今日われわれが「ジムナスティーク」と呼んでいるものは、軍事技術の変容と科学の進歩という19世紀の二重の現象の中から生まれた。近代の戦争は個々人の強さよりも、むしろ集団の規律を要求する。これはイエナ以降、プロイセンをその再建と報復準備の行動へ導いた原理である。一方、衛生学者たち、中でも最も著名なスエーデンのリングは、人体がその器官の秘密を次々と漏らしてくれるのだと考え、最高度に完成された人体を人為的に作り上げるという思想に向かった。そしてドイツに特殊な目的、すなわち兵士養成の手段としてのジムナスティークが出来上がった。また、スエーデンに局部的な目的、すなわち健康の回復ないし維持の手段としてのジムナスティークが出来上がった。
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バゼドウのデッサウでの創始は失敗したことは先に述べた。1784年、彼の弟子ザルツマンは同類の計画による学校をゴータ郊外に創立し、ここで1785年から1839年までグーツムーツが指導した。彼の職務の最初の日々に、グーツムーツは彼のシステムをつぎのように定義した。「青年のレクリエーションと喜びのために戸外作業」。その後にも、彼は「肉体完成を目指す運動訓練の総体」と定義している。さらに後には「真のジムナスティークは生理学に基づくべきものであり、あらゆる運動は個人の身体的特殊性に従って規則化されるべきもの」と宣言している。グーツムーツのこの段階的経過から彼の思想的発展が分かる。しかし奇妙なことには彼のジムナスティークは彼の思想の発展と歩みを揃えていない。変わったのは精神だけで形式は同じだった。彼が生徒たちにさせた運動訓練はまさにスポーツだった。棒跳び、競走、レスリング、重量挙げ。リズムを伴う歩行と「振動運動」だけは、それまでにない新しい道を示している。
1804年からグーツムーツは将来の順良な兵士養成を目的とする学校への義務的身体訓練の導入の有効性をプロイセンの大臣マッソウに勧告した。この有効性はやがて承認される。シャルンホルスト、シュタイン、フンボルトらは好意的であったが、かれらは気持ちの上では共感しても何ら具体的法令を出さなかった。1809年にブラウスベルクに最初のツルネン場を開設したのは私的な秘密結社だった。
2年の後、ヤーンはもう一つをベルリン郊外のハーゼンハイデに開設する。彼はその時33才で、きちんとした学業を履修せず大学を転々とし、彼の果たすことになる役割を思わせるような状態ではなかった。肉体の訓練についても彼自身の趣味として非常に強かったわけではない。しかし彼の熱血と創意に富んだ気質はミリタリズムに対して段々と反抗的になっていった。一方ミリタリズムは彼の思想のすべてを確立し集中させた。何故なら彼はミリタリズムの中にゲルマンの民族復興に必要な道具を認めたからである。彼の愛国主義の表明は最初は風変わりなものであった。ヤーンは彼の弟子たちに特別な服装をさせ、古いチュートン語で喋る習慣を復興し、「9・919・1519・1811」という数字の暗号を彼らの合い言葉とした。これはヴァスルの荒廃の年、トーナメント競技のドイツでの始まりの年、トーナメントの終わりの年、ベルリンのツルネン場の創設の年をそれぞれ意味していた。この象徴主義は当局の話題となり笑われたが、大衆的な成功を獲得した。1813年と14年の戦いではヤーンとその生徒たちは勇ましく闘ったが、運動はその後明確な姿を見せ、愛国運動団体としての性格を帯びる。こうしてブレスラウでカトリックやプロテスタントの信者たち、生徒や先生たち、軍人や市民たちがツルネン場に一緒に通った。
1819年、コッツェブーがあるツルネン団員の手で暗殺されると政府の姿勢が一変しヤーンの仕事を阻害した。激しい反動政策がとられヤーン自身も拘禁された。 1 ヤーンのツルナーたちは追放され22年後の1842年まで姿を見せなくなる。この学校の創設者は1852年まで存命したが、彼の生活や影響力、信用はついに回復しなかった。彼は1848年のフランクフルト議会で目立たぬ役割を果たしている。彼の最後の著述はこの頃に書かれつぎのような言葉で結んでいる。「ドイツ統一はわが幼少期の夢であり、青年期の朝の光りであり、男ざかりの頃の燦然たる陽光であった。それは未だわが永遠の眠りの入口でもわが歩みを導く夜の星である。」
