近代オリンピック競技会100周年にちなんだこの特集号の冒頭に、このようなテーマで論考を展開できることは、筆者にとって望外の光栄であり、また、わが国のオリンピック運動の歴史にとっても有意義なことである。編集部が設定している内容にどれだけ応えられるか覚束ないが、よくこの種の企画に見られる公式的内容の繰り返しにならないように、少し大胆にこのテーマを解釈して問題提起をしてみたい。
オリンピズムがなぜ要請されたのか、その歴史的事実関係についてさまざまな解釈がなされてきた。その多くは、創案者クーベルタンの役割を削減しようとするものであったり、逆に彼の偉業としてのオリンピズムを過大に評価し、神話化するものであったり、また、そうすることによって創案者を神棚に上げてしまう結果を招いたりした。要するに、歴史的事実の解釈という点では、どれも踏み込みすぎの嫌いがないとはいえない。歴史とは皮肉なもので、ほとんど本人の意思とは無関係に本人を歴史的人物として存在させてしまう傾向がある。この意味では本稿もまたその誹(ソシ)りを免れない運命にあるというべきであろうか。クーベルタンは理解されることの少なかった教育家のひとりであり、彼のオリンピズムという思想は教育改革のために創案されたが、創案者の意図とは別の、思いもかけない偶然的条件の下で誤解されたまま現代に生き続けてしまった。筆者は「勲功」に憑かれた男の伝記 (1) ではなく《誤解された男》の物語を書くことに長年、非常に興味を覚えてきた。オリンピズムがなぜ要請されたのか、という設問は、なぜこの男の思想は誤解されたのかという設問を含むことになるであろう。あえて、このような奇妙な筋立てを徹底して追求してみることによってオリンピズムの歴史的成果を考え直すこと、そのこと自体がひょっとすると、きわめてクーベルタン的な思索に近いものかもしれない。
オリンピズムという用語は英語や仏語の一般辞書にも登録されていない。体育・スポーツ関係の専門辞典類にも記載は稀である。もちろん借用語として、まだ日本の現代語彙に定着しているとはいえない。しかし、オリンピック関係者と称される人々の間では耳にタコができるほど聞かされてきた言葉であろう。あるいはまた、体育学の関係者ならば、その定義の曖昧さに若干の不安や疑問を覚えながらも口にせざるをえない機会が多くなっていることは日常的に感じられる事実である。体育学の専門コースの授業科目にもこの言葉を冠したものが見られるようになった。いずれにせよオリンピズムは、現在の日本人にとってなじみ深い言葉として、その定義は別にしても慣習的に定着しつつあると言ってよいであろう。
この用語について明確な説明を行っているのは、勿論、JOC/JOA編『オリンピック事典』である。それによれば、オリンピズムはクーベルタンの『近代オリンピズムの哲学的原理』の中に表明された思想であり、「近代オリンピックの歴史においては十分な成功を収めてきているとは言い難い」が、「絶えず新しい時代のいぶきによってオリンピズムが問い直されていくことが近代オリンピックが有意義に存続していくために必須」であろう、ということである。
元IOA会長故シミチェク氏に関する田原(2) の研究によれば、オリンピズムは時代とともに多くの価値観を取り込みながら発展し、今日では教育的価値、平和的価値、達成価値、倫理的価値、宗教的価値などを含む複合的概念となっており、オリンピック競技会開催の時代や地域によって、これら価値観の間での重心移動をしながらも、オリンピズムは総体的に存続しているという。
わが国でも、平成2〜4年度にかけて、学会大会の体育史専門分科会のシンポジウムが取り上げた3年継続テーマ「日本におけるオリンピック運動の歴史」における研究協議の中では、日本にはスポーツ競技会としてのオリンピック競技会への参加運動は事実として存在したが、精神運動としてのオリンピズムなどは存在しなかったのではないか、という見解も表明されている。
