クーベルタン原典翻訳ブック

近代オリンピズムの哲学的基礎

in. Le Sport Suisse, 31e année, 7 août 1935, p.1; in. Pax Olympica Berlin 1935, p.8-16 (fr.) p.17-26 (D.)

 オリンピック競技会の創設者であり名誉会長として、オリンピック競技会の意味について解説するメッセージをラジオ放送で行うよう要請された私は、その名誉を喜んで受け入れました。そして私はここに自分の基本的思想ならびに、私が自分の事業の基礎においてきた哲学的原理を公表すること以外に、この要請によりよくお応えすることはできないと考えております。
 古代のオリンピズムも近代のオリンピズムも共に、その基本的性格の第一は「宗教」であるということです。彫刻家が一つの彫像をつくるように、古代の競技者は訓練によってその肉体を刻み「神々を讃え」たのです。同様にして近代の競技者はその祖国、その民族、その旗を掲げるのです。それ故私は再興されたオリンピズムの周囲に原則として、現代の特徴である国際主義と民主主義によって変容され拡大された宗教的感情を復興することが正しいことだと考えたのです。しかし国際主義、民主主義は同様に、自らの筋肉の勝利を希求するギリシャの若者たちをゼウス大祭壇の許に導いたものでもあります。
 そこからすべての儀式の形式が生まれ、近代オリンピック競技会の祭典を構成しているのです。私はこれらの形式の一つ一つを次々に公的見解に対して押しつけなければなりませんでした。公的見解は長い間抵抗を示し、そのような形式は劇場的演出であり不要なスペクタクルであり、国際的筋肉コンクールの厳粛さと尊厳に馴染まないものだとしておりました。スポーツ的宗教観念「レリギオ・アトレタエ」は非常にゆっくりと選手たちの精神に浸透してきました。そして彼らの多くはまだ無意識的にしかそれを実行しておりません。しかしやがて徐々に彼らはそれに従うことになるでしょう。
 国際主義と民主主義だけではありません。科学もまた、文明化された国民の中で建設途上にある新しい人間社会の基盤としての国際主義、民主主義に利益を見出すのであります。科学の持続的進歩の結果、科学は人間にその肉体を陶冶する新しい手段をもたらしました。肉体は個人的自由という口実のもとに無軌道な情念のなすがままにされていますが、科学は自然を導き作り直し、情念の手から肉体を奪いとります。
 オリンピズムの第二の特質、それはいわば「貴族」ないし「エリート」の精神であるということです。しかし勿論、全面的に平等な起源を有する貴族精神です。何故なら、それは個人の肉体的優越性によってのみ規定され、また、ある程度まで個人のトレーニング意志によって拡大される筋肉的可能性によってのみ規定されるからであります。若者なら誰でも競技者となるように約束されているわけではありません。やがては、強力なスポーツ教育を受ける適性のある人々の数が大幅に増える日もやってくるかもしれません。何らかの最善の個人衛生、公衆衛生、そして民族改善をめざす知的な配慮などによってそうなる日もくるでしょう。各世代の人口の半分以上、あるいは多くとも三分の二以上の沢山の若者が決して到達しえないことではないかもしれません。現在のところわれわれは全ての国々でまだその域に達していません。しかし万一こうした結果が獲得されたとしても、その若い競技者たちすべてが「オリンピックの競技者」すなわち世界記録を争う人間たちであるとは言えません。私が言明した次の文はこのことを意味しているのです。これは (すでにいろいろな国語に翻訳され) 世界のほとんど全てが無意識に了解している一つの法則であります。「百人が身体陶冶にいそしむには五十人がスポーツをしなければならない。五十人がスポーツをするには二十人が専門に行わなければならない。二十人が専門に行うには五人が驚異の記録を樹立できなければならない。
