック運動との関係が最も濃厚であるが、そのオリンピック運動自体が新しいクーベルタンの実像の認識によって変わって行かなければならないのである。上記の史料収集と編集を行い、シンポジウムを運営したミュラーは「重要なことは、単に近代オリンピック運動の創始者の価値を評価するだけでなく、彼の人間像の総体ならびに何よりもまず、残念ながら余りよく知られていない彼の教育家としての業績を評価することである」と述べて、この会議に対して教育学的な方向性を求めている。(26)
 スポーツ人は競技成績やそのためのトレーニングだけでなくスポーツという社会的文化的事象の成長に全体的責任を持つことによって、初めて自己の領域の自立を手にすることができる。わが国にはまだそのような観点でスポーツを見る習慣が乏しいのではないだろうか。
 蛇足ながら、日本のオリンピック運動、特に日本オリンピック・アカデミーにとって今後の国際的研究水準に追随するためにも、わが国でも早急に重要論文ならびにクーベルタン著作選集の翻訳出版に対して何らかの先行投資を呼び掛ける必要があろう。
 クーベルタンはこうして、ようやく歴史研究の客観的対象となり得たのである。その意味で今後スポーツ史研究の任務は大きくなる。

(続く)
冒頭へ

注 (前編)

冒頭へ

 前回はクーベルタン研究の発展の現状を報告した。今回はその後編を書く機会を与えられたので、前回紹介した研究成果のいくつかを踏まえて、クーベルタンの〈実像〉とまではいかないまでも新しい〈解釈〉の可能性を探って見た。紙面の都合で思い切って枝葉を省き要点のみに限定しなければならない。なお今回の典拠文献の引照は前回のものも含める。

7. 出生・先祖・家族

 ピエール・ド・クーベルタンは1863年の元旦生まれであることはよく知られている。出生に関する知識は最近ナヴァセル(ピエールの姪の息子)によって、パリ市史料館蔵の出生届が公開されたので確認できる。(27)
 クーベルタン家の先祖は遠くローマ時代に起源を持つとするディームやルーカスの説は史料批判によって疑問視されている。家紋の判定によって確定しているのはルイ11世によって1477年に爵位授与されたピエール・フレディー・ドラモット以降の10代程度である。(28)
 ピエール・ド・クーベルタンの私生活についての史料は乏しい。エイケム(前掲書)は親族からの聞取り調査やクーベルタン自身の手記などをもとに幼少年時代から結婚にいたる彼の私生活を描いているが、肝心な叙述部分は秘密史料の引用が多くこれを裏づける立証や証言などは得にくいという。エイケムが引用した手記は親族が抹消したらしい。(29) 1895年アルサス出の外交官ギュスターヴ・ロータンの娘マリーと結婚、二子をもうけたが家族の詳細についてはエイケム以後、黙して語られぬ傾向がある。(30) 二人は新居をフランドラン通り10番地のアパルトマンに設け1921年までそこに暮らす。(31) 1915年のIOC関係文書はローザンヌへ移転され、彼は1917年頃からローザンヌ滞在が多くなり、最終的に1921年パリの家を処分して一家はここに永住した。(32)
 一家の財政は、オリンピック運動を推進するための支出に加えて、1917年の革命により「資産の半分が......特にロシアの借主たちと共に証券取引所で失われ」危機に瀕した。(33)晩年の窮状については事柄の性質上触れられることが少ない。クーベルタン自身、1935年には筋を曲げて自ら給与生活者の身分を求めたが実現せず、1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季大会の折には、各国NOCに対する寄付の呼掛けなどの救済活動が起こった。わが国にも呼び掛けがあったかどうか興味深い。1937年8月5日付遺言書につぎのようなくだりがあるという。
 「残りの財産で、公共の福祉と教育のシンポジウムのための企てを続行してきたので、わたし個人の資産はこれからの最後の数年の財政的逼迫を支え得る状態ではなくなっている。」(34) クーベルタンの蔵書は1944年夫人の依頼により売却された。その際、書籍組合が作成した全73頁の目録があるという 。(35)
 1937年9月2日ジュネーブのラグランジュ公園での散歩中のクーベルタンの死について新しい事実は報告されていない。一家はローザンヌ市が譲渡したボア・ド・ヴォー(Bois de Vaux) に埋葬されている。(36)