たしかに1912年からのオリンピック大会参加運動や1940年の東京大会の計画以来、日本では近年でも、オリンピック競技会の招致運動は盛んであり、その反対運動やら消滅予測なども盛んであった。その中では、オリンピックという名のスポーツ競技会の開催や組織化をめぐる利害得失に関する論議が展開されてきたが、スポーツと人間を直接結びつけ、スポーツによって人間を語るというような切り口がどうも見えにくくなっている。飯塚(3) が回顧しているように「競技場外における本当のスポーツマンとしての人間的優位性(エクサレンス)への運動」としてのオリンピズムは存在しなかったと言わざるをえない。その反対に、オリンピックないしスポーツが人間の手の届かない巨大なものとなり、人間的な要素がうすれていくことによって、却ってオリンピックの正体不明の魔力のようなもの感じさせている。オリンピズムという言葉の背景にはまさにこうした状況が認められる。
また、オリンピズムは近代スポーツのあり方に関連する思想や運動であると、広く一般に解されているが、その大部分は知らぬ間にスポーツ・イベントのあり方に関する思想や運動だという理解になってしまう。しかし、創案者クーベルタンの願いは、オリンピズムとは、そのように解釈されるよりも、むしろ教育学のあり方に関する思想や運動であったと解釈されるべきものであって欲しいということだったのである。例えば、かつてのアマチュアリズム問題や現代のドーピング問題をめぐる世界の論議と対応を見れば、そのことがよく理解できる。これらの問題は、本質的に人間性の問題、つまり嘘とか偽といった人間的行為にまつわる道義的問題であるにもかかわらず、IOCのベレルでは、そうであるからこそ、これを予防し禁止する有効な手段の開発の問題としてのみ論じられ、対処されていった。それ故にこそ、スポーツのあり方論では、この人間の卑しさに対して厳罰を設けることによって、却ってそのルールに依存させる流れをつくり、心理的葛藤を低減させる方向でしかこの道義的問題を理解できなくしているように思われる。むしろ、ドーピングの事実を告白したある選手が、どんな手段を用いてもチャンピオンになりたいのだと嘯(ウソブ)くことで、彼の内心の真実を「正々堂々と」と吐露したことになってしまう、といった状況なのである。オリンピズムがアマチュアリズムとほとんど同義に理解されていた時代には、お金の問題が薬の問題と同じように危険視されていたのであるが、スポーツマンシップやフェアプレー精神といった倫理観が強調されればされるほど、アマチュア資格の失格宣告やメダル剥奪が強行されてきた。そもそも《スポーツ的なるもの》とは人間の自由、とりわけ心の自由に関わっているのであり、すでにクーベルタンは、人間の自覚の問題としてのアマチュアリズムに関して、守れる責任が持てないようなルールを制定することに大いなる疑念を表明していたのである。
オリンピズムは、現代では、クーベルタンのオリンピズムの発展的解消の傾向を見せつつ、IOC/IOAの多元的価値観としてのオリンピズムがあり、そして一般国民のオリンピック開催運動としてのオリンピズムなどが混在している状態である。このような情勢において、再びクーベルタンを持ち出すことは、かつてクーベルタンがオリンピック競技会復興を提案した頃に彼が感じていた「根本的な誤解」の状況を生み出すだけではないかという懸念もないとはいえないが、もしそうだとすれば、それこそ、そのズレを明確化することが、今再び求められていると言えるのではないだろうか。
クーベルタンが、どのようにしてオリンピズムの概念に到達したかについては、筆者はこれまでいろいろな書物の中で明らかにしてきたのであるが、先に本誌に掲載された拙著(『クーベルタン、その虚像と実像』)(4)(5)では、彼のオリンピズムの理論的実現形態としての「スポーツ教育学」の意義を明らかにし、オリンピズムを含む彼の理論の全体を「クーベルタン教育学」と名付け、結論として筆者はつぎのように述べておいた。
今日の学校教育は、いまだに知識中心主義を出ていない状況の中で、統合的価値というものを持ちえない状態にまで多様化し平準化している。しかし、いやしくも教育の名において、何らの秩序も志向しない営みはない。オリンピズムという理想主義的教育論もやはり現代教育に対して一つの価値であることに変わりはない。この意味においてオリンピズムを教育学から論じることこそ今後の研究課題であろう。この研究課題については、筆者なりに別稿(6) によって論述したものがあるので、以下はこれにもとづいて述べる。これは昨年のユニバーシアード福岡のCESU会議において筆者が口述した英文原稿に手を加えた内容である。クーベルタンの先駆的オリンピズムは、すぐれて歴史的視点を内包しており、まずは彼の歴史的視野に映じたフランス近代体育の理論的系譜を鳥瞰することから始めなければならない。