 アスレティシズムを無理やり穏便な体制に馴染ませようとすることはユートピアを追求することです。アスレティシズムに帰依するものに必要なのは「過剰の自由」です。それ故彼らには次の格言が与えられたのです。「より早く、より高く、より強く」。つねにより早く、より高く、より強く。これは記録を打倒しようとする人々の格言なのです。  しかしエリートであればそれでよいというわけではありません。このエリートは「騎士的なもの」でなければなりません。騎士たちは皆、何よりもまず「武器を友とする」者たちです。勇気ある力溢れる人間たちです。彼らは非常に強い絆で結ばれています。友情の絆はそれだけでも十分強力ですがそれ以上の強い絆で結ばれているのです。友情の根底としての相互援助の観念に加えて、騎士の場合、競合の観念があります。努力を愛するが故の努力と努力の対決、誠実なしかし激しい闘いの観念があります。これが古代オリンピック精神の純粋な原理でした。この原理が国際試合に適用されるとすれば、その広がりがどれほどの莫大な成果を生むことか、よくお分かりでしょう。今から40年前に私がこの原理の作用力を近代のオリンピック競技会に蘇らせようとした時、私は幻想に陥っているかのように思われていたのです。しかしこの原理は4年毎のオリンピック祭祀の荘厳な場面の中に現前し得るし、また現前しなければならないばかりか、すでにこの原理はもっと荘厳でない場面でも顕現しているのです。明らかにそうなっております。国から国へ、その進歩はゆっくりとではありますが絶え間なく続いています。今やその影響力が観衆自身を捉えなければなりません。そのこと自体がまた、例えばパリで去る3月17日に行われたフットボールの試合のようなことを生み出すのです。またこういう状況では、達成された偉業の高さに比例して大歓声が一斉にわき起こるべきです。オリンピック競技会ではもっと起こって然るべきです。しかも国民的好みなど度外視して起こるべきです。一方的な国民的感情などは一切、その時休戦状態、いうなれば「一時休暇状態」となるべきです。
 「休戦」の観念。これもまたオリンピズムの構成要素の一つです。この観念は「リズム」の観念と密接に結びついております。オリンピック競技会の開催は天文学的に厳密なリズムをもって行われなければなりません。何故なら、オリンピック競技会は人類の各世代の陸続たる台頭を讃えんために4年毎に訪れる人類の春の祭典を意味するからであります。それ故にこそ、このリズムは厳密に守られなければならないのです。現代でもかつての古代と同じように、たとえ一つのオリンピアードが何か絶対的な予期せぬ事態によって祝福されないことがあっても、その順序も数も変えることはできないのです。
 ところで人類の春というのは、幼児のことでも少年のことでもありません。われわれの時代は、全てではないにしても多くの国々で非常に重大な過ちをおかしています。それは幼児を重要視しすぎること、幼児の自律性を認め、誇張された早熟な特権を与えすぎることです。そうすることで時間をかせぎ有用な生産従事期間を延ばせるものと考えられています。これは「時は金なり」の間違った解釈からくる考えです。この格言は、ある民族とか特定の文明形態から生じたものではなく、ある国民、すなわちアメリカ国民の格言であります。アメリカ国民は例外的で一過性の生産力の可能性を持った時代を経験しました。
 人類の春とは「若い成人」すなわち機械にたとえれば、すべての歯車の装備が完了し調子よく作動する準備が整った最高の機械のようなものを意味します。これこそオリンピック競技会がその名誉を讃えるために開催され、そのリズムを組織し維持すべき対象者です。何故なら、近い将来ならびに、過去と未来を調和的に結合する鎖は若い成人の肩にかかっているからです。
 この若い成人の名誉を讃える方法として、この趣旨において彼の周囲に定期的な間隔をおいて騒動、論争、誤解の一時的停止を提唱すること以外によい方法が他にあるでしょうか。人間は天使ではありません。私は人類の大部分がその名誉に値するとは考えません。しかし若い成人は本当に力強い人間です。その意志は非常に強く、利益とか支配欲とか所有欲などの充足を、それが如何に正当なものであるにせよ、停止させることを自らに課し、集団に要求することができるほどなのであります。私としては戦争の真っ最中に、誠実で礼儀正しい筋肉的競技会を開催するために相手の軍隊が暫くの間闘いを中止すれば大いに評価するでしょう。