8. 学歴・研究歴

 ピエール・ド・クーベルタンの少年時代、母の郷里ミルヴィルでの生活が彼の性格と才能を形成したことは、多分に推測をともなうけれどもエイケムやブーロンニュが親族の言明等をもとに構成している通りとするしかない。(37) しかし、ピエール・ド・クーベルタンの学歴については若干の訂正を要する。
 彼はパリのマドリッド街のイエズス会系のコレージュ・サンティグナス (聖イグナチウス校) で中等教育を受けた。(38)彼はカロン神父の薫陶を受け、19世紀フランス中等教育の伝統となっていたギリシャ・ラテン語学習を中核とする人文科学教育 (いわゆる古典語教育) の課程を修めた。この種の教育課程は生活に役立たない教育として、教育内容、学校管理など種々の面から19世紀末に批判される。クーベルタン自身も主としてその学校管理の陰湿さを批判することから論壇に登場するが、古典語教育の教養は生涯にわたって彼の言論活動のベースとなっている。この古典的教養とミルヴィルでの性格形成がオリンピック競技会復興計画の発想の原点だと言われている。(39)
 1880年17歳で卒業後サン・シール士官学校へ手続きしたが、入学して間もなく辞めて、しばらく〈浪人〉(40)しながら"Ecole supérieure des sciences politiques"(41) のアルベール・ソレル、ルロワ・ボリュー等著名学者の講義に通っていた。(42) その間、テーヌ『イギリス・ノート』やヒューズ『トム・ブラウンの学校生活』を読む。そして、1883年英国に旅立ち、帰国後、パリ大学法学部で勉強したがこの方面には興味が持てずこれも放棄した。(43) この事実を覆す反証は誰も提出していない。したがって、クーベルタンは正規の高等教育をきちんと修了していないことになる。彼の最終学歴は中等教育修了証 (大学入学資格証) "Bachelier ès lettres"までである。(44)現代日本のわれわれの学歴社会の常識からすると驚嘆すべき事実だ。
 1883年の訪英から1887〜8年の言論活動の開始までの期間に、クーベルタンはもう一つの重要な勉強をしている。それはフレデリック・ルプレという社会学者の研究方法や社会観とその社会改良運動への応用ということである。(45) この勉強の成果はこれまでほとんど無視されていたが、1886年11月から1888年10月までの2年間にクーベルタンが公にした著述16編の内5編を除いたすべてが『社会改革』というルプレ門下の学術・社会運動団体である社会経済学会の機関誌に掲載されている顕著な事実に注目しなければならない。1888年に出版された処女作『イギリスの教育』は、この期間の彼の社会学的研究のまとめであり、トーマス・アーノルドへの心酔はこの研究活動と切り離すことができない。そして、この初期の勉強の成果は終生変わらぬクーベルタンの信念となる。ルプレとアーノルドは「今の私が感謝を捧げたい恩師であり、この二人の師には言葉に尽くしえぬほどの恩を受けた」と晩年のクーベルタンは記している。(46)しかし、クーベルタン自身の言論活動の中ではルプレの名よりもアーノルドの名の方が出てくる頻度が高い。特にスポーツを論じる場合、ルプレはほとんど無関係といってもよい。晩年の彼の言葉の意味するところは、それでもなおルプレはクーベルタンにとって重要な思想的原点であったということである。

9. トーマス・アーノルド論

 クーベルタンとトーマス・アーノルドの関係は、歴史的事実と解釈という歴史研究上の難問の好個の事例であろう。事実関係としては1830年代(アーノルド時代)とその後の19世紀後半(ヒューズ、キングズリー等弟子たちの時代)を比較すると、スポーツによる社会性の育成ということがパブリックスクールの特徴となるのは後半期であり、アーノルド自身の〈筋肉的キリスト教精神〉は必ずしもクーベルタンの理想化したような、ボールゲームなどの近代スポーツの導入を意味しないことがマッキントッシュ(47) 以来指摘されてきた。クーベルタンのアーノルド像と学生スポーツ観は、主としてこの後半期の弟子たちのアーノルド評価(『トム・ブラウンの学校生活』もその一つ)の上に築かれたものである。これはほぼ確定的な事実と考えてよかろう。(48)
 しかしクーベルタン研究の側から注目できることは、彼がアーノルドの弟子たちの言説を手掛かりにした(49) としても、彼はルプレのカトリック的家父長主義の社会観とともにアーノルドのキリスト教的社会観を十分に自分のものとしていたという点であろう。阿部(50) によれば、アーノルドの社会観の中には労働者教育への展望を可能にするキリスト教社会主義の理論的基盤が認められるという。後にクーベルタンが労働者教育にまで構想を拡大していった思想の源流もそこにあるのかどうか、興味深いテーマである。クーベルタンはこのような初期の社会科学的な勉強の成果から出発し、当時のフランス教育界の動向に影響され、一つの社会の秩序の確立という課題から人類的秩序の確立という改革構想にまでその思想を発展させた。

