大阪体育大学 スポーツ教育講義

講義のまとめと小論文課題

1.講義のまとめ

【履修目標と評価】

 この講義の目標は、スポーツの職業を志向し学窓を離れようとする専門コースの学生を対象とし、自己の専門スポーツ種目の技能・知識によって固められた思考習慣から一旦はなれ、自己のスポーツとスポーツ全体をスポーツ科学の客観的視点から考え直し、職業人としての幅広い思考能力を身につけ、新たなスポーツ教育観を形成するための、ひとつの挑戦を促すことである。

 この目標を達成するためには、
   @ スポーツ教育の概念とその教育史的意義、
   A 諸外国のスポーツ教育制度の歴史と現状、
   B 最初のスポーツ教育の理論とその成立過程、
   C 現代スポーツ教育学の理論体系の概要、
   D スポーツ科学とスポーツ教育学の関係、
   E これからのスポーツ教育の課題と展望
…などについて学習をすすめていく必要がある。

 受講者はこれらの学習成果を自己の専門スポーツ種目に再び照射しなおし、自己のスポーツ種目に関するより幅広い思考ならびにスポーツ教育観を構築できたことを示さなければならない。この達成レベルの程度によって、受講者の履修成績は評定されるものとする。

【講義のまとめ】

 スポーツ教育は19世紀末から20世紀初頭における「オリンピズム」というスポーツの教育化運動によって理論的先駆が記され、20世紀におけるスポーツの文化的拡大に促されつつ、最近のスポーツ教育学の理論へと発展した。この講義では、前者をピエール・ド・クーベルタンの業績から、後者をオモ・グルーペの業績から論考した。
 前者については、清水重勇『スポーツと近代教育』紫峰図書1999年全2巻(28,000円)、後者についてはO.グルーペ他著・永島惇正他訳『スポーツと教育』ベースボールマガジン社2000年全1巻(3,200円)を参照した。

 この二つの理論の間には、人間学の大きな転換という(主としてヨーロッパの)哲学史上の変化が、とりわけ身体観と運動観、そして教育観の上の及んだという事実が認められる。18世紀から19世紀のヨーロッパでは政治革命・社会革命があいつぎ、新しい国家ならびに社会の秩序とその構成員の形成ということが人間学の課題となり、近代市民形成をめざす教育理論がつぎつぎと誕生した。近代的な「知」(道徳律を含む)を確立することを課題とした近代教育は、人間の身体を教育のベースとして位置づけ、ここに身体を教育するという新たな教育課題が成立する。これは近代的身体の成立として特徴づけられ、近代体育の理論と実践が誕生するのである。近代体育は人間一般としての市民のあり方を決める教育の重要な領域であったと同時に、近代国家の構成員である国民のあり方を決める教育の重要な領域と見なされ、近代体育の実践体系は、この二重の意味で、ヨーロッパの近代・国民教育に共通する体操(ジムナスティークあるいはギムナスティーク)と呼ばれる教育として発展していった。わが国の近代化にもこの体操という身体教育が導入された。