 今述べたことから結論されるべきことは、私の考える真のオリンピックの英雄は「個人の男の成人」ということになります。それならチームスポーツは除外されるべきでしょうか。絶対にそうでなければならないというわけではありません。ただし、古代のオリンピズムがそうであったように近代オリンピズムでも他の必須の要素、すなわち「アルチス」ないし「聖域」の存在が認められなければなりません。オリンピアではいろいろなイベントが沢山ありました。それらはアルチスの外側で行われたのです。すべての集団的な営みがその周囲で脈打っていましたが、しかしそれは内部で行われる特権を持っておりませんでした。アルチスそのものが供犠としての、基本的試練によって純化され承認された競技者のみに保存された保護区域のようなものでした。競技者はこうして一種の神官となり、筋肉的宗教の司祭とるのです。同様に、私は近代オリンピズムは一種の道徳のアルチスのような意味を持つと思っています。それは聖なる都市であり、真の意味での男性的スポーツの選手たちがその力を競うために集う場所なのです。すなわち人間を防御するスポーツであり、己自身、危険、いろいろな要素、動物、生命などの練達者たち、ジムナストたち、走者たち、騎手たち、泳者たち、漕者たち、剣士たち闘技者たちが力を競うのです。そして組織したいありとあらゆるスポーツ的営みの表出をめぐって、フットボールのトーナメント試合その他のゲーム、チームによる運動などなど... これらはそれなりに尊重されるでしょう。しかし第二義的なものです。また必要とあらば、そこに女性たちが参加してもよいでしょう。私は個人的には、公的コンクールに女性たちが参加することを認めません。だからといって女性たちが非常に沢山のスポーツを実践することを諦めるべきだということではありません。ただし、スペクタクルにならないようにです。オリンピック競技会における彼女たちの役割はとりわけ、昔のトーナメントの場合のように勝者たちに賞を授ける役割でなければなりません。
 そして最後の一つの要素は芸術競技会と思想の競技会への参加による「」の要素です。そもそも、人類の春の祭典に精神を招待しないで祭典を開催できるものでしょうか。そこで次のような高度な問題が生じます。それは筋肉と精神の相互的作用の問題、両者の和解と協力関係が備えるべき性格は何かという問題です。
 恐らく精神が勝ることでしょう。筋肉は精神の器にとどまるべきです。ただし、芸術的創造、文学的創造の最高度の形式としてのことです。たえず増大する免許制度が文明の大犠牲、真理と人間的尊厳の大犠牲、国際関係の大犠牲の上に、われわれの時代に繁殖することを許してきたような低級な形式としてのことではありません。私が求められて表明した好みに従って、第十一オリンピアードの競技会は最も強力な大合唱団によって歌われるベートーベンの第九シンフォニーのフィナーレの比類なき調べで開会されるとのことです。これ以上の私の喜びは他にあり得ません。あのフィナーレは子どもの頃から私の心を高め奪い続けてきたのですから。あのハーモニーを聴くと私は神と会話しているように思えました。将来、若者の希望と喜びの強さを歌いあげるような素晴らしい合唱曲が、オリンピックの記録追求のスペクタクルに少しずつ付き添うようになればよいと、私は願っています。また私は、競技会の周囲で定期的に組織される知的な表現活動の中に、歴史が詩心の傍らに重要な席を占めればよいと願っています。それは当然のことです。オリンピズムは歴史に属するものなのですから。オリンピック競技会を開催するということは、おのずから歴史を綴ることになるのです。
 歴史はまた、オリンピズムによりよい平和を保障してくれます。互いに愛し合うことを各国民に対して求めることは、子どもでも分かる要求にすぎません。彼らに相互敬愛を求めることはユートピアなどではありません。しかし相互に敬愛するためにはまず何よりも互いに知り合わなければなりません。世界史こそ唯一、真の平和の真の基礎であります。今後、それは歴史的時間と空間の正しい比率を考慮した上で教えられるべきであります。
 わが人生の夕べを迎え、第十一オリンピアードを間近にひかえて、皆さんに私の望みと感謝を申し上げますと同時に、私の信念が若い頃から不動であり、そして未来においても不動であると申し上げます。