フランス近代体育の理論的変遷を検討すると、アンシャンレジーム末期から1820年代、1830年代から19世紀末、そして20世紀の最初の30年間の三つの時代に、身体観と技芸観の大きな変容が認められる。第一の時代には、哲学的身体観と百科全書的知識観が近世技芸観を解体し、身体教育の概念はアモロス (F.Amoros, 1770-1848) によってジムナスティーク教育学へと体系化された。第二の時代には、近代的ジムナスティークの組織発展が見られ、遊芸としての運動遊戯やスポーツの概念が曲芸忌避の教育的技芸観と近代科学の健康観の壁に阻まれながら、次第にジムナスティークと共存するようになり、やがて運動訓練の百科全書としての近代的ジムナスティークの運動訓練観が克服され、デムニー(G.Demeny, 1850-1917) の生物学的体育理論によって、静的な身体概念が動的な筋肉概念に置き換えられ、一層、人間の自由意志と接近した運動訓練の概念が模索された。第三の時代には、スポーツの概念が遂に、ジムナスティークと体育に並ぶものとなる一方、人間の自由意志の形式としての競争概念が教育学を捉え、競争と虚栄を固く結んでいた教育的技芸観の禁忌の絆が断ち切られ、スポーツ競技の周囲に新しい大衆的技芸観が生み出されて行く。クーベルタン(P.de Coubertin, 1863-1937) はこの渦中の人物であった。彼の《スポーツ教育学》はこの大衆的技芸観の成長に対して、文明史の視座から教育学における知識観の変革を要求した。彼はスポーツ概念の解放者であると同時に、20世紀の新しい知識観からのスポーツ競技概念の統合者たらんとした。
クーベルタンの文明の概念は、文化の高度化、技術化、都市化、社会組織の専門分化、階層化への連続的発展過程としての文明ではない。また、新カント学派の影響下に定着した物質文明・精神文化といった対立項としての反啓蒙主義的文明概念でもない。むしろ、彼が批判していたシュペングラー (O.Spengler, 1880-1936) の有機体的歴史概念に近い。すなわち、誕生・成長・衰弱・死という必然的過程をたどる歴史個体のように、脱西欧中心の世界観に近いものと言うべきであろう。しかし、クーベルタンには、そのようにして相対化された西欧文明に対して、シュペングラーのような《没落》という諦念がまったくない。彼は、啓蒙主義の蒙昧・野蛮・文明といった段階論的進歩観に立脚するフランス文明中心の単線的世界進歩の楽観主義と、その百科全書的知識観を根底的に批判するが、そのようにして相対化された地球上の一つの文明としての西欧文明に愛着を持ち、それを支えてきたヘレニズム的エネルギーの枯渇に潤いを与え、永続させる何ものかを積極的に探究した。(7)
オリンピズムとは、上記のような文明観から導かれた人間性(humanité)のスポーツ的側面を意味し、それはクーベルタンにとって単なる想念ではなく、実践であり勤行(ゴンギョウ) のようなものである。彼は最後に、これを《レリギオ・アトレタエ》(Religio Athletae)と言い換えている。それはどの文明にも認められ、受け入れられるところの、人間の本能の普遍的表出であるというのである。しかし、彼のオリンピズムは、彼の文明史観から見れば、一つの運動形態にすぎない。スポーツ教育学はオリンピズムを含むさらに地球的な人間の変革ということ、とりわけ知識観と道徳観に直結する《スポーツ性》(sportivité)の普及ということを要請しているのである。クーベルタンは、人間におけるスポーツ性の永続を文明形成力と見なした。クーベルタンの文明史は、地球という星の上に展開する民主主義の動的秩序の実現への永遠の歩みである。それは、さまざまな政治形態や組織形態があっても、すべては民主主義に向かうべきものと、彼は考え、しばしばこれを《ユーリトミー》と表現している。(8)
《スポーツ性》という概念は、クーベルタンにとって、歴史学の概念であると同時に、心理学の概念でもあった。彼はベルグソン(H.Bergson, 1859-1941)やフロイト (S.Freud, 1856-1939)の同時代人として、数学的機械観 (近代科学) に基づく体育学の身体トレーニング理論への傾斜に反対し、《筋肉の記憶》(mémoire des muscles) (9) という独自の概念によって、スポーツ心理の研究の重要性を示唆し、1913年ローザンヌ・オリンピック会議によってその端緒をしるした。(10)