10. 教育改革とオリンピック競技会の復興

 1884年ソルポンヌ大学大講堂から近代オリンピック競技会のその後の発展については『21年間のキャンペーン』と『オリンピックの回想』の中に、クーベルタン自身が詳しく報告している。この企てはクーベルタンにとって《二重括弧》つきの教育改革運動の方策だったということである。(51)
 彼の方策の全体像を単純化し図表に示すと下のようになるであろう。

 目 的 人  間  社  会  の  変  革  ( 調  和、秩  序、平  和  の  確  立 )
 対 象   フランス社会のエリート   国  際  社  会   人類・民衆社会
 目 標   学校教育・体育界   スポーツ界   社会教育 (界)
 手 段   学生スポーツの組織化   オリンピック競技会復興   スポーツの大衆化
 論 点  校長たちのアーノルド化   スポーツの人間化   生活のスポーツ化
 著 書   『イギリスの教育』   『スポーツ心理学』   『UPU報告』 

 実際は必ずしもこのような明確な区切りが認められるわけではないが、おおむね左から右へ時代が経過している。〈著書〉の項は、参考までにこの区分を代表すると思われる著書を付記した。〈論点〉の項も同様に、参考となりそうな標語を筆者の判断で掲げたまでである。
 この全体像が完結されるのは1925年のIOC委員長の辞任後1930年代にかけてであるが、クーベルタンはすでに1915年の『20世紀の青年教育』によって知育の改革、徳育の改革を含む構想を明示している。1901年の『公教育ノート』がフランス教育制度の問題点の指摘であるとすれば、これはその改革の具体的提案であり、クーベルタンの著作全体の中で最も重要なものの一つと言えよう。
 このように、クーベルタンの方法論は彼が選択した人生の課題と密着したものとなっている。これが全体として〈クーベルタン教育学〉とでも呼ぶべき社会運動論を構成していると言えよう。オリンピズムはスポーツにおけるその具現化である。
 オリンピック運動の中ではこの方法論は極端に言えばほとんど理解されなかった。1894年の会議から1897年ルアーヴル、1905年ブリュッセル、1906年パリ、1913年ローザンヌと続く初期のオリンピック・コングレスの議題はこの方法論に則した彼の教育観の具体化であったけれども、彼と〈スポーツ界の友人たち〉の間には常に微妙な、あるいは顕在的な食い違いがあり、クーベルタンは随所にそれを意識していた。(52)
 オリンピック競技会復興の事業に取り掛かるためフランススポーツ競技連盟(USFSA) を退く際、強い慰留に対してクーベルタンは、「思うに友人たちはわたしが連盟というものを体育促進運動の単なる一章と見なしていることを理解しなかった....」と述べている。(53) そしてオリンピック競技会復興の会議に際して、「誰もわたしを理解していなかった。それは完全な、絶対的な無理解であり、その時に始まって久しくずっと融けないものであった。..... このことが、わたしを孤独でやり場のない立場に追いやった..... 」と回想している。(54)これは運動を推進するための財源のことを心配している件だが、彼の悩みは単にお金の問題だけではなかった。この節の直後にスポーツ界のトレーニング観を心配している部分があって、"psycho-physiologique"という語が出てくる。これが彼の方法論のキーワードの一つとなっている。

11. スポーツ心理学とスポーツ教育学

 クーベルタンの教育目的論はルプレの社会改良運動とアーノルドの筋肉的キリスト教精神をモデルとして形成されたが、その教育方法の理論化は〈スポーツ心理学〉と彼が呼ぶスポーツ研究の新しい観点によって可能となる見通しだった。すでに1901年の『公教育ノート』で、身体トレーニングの役割は〈思考〉と張り合うことではない、  「支配者の名誉は〈精神〉にしかない」と述べてスポーツの心理学的分類法なるものを提案している。(55)さらに1905年の『実用的ジムナスティーク』では〈筋肉の記憶〉という概念を用いて、何にでも役立つ一般的合理的身体トレーニング方法論の〈幻想〉を批判している。

