ギュムナシオンは裸を意味するギュムノスに由来する。しかし競技者たちはパンツを着けていた。パウサニアスは、パンツが脱げたため競走に負けた走者のことを述べている。ヴィトルヴィウス(*1)、セルスス(*2)、老プリニウス(*3) らはギュムナシオンという名称よりもパラエストラ (パレは闘いの意) という名称を好んだ。競技者という名称は報償を意味するアトロスに由来する。これは競争選抜、能力比較という基本的観念を明示している。
訳注(*1) : Marcus Vitruvius Pollio, 1er s.av.JC., né à Formies,ローマの建築家、"Sur l'Architecture".
訳注(*2) : Aulus Cornelius Celsus, 1 er s.av.JC.,アウグストス時代の医者、"De arte medica".
訳注(*3) : Caius Plinius Secundus, 23-79, né à Vérone ou à Côme, ローマの著述家、百科全書の1種である『博物学』の著者
ギュムナシオンは複数の建物と屋外空間の入り組んだ広い施設で一般に柱廊で囲まれている。剣術室、水理療法室、球戲室、会議室、棧敷、遊歩道、競技会場などすべてがギュムナシオンに含まれゆったりと配置されている。スパルタは女性たちが男性たちと同じ資格でギュムナシオンに入ることを認めるという独創性をも含めてもっとも完璧だったといわれている。このようなことは他の都市国家には見られない。
アテネのギュムナシオン、リセー、アカデメイア、カノープス、シノサルゴス (庶民、賤民、外国人、解放奴隷の通う施設) などが、コリントのクラニオンと同じく有名である。プラトンはアカデメイアで、アリストテレスはリセーで教えていた。勿論、小さな都市国家のギュムナシオンは平凡で簡略な規模で組織されていた。大規模なギュムナシオンの職員には普通ジムナジアルクと呼ばれる所長、アゴニスタルクと呼ばれる公式競技責任者、ギュムナステースと呼ばれる指導者ならびにその助手であるパイドトゥリベスなどがいた。施設ごとに医師が1名いた。
学科としてはギュムナスティケー (競走、跳躍、投擲、登攀、重量あげ) と剣術、レスリング、パンクラチオン、ボクシング、そして付随的に球戲と曲芸が含まれる。
古代の走者たちはかなりの水準に達していた。マラトンの戦いの前にアテネはスパルタに救援の使者を送った。走者フィリッピドはこの道のりを2日で走り抜いたという。アンティラスは3種類の走り方、前向き走り、後ろ向き走り、円形走り、について述べている。競走はしまいには貴族的スポーツ種目となったらしい。跳躍も同じであったらしいがほとんど史料がない。槍投げと円盤投げ (特に後者) は競技者の優雅さと美しさを高め、観衆の喝采を博し、優勝者は高く評価された。重量あげにはいろいろな形式があるが、それらは今日の重量あげと似たものではなかったらしい。一般に丸い大きなボールに把手のついたもの、あるいは長方形の物体に手を通す穴の開いたものであり、石も使用された。ハルテーレス (アロマイの、跳ぶ ?) は跳躍を加速するために用いられた。アリストテレスとテオフラストは、跳躍者がこれによって得る助力はかなりのものと見なしている。確かめた結果、非常に軽いハルテーレスで閉脚跳びでなければこの説は支持できない。
古代の剣術には金網のマスクがなかったので常に不利な条件があった。胸当てやフルーレ剣はおそらく代わりになるものがありえたであろうが、マスクの心配はしなかったようだ。シアマキア (文字通り影を相手とする剣術) とモノマキア (生きた人間を相手とする剣術) の区別があった。前者は空間に向かってあるいは地面に立てた棒杭のような障害物に向かって行われる。後者は木剣を用い、ほとんど単なるフェイント動作だけのものであった。
レスリングは近代人がやっているものとよく似ていた。立ちレスリングでは相手が3回倒れるかあるいは膝を地面につけて敗北を認めなければならない。這うレスリングは今日のグレコローマンスタイルよりむしろフリースタイルを思わせるもので、敗者が許しを乞うまで続けられた。
ボクシングは英国式ボクシングのようなもので裸の拳あるいはおそらく、不確かな点が多々あるけれども(1) 、衝撃を和らげるために何かで拳をくるんで行った。イリアドはパトロクロスの葬送のために開催された競技会の中でボクシングの闘いの場面を描いている。もう1つもっと詳しい話がエネイド (第5の書) にある。その中には今日のボクシングの戦法、特にスリッピング、が沢山出てくる。
