おそらくオリンピック競技会の創設はアルフェの谷の最初の所有者だったピザトに負うている。しかしオリンピアードの数の始まりはエリスの王イフィトスがリクルゴスと条約を締結し「聖なる休戦」(1) を競技会周辺に打ち立てた日からである。オリンピアード第1年は紀元前776年である。ほぼ12世紀の間、オリンピアードはどんな大事件にも乱されることなく規則正しく祝賀された。テルモピレーの戦いの最中にもギリシャ人たちはオリンピアに参集した。しかし時には紛争が起こったこともあった。オリンピアード第8年(紀元前 748年) の場合ピザトがエレー人たちの指揮を再び取った。オリンピック第400年 (紀元前 364年) には聖なる休戦が破られもした。その時から都市国家エリスが祭典競技会の運営を引受け、エリデは中立不可侵地域となった。
注(1) : この条約の条文は円盤に刻まれて紀元後2世紀にはまだオリンピアにあった。
初期のプログラムにはほとんど徒競走ばかりで、180bのスタディオンの長さでスピードを競った。(1) これに次々と、折返し走、長距離走 (約4600b) 、5種競技 (708 年) 、4頭だて戦車競走 (680 年) (2) 、パンクラチオン (648 年) が追加され 632年から子どもの競走、そして396年から美術コンクールが加えられていく。 伝統に忠実であろうとして長い間プログラムを1日で終わらせようとこだわっていたようだ。しかし472年の競技会はもう日暮れ前まで終了できず、とうとう5日間の長きに及んだ。いずれにせよこのことは、選手たちの数が非常に多かったのではなく彼らの専門化が極度に達していたことを物語っている。(3) 5種競技の出現はスポーツ史上に「複合スポーツ」を導入した。その種目は競走、レスリング、円盤投げ、跳躍、ボクシングである。ボクシングは後に槍投げに替わった。得点制ではなく5種目を1位で次々に突破しなければならなかったらしい。
注(1) : 「スタディオン」の長さは距離の単位であるが、長さに違いがある。オリンピアのスタディオンの他にアッティカのスタディオン、アジアのスタディオン、ヘロドトスのスタディオン、クセノフォンのスタディオンなどがあり、147 bのもの、周回コース、157 bのものなど...
注(2) : 戦車競走に続いて子馬競走やラバ競走も行われた。もしやオリンピアでは畜産の問題が何らかの役割を果たしていたのではないか。
注(3) : サラミス沖海戦に参加したその偉業をヘロドトスが報告している有名なクロトンのタイロスは跳躍の優勝者の1人で、他に5種競技にも競走にも勝っている。これは明らかに稀な例である。クロトンの跳躍の推定記録はほぼ 16.30bとされているが、これは一種の3段跳びと考えられる。
オリンピック競技会の選手は民族、社会、道徳、技術のすべての面で資格審査された。純粋なギリシャ民族であること、犯罪も不敬虔な言動も冒したことがないこと、そして1旦候補者として「承認」されたならば十ヶ月のトレーニングの後、エリスにおいて競技会に先立つ30日の講習を受けなければならない。この資格の認定条件には段階がある。近代人はそのことにまったく気付いていない。最初、ドーリア人、エレー人、アルカディア人だけが参加を認められた。オリンピアード第1年の競走の賞はエレー人クロエボスが獲得している。しかし紀元前7世紀の半ば以降すべてのギリシャ人の参加が認めらる。一般的にローマによる征服まで参加者はギリシャ人だけである。チベリウスは非ギリシャ人では初の優勝者 (戦車競走) である。オリンピック第290年 (385 年) は最後から2番目のオリンピアードとなるのだが、この時のボクシングの勝者はアルメニアのある王国の王子である。
ここでオリンピック競技会の式典や祝典について詳細に立ち入ることはできない。宗教と芸術と哲学的象徴あるいは愛国的象徴などが絶えることなく支配し、ギリシャ都市国家の基礎となっていたすべての感情とすべての慣習がその高まりを見せるのである。歴史家はこのヘレニズムの祭典についてどんなに研究してもし過ぎるということはないだろう。
オリンピック競技会は398年テオドシウス帝の布告によって廃止された。勝者としてのキリスト教はこの競技会を異教の制度と見なしたのである。426年、テオドシウス2世は神を冒涜する布告によって寺院と施設の倒壊を命じた。しばらく後にアラリックの盗賊団が財貨を略奪していったけれども破壊行為はなかった。布告は部分的にしか執行されなかった。しかし522年と511年の地震、何回かのクラウディオス河の決壊によってついに廃墟と化した。オリンピアは消滅しその痕跡すらとどめなかった。1829年、ギリシャの再建を助勢するために派遣されたフランス部隊によって発見されたオリンピアは、1875年から1881年にかけてドイツ考古学調査隊によって発掘された。この資金は後のフリードリッヒ3世が出した。130体の彫像と浮き彫り、13000のブロンズ像、6000の貨幣、400の碑銘、1000の陶器、40の石碑が発掘目録に記録された。(1)
注(1): オリンピック競技会復興25周年を記念してギリシャ政府は1919年オリンピア廃墟の中央部に競技会復興記念石碑の建立したい旨公表した。石碑の除幕式は1927年4月17日厳かに行われた。
ネメア競技会について特に述べることは何もない。この競技会はアルゴリド地方のネメアの谷で3年毎に開催され、第1回ギリシャ・ペルシャ戦役以降盛んになる。 コリントのイストモスで開催されたイストミア競技会、また6世紀以降5年毎にクレッサで開催されたピュティア競技会についても同様である。これらの祭典はすべてオリンピック競技会を踏襲するものであるが、規模は劣る。競走種目は見られなくなっていたが、ハドリアヌス帝のもとでイストミア競技会とネメア競技会に再び現れる。
© S. Shimizu, text traduit 1990, rév. 2004