初夢に類するお話である。
17世紀オランダの画家フェルメールは、カメラ・オブスクラという装置を使つたのだが、そこに取り付けられていたレンズは、哲学史に残る思想書『エチカ』を著した哲学者スピノザが磨いたものだった…。
共に1632年に生まれた。フェルメールはデルフトで、スピノザはアムステルダムで。没年は前者が75年、後者が77年。
残っている絵画がわずか三十数点といわれ、近年ますます人気が高まるフェルメールは謎の多い画家である。カメラ・オブスクラは、写真機(カメラ)の前身ともいえる暗箱で、小さな穴あるいはレンズがつき、外部の像が箱の中に映る。それをもとにすれば、より正確な遠近法で描けるため、写真発明以前には多くの画家が用いた。彼のカメラ・オブスクラ使用については、研究者たちの見解は肯定・否定、半分半分である。
他方、現代思想・哲学界で再評価されているスピノザは、「レンズ磨き」で生計を立て、清貧の生活を貫いたという。レンズ磨きは、単に磨くことを専門にしていたとは思えない。17世紀初めころの顕微鏡、望遠鏡の発明の結果、イタリアのガリレオ・ガリレイは09年に望遠鏡を自作して、翌年、木星の衛星を発見するし、フェルメールとやはり同年にデルフトで生まれた博物学者のファン・レーウェンフックも、自作顕微鏡で様々な観察をし、77年には精子を発見する。レンズ磨きは、光学はもちろん宇宙から身体までの最先端科学に通じていたはずだ。『スピノザ往復書簡集』(岩波文庫、畠中尚志訳)を見るとスピノザは、ドイツの哲学者・数学者であるライプニッツからの光学に関する手紙に、回答しているほどだ。 スピノザがラテン語で書いた『エチカ』は、「倫理学」と訳されるが、形而上学、認識論、宗教論、倫理学などすべてを含む、生きるための哲学思想書である。20世紀のポスト構造主義哲学者ドゥルーズは『スピノザ実践の哲学』(平凡社ライブラリー、鈴木雅大訳)で、「道徳(モラル)」と「生態の倫理(エチカ)」を区別している。「神即自然」を説いたスピノザは「汎神論」者と見なされ、無神論にも通じる危険思想家と遇されたため、没後に出版された。
では、2人の接点は?
スピノザは晩年、デルフトとそう離れていないハーグに移り住む。さらに興味深いことに『往復書簡集』には、スピノザから「ヨハネス・ファン・デル・メール」へあてた手紙も載つている。この名前はフェルメールの本名である。
だが、オランダ・フランドル美術史を専攻する研究者は「同名の風景画家もいたほどこの名前はオランダではありふれていたし、文面にはフェルメールその人と結びつける根拠はない」という。文面は「友よ」で始まり、「賭け」の確率について説明する内容だ。『往復書簡集』の訳者は、あて先の人物を「アムステルダムの商人」とする説などを紹介しているが、断定はしていない。また、日本のスピノザ研究者らで作る「スピノザ協会」の代表である工藤喜作・目白大学人文学部長は「わかっていない」という。接点があった可能性は残っている。
で、夢見ることを許されたい。フェルメールはスピノザ作のレンズを使つたと。いや、あるいはレーウェンフック作だつたか、百歩譲ってガラスのレンズではなかつたにしても、ドゥルーズが『スピノザ』で「宗教を相手にしても、スピノザはレンズを…産み出される効果とその効果を産み出す法則とを明かしてくれる思惟のレンズを磨いたのだった」と書く意味でのレンズは使つただろう。
だからこそ、あの独特の光が描けたのではないか。画面中に遍在し、しっとりとまつわりつくような光は、スピノザ的汎神論の光だつたのではないか。未知だつたミクロとマクロの世界を実見した人たちのうち、ある者は新しい枠組みである「生態の倫理」を考え、ある者は新装置が産んだイメージと光を、驚きと喜びのままに描いたのではないか。
今日、人間・身体から地球・宇宙の成り立ちについてまで、様々な新知見が示され続けている。けれども、17世紀ヨーロッパと同様、戦争やテロもくり返されている。どうやら私たちもまた、新しい世界観、宇宙観に纂づいた新しい倫理や枠組み、価値判断の基準の組み換えを求めているようだ。それを「ネオ・エチカ」と呼ぶことにしよう。だが、その作業を進めるための道具、私たちのレンズの度は、変化にそぐわなくなってはいないか。曇ってはいないか。明日から、歴史、美術、思想、科学、文学など、揺らぎ、変容し続ける諸ジャンルでの新しい「レンズ」を探る。