1.ヤーンの他にリーバーという弟子も逮捕されている。この人は釈放されてからアメリカへ渡り1827年、ボストンのジムナスティーク学校を指導した。
1860年以降、普及運動は勢いを盛り返す。1861年ベルリンでの大会参加者は6千人、1863年のライプチッヒの大会参加者は2万人、1864年の会員数は17万名、1896年にはそれが55万名となる。 1 ツルネン協会全体の組織化は全ドイツに及び、ドイツ領オーストリアをも含んでいる。この国は15のブロックに分けられていた。各協会には14〜17才の部と成人の部の二つがあり、それぞれ身体能力によってグループ分けされている。運動内容としては、ほとんどグーツムーツ、ヤーンが指導したようなものとは似ていない。 ヤーンはたしかに「人間本性から奪い取られた均整を回復すること」を目標としていたが、一方ではツルネン場のことを「騎士道の競い合いの場」であるとしている。このまさにスポーツ的な観点は失われた。ドイツ・ジムナスティークは結局アドルフ・シュピースから出たものである。彼は1830〜48年ギーセンを振出しにダルムシュタットにおいて指導していた。彼はまさに一斉運動の考案者というか推奨者である。そこから彼はグーツムーツとヤーンの思想をすべて自分のものとした。彼は自分の目的を達成するのに適すると思われる道具を活用した。
1.正しくは、これらの数字の内には名誉会員が多数含まれていた。
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リングの生涯はどう見ても、ドイツ・ジムナスティークの先駆者たちの生涯と同じではない。彼の波瀾に富んだ人生の最初の部分は伝説に飾られている。青年期に入るや否やリングは学業を捨てヨーロッパを遍歴し、いろいろな職業、召使、通訳、コンデ軍の雇兵などなどを転々とする。17才の時、とにかく彼は故郷に戻りルント大学からウプサラ大学へ移って神学を修め、1801年のイギリスによるウプサラ攻撃の折りには防衛軍に入って闘った。彼は、コペンハーゲンに剣術道場を開いていた二人にフランス人移住者から初めての剣術のレッスンを受け、この運動訓練が彼の持病である痛風の類の病気の治療によいことを知った。一方彼は、グーツムーツの弟子の一人で、少し前にデンマークにジムナスティーク学校を開設していたナハテガルの指導を受けた。これが恐らく彼の生涯の仕事の出発点であったろう。
事実、彼の職業決定の要因は彼の性格的要因よりもむしろ環境要因であった。何故なら奇妙にも「科学的」ジムナスティークの創始者は真の意味での学者ではなかったからだ。彼は、言わば空想家、経験論者あるいは詩人と言った方がよかろう。彼の出版物は2500頁あるが、その内ジムナスティーク関係の論述部分は400頁に過ぎない。彼の体育関係の仕事ではシャルル14世(ベルナドット)とオスカー1世によって援助されている。また彼が北欧神話や伝説の価値を高めることに努力したというスカンジナヴィア主義で認められていたことも、彼の仕事を助けている。長い間、彼は一つの新しい体育方法の創案者だと考えられてきた。ところが彼はグーツムーツならびにナハテガルの体育方法の普及者に過ぎないのだ。彼の「生命の三根源力」の学説なるものは独創的であるけれども不完全なものである。この学説によれば、人体内部において神経系統が力動的役割を、血液循環が化学的役割を、筋肉系が機械的役割をそれぞれ果たしている。この三つの生命力は「互いにせめぎ合って」表出する (現象する) と言う彼の説であるが、何故「せめぎ合う」必然性があるのか十分な説明がない。「機械的因子の表出が優勢になると化学的要因の病気を起こし、化学的要因がまさると力動的要因の病気になる」などと言うのである。
