ロンドンのど真ん中、スミスフィールドの名高い市からほど遠くないところにこの名を冠した学校が建っている。1371年、ペストで亡くなった人々の墓を移葬した場所に修道院(「チャーターハウス」)が建ち、1611年、ヘンリー8世がこれを世俗化して教育施設にした。創設者は、奇妙な一団の「楽しい学問」を学校の40人の少年たちにほどこした。この一団は80人の貧乏な境遇の老人たちで、学校は彼らの救護所となっていた。
伝統の精神は時に日常の精神に堕落したが、1872年まで、この汚染された環境の中で不幸な子どもたちを守りつづけた。そして、ある日突然、移転が行われる。チャーターハウスはサリー伯爵領のゴダルミングで快復期を迎える。そして今では、イギリスの学校の中でも一番活気があり、盛んな学校の一つとなった。
この学校のことで大したことは言えない。たいしたことを知らないのだ。わたしはそこを訪問せず、この学校で育った友人のアルバムで写真を見ただけなのだ。もちろん、それは最も完璧な記録だった。これらの写真には広い建物、庭、芝生、樹木の茂る川岸のプール、川の上に連なる小型カヌーなどが映っていた。そしてさらに、大きく膨らむ気球を取り巻く幸せそうな人間のグループ、あるいはインデアンのトマホークのようにラケットを振り回している人間のグループも映っていた。
この二つのグループが特にわたしの注意をひいた。その一つは、毎年開かれる大射撃競技大会での学校の名誉を守るためにウインブルドンへ出かける予定のチャンピオンたちの集まりだった。ほとんどのカレッジがこの大会に選抜選手を送っている。勝者たちはどんな交通手段で戻ってくるのだろうかと、私は考えた。— もう一つのグループも、とても特徴的だった。それは「消防隊」だった。私の友人は、昨年、チャーターハウスでの滞在の折、この消防隊に参加したことを誇りに思っている様子だった。
そう、最も強く最も賢い生徒たちから選ばれた任意の消防団である。なにしろ、そのユニフォームはエリート中のエリートのものなのだ。きっと先生たちはこの勇敢な若者たちがあまり力を発揮することを許さなかったし、その勇敢さを慎ませることを知っていた。しかし先生たちは若者たちが足を水に漬けたり、夜中にもし火事があって呼び起こされることを心配しなかった。そのために若者たちのコンクールは有益なのである。いずれにせよ、誰もこの団に生徒を参加するよう強制しないし、参加する価値があると思った生徒たちは両親の許可なしに参加する。チャーターハウスの「消防隊」は何度も高く評価される仕事をしている。他のどのカレッジでも、この種の仕組みがあるとは聞かない。それは問題のあるものであり、最初はそうだと思われていたにしても、ここでは最も尊敬すべき考えとされたのである。
1886年12月、「ヘッドマスターたち」の最近の会合が開かれたのはチャーターハウスだった。次回1888年12月はウインチェスターとなっている。「パブリックスクール」の76人の校長がこの会の会員であり42人が召集された。この会議で問題となった改革は原則として教授方法と入試方法に関するものであった。ユークリッドとギリシャ語は、もっと新しい教科書で幾何学を学ぶべきであり、ホメーロスに関する語学の勉強の開始は早すぎると、もっともな理由で考える校長たちによって粉砕されてしまった。ラテン語文法の改善と統一化についても論議された。また、大学当局に対して、もう少し現代語への配慮をして欲しいという要望がなされた。
要するに、「ヘッドマスターたち」はこのような審議会を開き、自発的にみずから、有益な役割をはたす教育審議会を構成している。なぜなら、それを自分の学校の教師にすべて任せれば、教師は相互理解と共通の行動の場、互いに知り合い相互啓発をする機会、いろいろなカレッジの間の比較の可能性を提供するからである。いうまでもなく、この会合についてわたしが高く評価することは、公式の委員会がないということと政府による中央集権化が見られないということだ。