今日の《キネステシス (筋感覚)》の概念は、クーベルタンの《筋肉の記憶》に近い概念であると言えないだろうか。彼は、スポーツ的身体運動の心理的記述を試み、こうした方向での研究が「精神と筋肉の結婚」を成功させ、教育学の古い百科全書的知識観を変革させる道であると信じていた。彼のこの発想は、ジロドゥー(J.Giraudou, 1882-1944) モンテルラン(H.de Montherlant, 1896-1972) プレヴォ(M.Prevost, 1901-1944)等のスポーツ作家協会(Association des écrivains sportifs)の結成を促し、スポーツ文学を発展させた。とりわけプレヴォ(11)は、キネステシスの記述ということに挑戦している。
このようなオリンピズムの文明観は、やはり西欧中心主義の臭いが残り、アジアやアフリカ、南米をも包摂する地球的文明観の標題として相応しくないかも知れない。この点、スポーツ教育学は教育学ならびに歴史学の今後の研究対象となり得るものと言えよう。彼の改革思想は『21年間のキャンペーン』(Une campagne de vingt-et-un ans, 1906) 、『公教育ノート』(Notes sur l'éducation publique, 1901)、『20世紀の青年教育』(L'éducation des adolescents au 20e siècle, 3 vols., 1906-1915)、『スポーツ教育学』(Pédagogie sportive, 1922)、『世界通史』(Histoire universelle, 3 tomes, 1926) 他膨大な著述の中に一貫して認められ、スポーツによる青年教育、成人教育を改革目標とするフランス教育学の知識観と道徳観への根底的挑戦である。スポーツ教育学とは、このような彼の改革思想を意味するのであって、スポーツの教育方法学を意味するものではない。
クーベルタンのスポーツ教育学の歴史的意義は、究極において、今日の体育理論の存在理由の見直しを要請している点に求められるであろう。そのことは同時に、今日の教育学の存在理由の見直しをも要請しているのである。体育学の問題をクーベルタンほど大胆に、教育目的論として主張した近代人は稀である。彼は大学の授業科目の中にオリンピズム論が加えられることを念願していた。今日、それはさほど困難な問題ではなくなっている。しかし、彼の望みをさらに現代的に解釈すれば、オリンピズム講義は歴史学講座の授業科目のひとつとなるべきものであろう。この事実から、クーベルタンのスポーツ教育学は、近代的職業観の変革の問題とも深い関わりを持っていると考えられる。
クーベルタンのオリンピズムは、オリンピック競技会ないしオリンピック・スポーツよりも教育学との接近の度合いが大きい概念なのである。ここに始めから誤解のもとが存在していた。
学校教育の総体の中で体育が今後も、高度な専門的知識の土台(身体)のための健康・体力の形成に安住し続けるなら、われわれはロック(J.Locke, 1632-1704)やルソー(J.-J. Rouseau, 1712-1778)の時代の近代教育学を一歩も出ないであろう。教育学がこれに暗黙の了解を与え続けるのであれば、教育学は近代の身体観・知識観・道徳観を一歩も出ないことになろう。
20世紀初頭に数多くの体育理論の刷新が行われた。中でもオーストリーの自然体育は、世界の体育方法の刷新に大きな貢献をしたと言われてきた。しかし、自然体育が人間の身体的自然性という概念にとらわれているかぎり、近代的哲学の枠を超えられないのである。それならば、クーベルタンの考え方に何か、それ以外の新しいものがあったのか無かったのか。
クーベルタンは、新教育運動における児童研究に疑問を呈し、青年教育ならびに成人教育の重要性を主張した。しかし、その現実はきわめて厳しい政治的対立の狭間におかれていたのであった。その状況の中で、彼は近代教育の百科全書的知識観に対する新しい知識観を《ネオ・アンシクロペディズム》(Néo-encyclopédisme)と表現したのである。(12)