スエーデン・ジムナスティークは徒手のジムナスティークであるということが言われている。実際、器械がないことが長い間その主要な性格だった。ところが、リングが器械を排除した動機はもっと下世話なレベルの判断だった。その理由は、器械購入・保守に金がかからないこと…特別な設置場所を考える必要がないこと…一人の教師が沢山の生徒を同時に指導できること…などなどであった。リングは器械を用いない運動訓練によって個人の身体的特異性へのよりよい対応ができ、生まれながらの硬さや不器用さを克服できると付け加えている。しかし身体的特異性への対応という点はいささか不確実であるし、硬さ・不器用さの矯正という点はそれほど重要なものとは思われない。
リングの表明した思想だけが評価に値するのであれば、彼を今の状態のスエーデン・ジムナスティークの父であるとするのは無理だろう。しかしリングは1814年創立以来25年の間、ストックホルムの学校を指導した。そこに彼の一貫した業績がある。彼の思想はそこで形成された。彼の創設した伝統は時を得て繁殖した。だからこそ彼の「システム」が誕生したのだ。私にとってこのシステムは一つの公理のようなものであり、それはどこにも採用されていないけれども私には至るところに内在しているように思えるのである。「人間とは己自身の機械と不可分に合体した一人の機械技師のようなものであり、人間はそれを動かすこと維持すること修理することを学ぶ義務と可能性を持つ。」これら三つの目標に向かってスエーデン・ジムナスティークではすべてが集中している。いろいろな動作は「自然的」すなわち各部位、各筋肉、各繊維組織の目的〔=機能〕に合致していなければならない。この主要な配慮に続いて運動訓練は更にあらゆる誇張を避け均整と調和を保つように「処方」されなければならない。そしてこの均整ならびに調和が乱れそうになったら、「姿勢」「矯正」運動、マッサージなどで回復するよう訓練しなればならない。テルングレン教授は現在ストックホルムの学校の校長としてこの体育方法の精神を要約しつぎのように述べている。「訓練は自己自身のために行うのであって他人との比較のために行うのではない。」等しい力を与えられていない機械の間に比較ということは成立するかということだ。
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こうした諸方法の支持者たちの取っておきの実験場となるのはアメリカ合衆国に温存されていた。そして、現在のところ、いろいろな動向を把握し進歩を追跡することがよりよくできるのは何処にもない。南北戦争以前、北米は体育の面では言わばまだ処女地であった。1825年頃、とりわけニューイングランドでは、体育問題の論議がとても流行していた。その結果、たくさんの著述やいくつかの創設があった。しかし、10年後には公衆の注目はほとんど完全にこのこの問題から離れた。1830年から1860年の間を占める世代はまったく別の関心があった。この世代は、著名な政治家たちの長広舌や宗教運動家の陰気で病的な弁舌の虜であった。いたることこで人は喋り、ミーティングとかリバイバルが行われた。学生たちは散文や詩をつくって議論した。女たちは神経症だった。心霊術が行われ、反自然のセクトや子どもっぽい秘密結社が結成された。
戦争の終わりは誰も信じなかった。アブラハム・リンカーンがそれをリードするために現れるとは誰も知らなかったのだ。…戦争はアメリカ社会に健全な衝撃を与え、男らしい未来を希求させた。体育もこの恩恵を受けずにはいなかった。 1 この時期、すでに沢山のドイツ人がアメリカにいた。中でも1848年革命でドイツを追放された人々は、新世界にトゥルンフェラインを創設することに没頭した。それは彼らに、失われた祖国と彼らの政治的希望を同時に思い出させたのである。このトゥルンフェラインは数を増し、ついに今日、連合する州のほとんどに広がる大きな連盟である「北米トゥルナーブント」を結成するまでになる。まず何よりも、トゥルナーブントは、ドイツ人によって構成され、彼らの団体のいくつかは社会主義の政治分野に幾分巻き込まれながらも、アメリカナイズしていくと同時に、次第にその活動計画の技術面に限定する道に向かう。その主張するところの運動訓練は、彼らにとっては、帝政ドイツの建設に役立ったものであり、帝政の威光は当然、常に成功を求めるアメリカ人に影響を及ぼした。この同じ時期、両国の大学の関係は日に日にやむことなく緊密になっていった。ほとんどのアメリカの教授たちは、「学位取得者」かどうかは別にして、ドイツで数ヶ月の研修会を開いていた。彼らはドイツの大学の学位に好ましい共感の印象をいだいていた。これらさまざまな影響の複合的作用によって、軍事的ジムナスティークがアメリカ大陸の文明の中にかなり重要な位置を占めることになったと考えられる。