(編集委員・田中三蔵)
朝日新聞2005年1月5日、文化欄
水曜日の夜7時。長野県飯田市郊外の上郷支所に、勤めを終えた市民が集まつてくる。
「ここのtheに注意して下さい。先のaとは意味が違いますから」鬼塚博さんの説明を受けながら読み進めているのは英国で出版されたグローバリゼーションの専門書だ。40代の女性を中心に、10人ほどの市民が挑んでいる。
「日本語で適当な本が見あたりません。新しい状況を理解するには最新の分析理論を勉強しなくては」と語る鬼塚さんは、上郷支所2階に飯田市が設けた歴史研究所の研究員。福岡市の生まれで37歳、日本の近現代史が専門だ。米国の大学で研究員をしていて、同市に誘われた。
日本で初めてという市立歴史研究所が飯田市に設立されたのは03年暮れ。市史の編纂計画が発端で、市が設けた有識者会議が「冊子の刊行だけではなく、総合的かつ恒常的地域史研究事業を」と提案。それを市が検討し、具体化した。
2人の研究員のほか調査研究員、事務部門などを合め総勢10人ほどで、各地に残る古い史料の調査や整理、古い建造物の記録、高齢者の聞き取りなどを進めるほか、定期講座を開催している。鬼塚さんの現代史のほかに近世史、近現代史、中・高生向けもある。外部の専門家を招いた講座も企画し、シンポジウムはすでに2回開催した。
2人の研究員は何を目指すのか。近世史が専門の多和田雅保さんは「地域の目線で国の間題を考えたい」という。下伊那地域で盛んだった養蚕、多くの人々を送り出した満蒙開拓などの歴史を丹念にひもとくことで、「飯田から世界が、イデオロギーでは解けなかった歴史がみえるはずだ」と思う。
鬼塚さんは、中心商店街の歴史をたどり、衰退の原因を明らかにする構想を温めている。「グローバリゼーションと地域社会、そして人々の暮らしの移り変わりを見つめたい。商店街再興の手がかりになるはずだ」と考える。
研究所を設立するための有識者会議の座長を務めたのは東京大の吉田伸之教授(日本近世史)だった。その吉田さんは史学会が昨年11月に出した『歴史学の最前線』(東京大学出版会)の巻頭で、歴史学の現状を次のように描いた。
「環境は一段と深刻さを増している。ソ連・東欧における『社会主義』体制の崩壊、グランド・セオリーの《解体》と歴史学の知的ヘゲモニーの喪失ひ……さまざまな形で問題が爆発的に湧出しているようにみえる」。戦後歴史学の中心となってきたマルクス主義が有効性を失い、方向性を発見できない歴史学への危機感が表れている。
法政大の南塚信吾教授(東欧史)が私費を投じ、研究者仲問に呼びかけて「世界史研究所」を開設したのも、歴史学の現状への危機感からだつた。昨年7月、東京・渋谷駅前のビル8階に看板を掲げた。
研究対象の時代や地域、方法論が細分化される一方で、歴史の全体像を描く人がいなくなっている、歴史家が天下国家を論じなくなっていると感じていた。昨年春まで勤務した千葉大では国立大の法人化を経験し、じっくりと研究する場がなくなっていると痛感した。
「だれかがやるだろうと、ずっと思ってきた。だが、だれもやらない。それなら自分で、まず場所をつくろう」と考えたという。「歴史家には社会的な責任があると思うのです。今はどんな時代ですか…そうした疑問に答える責任があるのではないでしょうか」
世界史研究所はインターネットを活用し、「サイバー研究所」を目指す。そこで情報を共有し(時間や距離を超えて意見を交換するフォーラムを築きたいと南塚さんは願っている。
研究会のほかに地方にでかける「キャラバン」も実施している。11月は長野県松本市が会場で、テーマは「日清・日露戦争の時代」だった。朝鮮史の趙景達・千葉大教授ら3人が、それぞれ専門の地域や視点から19世紀末〜20世紀初頭を分析。それを受ける形で、南塚さんが「世界史の中の日清・日露戦争」や「連続する現代の戦争をどう考えるか」などについて間題を提起した。