彼はもちろんフーコーもブルディユーも知らない。しかしそこには、素朴なかたちで、近代的な知の問題性が提起されていないだろうか。彼は政治的利害を超えて高等教育の知識主義、科学主義への批判を行っているのである。(13)
彼の願望を現代の学校教育制度に映し出してみよう。高等教育は、学問的位階にもとづく社会=職業的位階そのものの生産現場であり、すべての学校教育階梯における教科がこれに連動している以上、高等教育に至る青年のこうした社会=職業的形成の過程において、体育が何らかの職業的展望を持つ教科であってもよいはずだ、ということを示唆しているように思われる。学校における社会科の教科内容でも、職業観の形成と関わって、スポーツの職業に関する知識を指導すべきであり、また、歴史教育の中でも、人間の社会=職業的活動分野としてのスポーツ的専門職業の過去を明らかにし、人類社会におけるその文明形成の役割を指導するところまで行かなければならないのではないか。
この点では、かつてのクーベルタンの中等教育改革論の中に見られた職業観(14)は、すでに過去のものとすべきなのである。彼は、知識観の変革と道徳観の変革を改革の柱とし、スポーツをめぐる技芸観を解体させることに成功したが、このスポーツそのものを社会化する過程のつぎに、社会化されたスポーツが種目別に個別発展し、新たな社会=職業分野を確立する過程については、大衆スポーツの腐敗現象といった消極的な面についてのみ注目する傾向があった。彼はスポーツ競技者の専門的トレーニングを批判し、スポーツ心理の研究の重要性を主張するために、スポーツ生理の研究を批判した。彼が、スポーツの腐敗として認識していた事象は、必ずしもスポーツの専門家の出現と結びつけられるべきものとは言えない。また、スポーツ競技者の筋肉トレーニングと一義的に結ばれるべきものともいえない。一方では周知の通り、クーベルタンは再三、5人の専門家が驚異の記録を樹立するには、結局、100人の愛好家が必要だとも述べているのである。
クーベルタンは明らかに、スポーツの専門性をめぐる論議において矛盾を来しているのである。クーベルタンのオリンピズムが、しばしばアマチュアリズムと混同されてきた背景には、このような彼の職業観から生じるところのアマチュアリズム批判の曖昧さに求めることもできよう。彼はアマチュアリズムに疑問を感じていたが、彼の文明史観をもってしても、それを克服する職業観の提示は見られなかったのである。
この意味において、現代のオリンピズムは、クーベルタンから一歩前進して、スポーツをめぐる職業観の変革という課題を追求すべき時代にきている。今日の種目別国際スポーツ組織の発達は、以上の歴史的文脈から見ると、スポーツの社会=職業的集団の発達過程であるかのように見える。しかし、個々の集団の経済的基盤はまだ脆弱であり、その社会=職業的機能を強固なものとするには、スポーツに対する教育観よりむしろ、スポーツをめぐる職業観の広範な変革過程が介在しなければならないのではないか。
クーベルタンは、スポーツ文明史の叙述の中でアモロスのジムナスティーク普及運動の非永続性に疑問を呈した。そのアモロスから約1世紀、今度はクーベルタンが、次の世代である20世紀後半のわれわれに教育学の課題実現を託さざるを得なかった。しかし、またもや誤解されるならまだしも、彼は無視されそうになっている。21世紀のオリンピズムが、この《誤解された男》を理解し、その望みを叶えるかどうか分からない。
以上のように、彼のオリンピズムを永続の相のもとに読み取ることができるとすれば、彼自身がオリンピズムにかけた願いの大きさが実感できるというものである。このようなクーベルタン的オリンピズムは、かつての彼の友人たちにも、現代のわれわれにとっても馴染みの薄い、理解しがたい概念であると言うしかない。しかし、21世紀へ向けての新しいオリンピズム観の構築は、オリンピズムが文明史的概念であるが故に、その作業には歴史的視点を欠かすことはできない。彼の《スポーツ性》という概念を今日的に考えるための糸口は、まず各自が《スポーツ的なるもの》とは何であるのかを、もう一度ここで真面目に自問してみることであろう。この問いは、迂闊には答えることのむずかしい問いなのである。
スポーツ性と教育学の結婚はまさに21世紀の体育学に求められている重要な研究課題だというべきであろう。
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