1.イエナとセダンはドイツとフランスに同類の影響を及ぼしたと言える。危機感と敗北感は常に肉体的力と鍛練の大切さを気づかせる。ワーテルロー以後のフランスがそうでなかったとすれば、それはワーテルローがこの国の力を汲み尽くした20年近い戦いの最終局面だったからであり、この国に安定した平和の建設を何よりも望ませたということである。
スカンジナビアからの移住者たちはリングの原理を普及させるほど沢山いなかったろであろう。それでも過去の事実があるにはある。なにしろ、デラウエア州のスエーデン人施設はがグスタフ・アドルフ自らの計画に影響されたオクセンシュティールンにまで遡るものである。この移住者たちは、スエーデン・ジムナスティークの国民的方法をアメリカに移植するには数において十分なものではなかった。それにこのシステムは非常に目立ちたがりのアメリカ人気質には合わなかった。現にこのシステムは、直截的な結果をもたらしうるような詳細な科学的研究からなり立っているのである。ところがアメリカ人が真に崇拝する科学と言えば、彼らはどんな些細なことであれ役立たぬものはないと考えるのであり、血球も小さな葉も共に強い関心をもって眺める。しかし彼らアメリカ人の根っからの性急さと豊かな想像力はすぐに上を求め、条件設定の不十分な観察結果から絶対的結論や一般的結論を引き出す。そしてそれをすぐに実際面に応用しようとするのである。
スポーツの方はといえば、イギリスにおいて全盛期を迎えていた。同じ頃アメリカの青年は武器を下ろして家路についていた。彼らは身体的努力の趣味と習慣を取り戻していた。母国イギリスと植民地アメリカの間には厳しい関係もかなりあった。しかし、イギリス文明はアメリカ人たちにとって何かしら魅力を与え続けた。オックスフォードとケンブリッジはアメリカの大学に影響を及ぼし続けた。アメリカの大学は比類なく見事なグランド、美しいプール、素晴らし剣術室、そして最良の競技者を持とうとしてきた。アスレティシズムは限り無く好適な普及の場を見出した。
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アメリカの経験から多くの重要な事実確認ができる。第一の事実は、これら体育方法の接触が今日まで相互に何ら結合する方向を見せなかったことである。われわれヨーロッパ人としては、すでに経験してきた事からそのことを予見出来た。一大世論を起こしたわけではないけれども、スポーツ家とジムナストの対決は厳しいものであったことにかわりない。専門紙はつい先頃まで激しい調子で攻撃し、人々はどちらかの陣営について論争した。この望ましくない習慣は完全に払拭されたわけではない。フランスで、ドイツで、スエーデンで、スポーツは正当な権利を獲得すべく激しい攻撃に耐えねばならなかった。スエーデンとドイツのジムナスティーク専門家たちの攻撃ぶりは最も激しいものだった。攻撃の火の手は、かの有名な「平行棒論争」となって1862年頃ドイツで上がった。ロートシュタインは当時、ベルリンのジムナスティーク学校(1851年創立)の校長であり、リングの篤い信奉者であった。彼はリングが推奨しなかった平行棒と鉄棒の除外を決定した。すると猛烈な反撃が起こった。ベルリン大学がこれに参入してきた。ヴィルヒョウやデュポアレーモンな高名な教授たちが平行棒擁護の陣営に並ぶ。平行棒の使用は擁護され、ロートシュタインは校長を辞任した。こうした事柄にからまってヨーロッパでは国家的感受性の敏感さが実際にある。アメリカ合衆国ではそれは見られない。あるいは見られても微弱なものに過ぎない。われわれヨーロッパ人はイギリス流、ドイツ流、スエーデン流というレッテルをスポーツや軍事的ジムナスティーク、あるいは衛生的ジムナスティークに貼りつけているけれども、アメリカ合衆国ではその意味の四分の三は失われる。しかしそれは和解が容易だということではない。それは言うなれば構造的な非妥協性であり、相互の犠牲ならびに重大決意なしには和解はありえないであろう。