 「そのような動きは明確な目標がなく、人生の何らの確固たる必要にも対応していない。どんな活発な筋肉といえども、こうした人生の必要に対してはそれ自体では無能なのだ。イニシャチブだけは筋肉に与えようとしても与えることができない相談なのだ。筋肉は習ったことを繰り返すだけで、自分みずからは何をすべきか気づくにいたらない。筋肉の教育は一言でいうと徹頭徹尾、記憶をどうするかの問題なのだ。....」(56)

 〈イニシャチブ〉とは行動における意志の発現を意味し、ここでは〈動作〉と〈行動〉を結合する概念として用いられている。しかしクーベルタンの場合、もっと上位の概念〈私権の行使〉という法的・社会的行為の意味をも含んでいる。この語はクーベルタンが好んで用いた語であり、初期の中等教育改革運動に関わっていた頃の著述の中には〈私的イニシャチブ〉 (進取の気骨) という語が盛んに出てくる。ここにルプレの影響が及んでいる。彼のスポーツ心理学は始めから道徳観念の形成と深い関わりを持ち、人間社会の変革という目的と結びつけられていたのである。

 「(スポーツにおける専門的動作の学習は比較的容易であり、その限りでの人間の 〈道徳的筋肉づくり〉musculature morale de l'homme は可能だが)困難はそれをあらゆる状況、あらゆる目的にまで拡張すいることだ。それには〈習慣〉から〈意志〉への転換が必要なのだ。」(57)

 1910年にもスポーツによる道徳形成の可能性とその困難性を論じている。(58)
 この研究課題は1913年のオリンピック・コングレスと『スポーツ心理学試論』によって一応まとめられる。大戦勃発直前に開かれたオリンピック競技会復興20周年記念会の演説では、スポーツは知的陶冶と道徳的陶冶の比類なき奉仕者であり、筋肉と思考の絶縁関係や不安定な関係をつくりだす現代の文明状況の中でますますその重要性が明らかになってきたと述べ、スポーツの「心理生理的」("psycho-physiologique")な要因が社会の機能全般の活性化に及ぼす影響力や政治・外交の平和にまで言及している。(59) この少し前に『オリンピック・レビュー』に掲載された記事では「スポーツを極端な生理学に閉じ込めることは根本的に間違いである。スポーツ的作品は何よりもまず心理学の問題である。チャンピオンをつくるのは時には生理学的条件であるかも知れないがスポーツ人をつくるのは第一にその精神性(mentalite) だ」と、明確に生理学偏重を批判している。(60)しかし、運動生理学の学説についてきちんと整理しているわけではない。1919年の『スポーツ教育学』は人間の知的認識・道徳的判断・社会的行為とスポーツ活動の関係をまとめた概論書である。

 「意識の検証は人間にとって道徳的向上の真に唯一の手段であり、スポーツはそれを一つの試練の庭のようなものとして持っている。そこでは習慣はたやすく必要な行為を取り入れる。ここにこそ非常に大きな結果が期待できるのだから、教育学はこれを利用すべきである。」(61)

 このように、クーベルタンはスポーツ心理学研究の重要性を指摘している。それは体育界の方法主義への強烈な批判(62)であると同時に、スポーツを教育学として論じる必要性の自信溢れる提案となっている。彼はこの方針でスポーツの技術も心理現象として記述することに留意している。『オリンピック・レビュー』に掲載された数えきれないほどの小さな記事の多くはミュラー等によってクーベルタンの筆であることが判定されているが、それらの多くにみられるクーベルタンのスポーツ各論は、今日流のバイオメカニクス的な記述ではなく、優れて運動主体の心理描写が中心となっている。それ故、彼のスポーツ各論一方では心理=運動学への可能性を指し示し、他方では文学的性格を示すのである。
  スポーツ技術の記述が文学的性格を帯びることは、彼の心理学重視の考え方の必然的帰結であり、これを追求して行くことによってスポーツ文学という領域の可能性が現れてくることを示唆している。この面でもクーベルタンは目立たぬ先覚者であろう。