 上記のような成立過程の大筋を理解すれば明らかなように、近代体育における身体の概念は、「知」との切実な関係において把握されるとともに、知とは異なる(知の対象としての)「モノ」として理解されていたのである。このことについて、われわれは心身二元論の犠牲者としての身体をイメージする逃れがたい傾向がある。19世紀末にフランスの教育の刷新を考察したクーベルタンの場合、彼は体操と呼ばれる身体教育が「知」の形成のために有効ではないと考え、それに代わる別のもの、すなわち《スポーツによる教育の刷新》を主張した。しかし、当時のスポーツという世界の文化状況は、スポーツをただちに教育的なものと合意することができるほどに成長していなかった。個々のスポーツ種目は徐々に技術的発展を見せつつあったにしても、今日のような大衆化には至っておらず、それ故もちろん、それらを統括するような言葉(=スポーツ一般)も知られていなかった。スポーツとは枚挙的定義によって漠然とファジーなかたちで了解されていたにすぎない。
 彼は、いろいろなスポーツ活動の類(たぐい)を総称する抽象名詞("le sport" ル・スポール)を種概念として使用し、スポーツの種と類の関係を確立させようとした。そして、その上で、この種としてのスポーツが教育学のどんな手段よりも強力な教育改革(主として青年教育)の手段であると信じ、当時まだ承認されていなかった彼のスポーツ概念を普及させるべく、オリンピック競技会の復興を企てた。オリンピック競技会とは、彼にとって、教育改革の副次的な手段だったのであり、オリンピック競技会の中で盛り上がるスポーツ情熱を教育的に方向づける思想運動を「オリンピズム」と呼んだ。1920年頃に公表された『スポーツ教育学』には、彼のこうした構想が示されている。したがって、スポーツ教育学の最初の姿は、彼のオリンピズムによって具体化されたと言えるのである。
 
 オリンピズムの身体観は、体操の身体観を批判するものであり、モノや機械としての身体(知の対象)ではなく、知と結ばれた意志的エネルギーの中心であり、彼はそのような身体のイメージを「筋肉」という言葉で表わし、身体という言葉を使わなかった。しかし、彼のこの意図は、哲学的なレベルで検討されたものではなかった。20世紀の現象学は、身体や運動という概念を人間存在と世界との媒介として重視することになり、クーベルタンが「筋肉」で示そうとした活動的全体的な人間というイメージは、さらにこうした哲学の変革の流れに飲み込まれていった。
 
 グルーペのスポーツ教育学は、こうした哲学の発展を踏まえながら、身体や運動の概念を「身体性の人間学」として再構成することによって、無方向に成長してきた現代スポーツ(オリンピック競技会も含む)ならびに、その成長に呼応して肥大化・細分化するスポーツ科学を方向づける規範的スポーツ学の領域の確立を企てている。つまり、グルーペのスポーツ教育学は、現代スポーツ・システムの発展の舵取りをする学問として構想されたのである。
 グルーペによれば、スポーツ科学はスポーツ実践の文化的成長に呼応してますますその研究領域を広げつつあるが、その中にスポーツ教育学という領域を確立することが大切であり、身体は「生きられた身体」「媒体としての身体」「社会的産物としての身体」という三つの視点でとらえ直さなければならず、スポーツ教育学は、経験・分析的手法によってスポーツ実践ならびにスポーツ科学の現状を事実として把握するとともに、それに立脚しながら規範的手法によって、何らかの解釈を提供することによって、秩序を示す使命を有するという。したがって、グルーペのスポーツ教育学の大部分は、経験的・分析的事実の提示に力を注いでいる。そこには現代スポーツをめぐるさまざまな意見の分析、スポーツ現場でのさまざまな問題の分析が含まれる。
 
 グルーペは結論として、スポーツ教育学の構想と展望をつぎのように要約している。[下線清水]
 