もう一つの事実も興味なしとしない。それはスポーツ普及の形態がジムナスティーク普及の形態と全く異なるという事実である。スポーツの集団は一般に自然発生的であり、自分たちの運動訓練の実践をできるだけ容易にまた心地好くしよう思う若者たちの手でつくられる。逆にジムナストたちの集まりはほとんど例外なく上位の声、すなわち教授とか衛生学者とか愛国者などの声で結成される。要するにある人物が高邁な動機に促され、その名実で若者の善意が招集されるのである。前者の場合、互いに寄り集まるのは仲間であり、後者の場合、生徒たちが加盟し指導を受ける。組織形態の相違に加えて、両者はその習慣と傾向においてさらに異なる。スポーツクラブというものは、同質的・自立的であり、それに安住している。彼らを互いに試合させるには、規則で統一する必要がある。それでもなお上手く行くとは限らない。アメリカ合衆国ではアマチュア・アスレチック・ユニオン、全国アマチュア・ボート協会、アメリカ自転車連盟など、すべての競技選手、サイクリスト、オアズマンたちを統合するほどのものではない。こうした連盟はその規模が大きくなり過ぎると結束は破られることになる。ツルナーブントとか北米ジムナスティーク連合などジムナスティーク発展を目的とする団体はこれとまったく異なる習性を示している。これらはできる限り親密で頻繁な関係をつくろうとし、会議や大会などありとあらゆる種類の集会を重ね、より完全な和解をつくろうとする。要するにこれらの団体は団結をめざし、その実現を願っている。一方スポーツ団体の方はこれに反して独立を願っている。
前者は何か本能の産物であるのに対して後者は教義の追求の産物なのだ。だから前者の習性は脱中央集権化であり後者の習性は中央集権化なのだ。このことから結論づけることができるのは、ジムナスティークは自在に国家機構と癒着するがスポーツはそれを忌避し、大人物をもの笑いにするということだ。この問題には思いもかけぬ大事がからんでいる。身体的活動の形態の違いはかつてない程に文明世界を二分する政治・社会的傾向を象徴しているからだ。一方は市民の自立と自由ならびにその私的利益を保存しようとする。もう一方は、市民活動を制限し大規模な政府の樹立に役立つように導こうとする。古代人たちの「civium vires, civitatis vis」という言葉は二通りに解釈できるのである。
しかし、どのようにして国家は個人に最大の恩恵を与えることができるのか。これこそ民族や気候、環境、習俗を混乱させる最大の矛盾点である。形式にこだわる人々は非常に単純に取捨選択を行う。この場合、第一の方法はラテン系の人民に固有の方法であり、第二の方法はアングロサクソン系の人民に固有の方法である。この分類の仕方は、いずれにせよまったく不完全なものだ。何故ならヨーロッパだけ見ても、ラテン的才能とアングロ・サクソン的才能だけが存在するのではないのだ。その上これは正確ではない。私的イニシャチブは昔のフランスでは言葉として固まらなかったにしても、やはり大きな役割を果たしてきたのだ。私的イニシャチブはピエモンテで発揮された。おそらくスペインの一部でも見られただろう。その反対にアングロ・サクソン世界では民主主義の助けで、指導者としての国家のドグマは最近その地歩を得た。
真実は個人と国家の関係について対立的な二つの見解があるということだ。これら二つは共に古くからあり、共に究明される価値のある見解である。そして熱心な擁護者を集めるに値する見解なのだ。身体訓練の問題の中にこれら二つの見解の反映が認められる。
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アメリカ文明は一種の誇張傾向を持っていて、顕微鏡で拡大するように、目に見えない物事の詳細を見えるようにしてくれる。穏健な思想状態をよりよく理解するには、それを極端な肥大した状態において考えてみればよかろう。それを容易に見せているのがアメリカ合衆国である。とりわけ教育の軍国主義と「衛生主義」の対立関係という点で。