12. 限界と超克、現代オリンピズムの課題

 以上のようにクーベルタンの教育改革の方法論は最初から人間の内心の問題と深く関わっている。オリンピック運動の展開は以上のような彼の教育学の実践活動の一つであり、この〈クーベルタン教育学〉と不可分であることが分かる。
 しかし彼の改革論と運動は、ブルジョアの非革命的自己改革をめざすものであり、ブレーム (前掲書) の指摘するように帝国主義的植民地政策に加担する言説や社会不平等論などが認められる。ブーロンニュはクーベルタンの社会観の限界をいたるところで指摘する一方、クーベルタンが晩年に示した労働者階級への期待を証明するいくつかの未公開史料の分析によって、クーベルタンは政治思想の創始者ではない(とりわけ社会主義について無知)が、社会的公正、個人の自由、文化的平等ということに関心のある政治家や教育家に対して、ヒューマニズム、国際的行動の大きさ、教育への信念を身をもって示した点で「解放者」だ、と述べている。(63)リユーはクーベルタン教育学の特質を「統一体としての人間全体をめざす人間主義的教育学」であるとし、その調和的人間観 (ユーリトミー) を重視している。(64)
 クーベルタン教育学は、心理学と倫理学を柱にするヘルバルトの古典的教育学に対して、大胆にもそれまで娯楽か力競べにすぎなかったスポーツを押し立てて、文化人類学的遊戯論の基礎よりはむしろ、古代ギリシャ文化を模範とする文明史的スポーツ文化論から、教育学におけるスポーツの市民権を主張する。オリンピズムはスポーツの倫理綱領ではなくクーベルタン教育学におけるスポーツ的倫理学のようなものと考えられる。ブーロンニュの指摘しているように、その心理学自体も不十分なものにすぎないかも知れない。スポーツは「自然ではない」と言う彼は、発達の観念を抜きにして直ちに青年の〈意志〉による自然の克服を楽観的に提案している。だがその意志は一体どこから来るのか。クーベルタンの場合それは人間性への全幅の信頼から来る。この人間愛をおいてクーベルタン教育学はない。ここに彼の欠点と魅力が同時に認められる。
 クーベルタンの限界を指摘することは容易である。彼は時代に忠実に生きた。しかしクーベルタンの改革構想は、体育からの教育学への歴史上はじめての(あるいはグーツムーツ以来の)提言と考えて見れば(それは聞き届けられなかったにしても)近代教育の誕生この方教育の〈下請け〉としての方法にすぎなかったこの分野の面目を一新する提言ではなかったか。
 クーベルタン教育学は「未完成交響曲」(65) である。『スポーツ教育学』はその譜面の一頁である。今日の学校教育は、いまだに知識中心主義を出ていない状況の中で、統合的価値というものを持ちえない状態にまで多様化し平準化している。しかし、いやしくも教育の名において、何らの秩序も志向しない営みはない。オリンピズムという理想主義的教育論もやはり現代教育に対して一つの価値であることに変わりはない。この意味においてオリンピズムを教育学から論じることこそ今後の研究の課題であろう。(66) このことは現代のスポーツ管理者や研究者たちにとって重要である。クーベルタン研究は今後ますます精密の度を加えていくものと思われるが、その際わが国のクーベルタン研究は欧米の水準をめざしながらも、彼らの複雑な利害(67)にとらわれることなく、独自のアジア的解釈を示すべきであろう。それは今後クーベルタンをどう読むか、また、いかにしてクーベルタンの原典翻訳をすすめるかにかかっている。
 さいごに『21年間のキャンペーン』の結びの言葉を掲げて稿を終えたい。

「ここまで読みすすんで下さった注意深い読者の皆さんに私の考えのすべてを述べ、昨日までの歴史を明日への計画につなぎとめることが皆さんへの私のつとめであろう。これまで述べた事柄のすべては一個の全体を形づくっているのです。....... 現在注目されているすべての改革の中でも青年教育をめざす改革は最も緊急である。そう信じるが故に、私はそこにすべての努力を傾注してきたのです。私が間違っているかどうかは未来が語るでありましょう。」(68)

(完)1988.12.8.

冒頭へ

注釈・引用注

冒頭へ クーベルタンのページへ 清水重勇のホームページへ