注(1) : 古代人が拳をくるむことによって相対的に攻撃力を弱めるようなことは考えなかった、ということはありそうにない。実際、ボクシング用グラブの代わりに、たとえ不完全であっても、何かぶ厚いものを拳に巻きつけることはあり得ることだ。だからこのような方法は古代に必ずあった筈だ。
手皮の疑問についてこれまで随分議論されてきた。手皮は、鉛の薄板をつけた皮製の重いベルトで、これを拳や前腕に巻きつけるのだが、こうした装備によって闘いが出血を伴うばかりか死に到るものとなったに違いない。このような闘いは、19世紀イギリスの賞金ファイトがそうであったように、非常に稀であったことは確かである。もう1つ注意すべき点は、こうして重くなった拳は素早いパンチを打つ能力をまったく失うという点である。闘いは特にゆっくりした準備動作から繰り出す鈍重なパンチの打ち合いであったに違いない。したがって、避けることは容易だが的中しようものなら悲惨なことは明白だ。
まだ他にパンクラチオンがある。これはレスリングとボクシングの組み合わせで、ボクシングではおそらく近代の仏国式ボクシングのように相手と距離を保って足で蹴ることが認められていたに違いない。これらのスポーツはどれも乱暴なものだったことは確かだ。しかしガレヌスやヒポクラテスのような高名な医者たちはパンクラチオンを推奨している。プラトンもこれを重要視し女性にすらこれを許している。プロペルチウス(*) も、スパルタの若い女性たちは定期的にボクシングに熱中したと明言している。したがって、専門家たちが試合としてやっていた(1) これらのスポーツは彼らの弟子たちの大多数によって練習あるいは「攻撃の型」としてのみ行われたということを認めなければならない。「パンチングボール」がギリシャ人に知られていたことを忘れてはならない。これは穀物または砂を詰めた大きな袋 (コリコス) で、これをトレーニングないし訓練の器具として用いる者の力に応じて異なる。
注(1) : エウリピデスは悲劇作家となる以前にボクシングの優勝者だった。
訳注(*): Sextus Aurelius Propertius, 53-19 BC. メナビア生まれ、ローマ詩人
ギリシャのスポーツの全てではないにしても、その多くは難度を高めることに関心があるように見える。一方、近代スポーツは競技者の努力を容易にしようとしている。われわれはそうすることによって動作をより完全なものにしようと考える。彼らは動作をより活発なものにしようと考えていた。走者のために砂の走路を用いシンダートラックを用いない。跳ぶために鉛底のサンダルを用い超軽量のシューズを使わない。すべてかくの如くである。現代のボクサーが手皮を使えばそのフォーム(forme) を損なう。ドイツ式の細身の決闘剣はフルーレを使えなくする。しかし、「過重」理論(*)はある面ではたして正確さを含まないかどうか、それは今日でもなおその有益な応用の必要がないかどうか、考えられてしかるべきだ。
訳注(*): "théorie des inpedimenta"この用語は『実用的ジムナスティーク』の中にも出てくる。
ギリシャ人のスフェリスティークはあらゆる球戲を含む。それらは無数にある。
ボールの大きさ、ルールはそれぞれ無限に異なる。但し、ラケットに関するかぎり古代では用いられなかったようだ。球戲のすべてが伝統的なものではない。指導者たちは彼らの顧客を満足させるために頭をひねって新しく発明し、あるいは既存の球戲に手を加え改良した。こうした球戲の流行は集中的であった。とりわけ子供たちと成人たちに集中した。マルシャル(*)のつぎの詩句はそれを証明している。
"Folle decet pueros ludere, folle senes."
若者たちは逆にこれを競技として不十分なスポーツである考えて軽蔑した。
一方、オルケティークはダンス全体を含む。しかし当時この語は今日と同じ意味を持っていなかった。アリストテレスはダンスを「さまざまな形とリズムを持つ身振りによって性格、情念、人間の行為を翻訳する術」と定義している。ジャック・ダルクローズのリトミークはおそらく非常に正確なその観念を与え得るものである。
訳注(*) : Marcus Valerius Martial, vers 43-104, né à Bilbilis (Espagne), poète satirique latin. "Epigrammes".
以上が要するにギュムナシオンで教えられていた学科である。
© S. Shimizu, text traduit 1990, rév. 2004