アメリカには沢山の教育施設が兵営を自認し、学則にも学校の主要な長所として兵式をうたっている。生徒たちが結成し指揮する大隊が沢山あり、彼らは南北戦争の元義勇兵の監督下に大真面目で演習をやっている。こういう学校制度から受けた私の印象を要約すれば、こうして学校生活の中に導入された軍国主義は、学校でたやすく青年期の玩具となり、教師の虚栄の温床となる、ということだ。そうでないという証拠は旧世界にも新世界にもない。勿論わたしはこうした軍国主義の学校、たとえばプリタネ・ド・ラフレーシュ(フランス)とか幼年学校などを一緒くたに疑おうとしているのではない。これらの学校では軍国主義を表看板にしていない。もっと真面目で合理的なものであり、将来の兵士の養成を目指している。わたしが心配するのは、太鼓、肩彰、ベルト、制服などどうでもよいものが大事にされ、それを優等生に着用することを許可する。敬礼や整列、点呼などが昇進の条件にされること... なのだ。こうした兵士の生活の外面的なものすべてが若者に適用されることによって、若者がそれを際限もなく楽しいことと考え、指導者が現状肯定を促す恐るべき手段とすることになる。軍規が形式的なものとなり愛国的必然性から切り離されれば、たちまち扱い易いものとなる。人間の企てというものは常に、説明することよりも指揮することが大事になる。統一性よりも全体を考えることが大事になる。各個独自に鍛えることを教えることよりも意志を屈伏させることが大事になる。この悪しき軍国主義が一般にジムナスティークの衣を着て隊列行進とか全体演習などの簡単にコレージュの中に入ってくる。これは何らかの措置をこうじる必要のある危険な傾向だ。
もっと奇妙な誇張は、弊害ではないにしても、アメリカで衛生主義によって生み出されている。衛生主義はグーツムーツは曖昧に触れているだけだが、リングの弟子たちが個人の計画的科学的発達によって達成される肉体改善とこれを結合した。衛生主義はハーバード大学の体育科の主任教授サージェント博士によって極限に達した。サージェントは正常人というものを構想した。つまり臓器の大きさ、力、比率の状態が自然の原初的計画のおける状態であるような人間である。沢山の原因がこの原初的計画を妨げる恐れがあるが、サージェントはそれを知り、予防できるものと考える。そのために、彼は人体の詳しい検査に熱中する。彼は人体をいろいろな測定機器で計り、特別な調書にして、その写しを検討する。 1 別の写しは彼のジムナーズの書庫に収められる。頭や膝の周囲、額の角度、四肢の長さなどを計測する。歯列や毛細血管を検査し、肺活量計で肺の容量を知る。脈波曲線を見て動脈の拍動の速度と強さを知る。心電図計で「生命の流れの時間」とか神経の作動率を知る。問診で係累を尋ね遺伝的傾向を教えるが、どれも生理学的には詳細であるけれども虚しいように思う。それは祖父や曾祖父の生活が重要なデータとなるのだが、家族の伝統が短い国としては有効なのだ。
1.10数年前にわたしがハーバードで見た計測では項目は58あった。
これらの資料の中には科学の進歩の水準がどんなに高くても、不明な点を除くとしても必ず不正確さや間違いのもとが含まれることになろうけれども、被検者の正常人との関係を曲線やイメージで教えてくれる。この曲線が正常な曲線からずれていれば、いろいろな器械で部分的訓練をして直そうとする。これは要するに飼育のようなものであり科学的推測の方法なのである。この種のしっかりした理論的基礎を持つ実践を認めることによって、どこまで行こうとするのか。強制にまで行きつくのではないか。最近のシカゴ「教育委員会」の決定では、市の学校長は男女生徒の各学期毎の計測を義務づけられている。これと同じ時期にかの結婚に関する法案がドイツの学者によって提出されている。これら二つのケースは、その意図はよい。公衆の健康の発達と予防だけを目指し、その結果として人類の幸福を目指している。但し人類ははたして、このような馬種改良の分野に移されることに適しているかどうか。こうした結果が文明の最終的な目的であるとしたら、人類は文明と抗争しないでこの馬種改良体制に順応するかどうか。考える余地がある。
© S. Shimizu, text traduit 1990, rév. 2004; 2005