 スポーツ教育学は、二重の課題をもっている。一つは、スポーツの教育的可能性やその文化および社会にたいする意味を明らかにすることである。もう一つは、スポーツがその教育的な質を維持し広げることを支援すること、ならびに誤った発展に抵抗し活発なスポーツ行動をさらに広げるためメディアスポーツを利用すること、スポーツにおけるフェア性、平和、ヒューマニティーを強化し、政治、経済、そしてメディアによって悪用されることからスポーツを守ることである。スポーツ教育学には、その素質ないし可能性を携えてよりよいスポーツに向けて努力するという課題がある。(p.354)
 [理論としてのスポーツ教育学の課題]
 スポーツ教育学は、さまざまな科学的・理論的アプローチが可能であること、そしてそれらが互いに共存できるということにおいて傑出している。スポーツ教育学には独自なものも固有なものも存在しないし、スポーツ教育学における唯一の真の理論も存在しない。また、スポーツ教育学的なテーマや問題は、単に自然科学的な方法によってのみ論じられるものでもない。むしろ、一方では、教育学的に重要であるさまざまな問題を論じる際の科学的な理論や方法における多様性が、他方で、規範科学としての教育学の課題は、科学やスポーツ科学のなかに、ならびにスポーツ科学の他の専門科学とならんで、固有の位置を見いだすことにある。加えて、今後スポーツ教育学には二つのことが求められる。一つは、スポーツやスポーツ現実の問題にたいする公明正大さである。もう一つは、科学的な、問題設定、理論および方法を顧慮する上での明確さである。スポーツの理論と実践における規範科学および経験科学としてスポーツ教育学をさらに展開させるという目標は、過程としてこそ、つまり、科学的な議論においてこそ達成されるのである。(p.341)
 [クラブのスポーツ教育学の課題]
 《クラブの》スポーツ教育学は、スポーツ教育学の一部でもある。つまり、コーチの要請における高い水準を保証し、クラブや団体のメンバーでもある子どもや青少年に教育的に働きかけるというクラブや協会の努力は、スポーツ教育学の一部なのである。こうしたクラブや協会内で広範囲にわたってなされる職員の養成や継続教育は、協会の教育プログラム、セミナー、研究会議、研究大会のなかに見られる。協会は、個々のスポーツ種目の教授学および方法論のさらなる開発に力を注いでいる。組織化されたスポーツにおけるクラブや協会の統括組織としてのドイツスポーツ連盟は、陶冶および教育機関であるとも理解されている。クラブや協会の中で、そしてクラブや協会によって、人間の陶冶や教育、発達に積極的に貢献するスポーツが提供されなければならない。それにしても、社団のスポーツの教育学の実践的な側面は、理論上の取り扱い、基礎付け、ならびに省察よりはるかに発展している。(p.335)
 [スポーツ教育学の構想]
 科学としてのスポーツ教育学の構想には、二つの異なる内容がある。運動、プレイ、そしてスポーツの視点から、スポーツ教育学は人間に関する一科学としてつぎのように理解されるのである。
 すなわちスポーツ教育学は、他の専門科学の洞察や知見を取り上げなければならない人間科学、そして、得られた洞察および知見を、スポーツにおける陶冶と教育の価値、目標、そして内容、ならびにスポーツによる陶冶と教育の価値、目標、そして内容や論議に応用しなければならない人間科学と考えられるのである。さらに、スポーツ教育学を研究する大勢の著者たちは、スポーツ教育学について幅広い理解をしている。それによれば、身体生活や運動生活において役割を担っているもの、および直接間接に教育効果のあるもの、またはあるべきものすべてが、基本的にスポーツ教育学のテーマとなり得るのである。こうした意味で、陶冶、教育、学習、社会化、運動、プレイ、達成は、最も頻繁に言及されるテーマ領域である。このようなテーマや問題の研究に関して、ことのほかふさわしい科学的な方法ないし手法として、精神科学的・解釈学的なものと経験的・社会科学的なもの、あるいは両方を加味したものがあげられる。(p.327-8)

2.小論文の課題と方法

教育としてのスポーツのあり方について、以下の項目を踏まえながら、考察しなさい
  (1) 教育は人間観、身体観の歴史的変化によって変ってきた
  (2) スポーツは社会のさまざまな要因の変化によって変ってきた
  (3) スポーツ科学はスポーツの変化(文化的意義)に呼応して拡大・細分化してきた
  (4) スポーツ教育学はスポーツ科学の舵取りをする科学として登場してきた
  (5) スポーツ教育学から見たスポーツのあり方について考えるために、どんな点に注意しなければならないか?
  (6) 自己の経験から固められた意見を再考し、現場のスポーツは具体的にどんな変化の可能性をもっていると考えるか?