南塚さんが目指す「世界史」とは「統一した視角と方法で、人類の全体としての歩みを知り行方を展望する」ことだという。「世界各地の歴史」ではない。それは一国史に代わる歴史を描く作業でもある。
冷戦終結やバブル経済崩壊後の長引く不況は、戦後歴史学の前提を覆した。新しい歴史学はどのような姿なのか……。二つの研究所は、そんな局面に登場してきた。虫の目から、鳥の目から、どのような歴史像を描き出すのか。その先に歴史学の新しい姿がみえるかもしれない。
(渡辺延志)
朝日新聞2005年1月6日、文化欄
動物や戦車などをかたどったフィギュアは、美術だろうか。そんな議論が、食玩と呼ばれるおまけ付きの菓子を巡って繰り広げられている。
食玩用フィギュアの原型を作った海洋堂(本社・大阪府門真市)が、以前に契約していた菓子の製造元に対し、未支払い分の許諾料や違約金などの支払いを求めた裁判で、フィギュアが著作権法上の「美術の著作物」かどうかが争われた。
海洋堂はフィギュアを「純粋美術と同視し得る」と主張。構図、造形、彩色等の点で「高い芸術性、創作性を有しており、思想・感情の創作的表現物」と訴えた。
昨年11月、大阪地方裁判所は、支払いの求めについては海洋堂の主張をおおよそ認めたものの、フィギュアの原型は、著作権法に定められた「美術の著作物」には当たらないとした。大量生産品で安価なおまけは「一般の社会通念上、美的鑑賞を目的とする純粋美術に準ずるようなものとまではいえない」が理由だ。
絵や写真だったら、著作権が認められたのではないか。海洋堂の宮脇修一専務は納得できない。「日本ではあまりにフィギュアの扱いが低すぎる」。議論は今後、控訴審へ引き継がれる予定だ。
ところが「純粋美術」という厚い扉が、内側から開き始めた。
今年4月、海洋堂単独としては美術館では初の「個展」が開かれる。「造形集団海洋堂の軌跡」展だ。水戸芸術館を皮切りに全国6カ所の美術館で、数千点のフイギュアなどが展示される(1月23日まで、プレオープン展が福岡市の三菱地所アルテイアムで開催中)。水戸芸術館現代美術センターの浅井俊裕学芸員は「造形物としての食玩のクオリティーは高い。それのどこまでが美術か、また逆に現代美術とは何か、を間い直す展覧会にしたい」と語る。
フィギュアは、造型師と呼ばれる造形作家たちの徹底した細部へのこだわりと、省略や誇張を加えた個性的な表現が魅力だ。「造型師は自分が見たかったものを作る。私たちが忘れかけているもの作りのピュアな原点がある」と浅井学芸員はみる。
美術という言葉は明治期、音楽や文学を含む諸芸術の翻訳語として生まれた。やがて絵画や彫刻などの純粋美術を中核にして、金工や陶磁器などの諸技法が工芸とされた。さらにその外側に、手芸や置物などが緩やかに取り囲んできたといっていい。その序列からはずされた美も少なくない。
5年ほど前、熊本市現代美術舘の南蔦宏館長は熊本の浄国寺で、生人形の「谷汲観音像」を見た。迫真の美に、震えるような感動を覚えた。江戸末から明治にかけて活躍した生人形師、松本喜三郎(1825〜91)の作だつた。
庶民の見せ物として「生きるがごとく」に作られた生人形は、人々を熱狂させた。松本喜三郎のほか、安本亀八や鼠屋伝吉といつた名人が出現。つややかな肌に、性器まで作りこまれた精巧さ。ほぼ等身大の人形は、エロチックですらある。
しかし、彫刻家の高村光太郎が「造形本能からは彫刻が生まれ、模擬本能からは人形が生まれます」と生人形を攻撃したように、近代表現とは見なされなかった。多くが散逸してしまつた。
昨年、同館で「生人形と松本喜三郎」展が実現した。南蔦館長は「民衆が生み出し、生活の中で、その富を分かち合うようにして享受してきた文化に対し、私たちはずいぶん残酷な態度を取り続けてきた」という。展覧会は、生人形という悲劇の美による「反近代の逆襲」だった。
美術ならざるものとされてきた造形物たちが、美術館で、美術とは何かを問い返している。「日本美術応援団」を自任する山下裕二明治学院大教授は、「明治以降の美術という概念がシャッフルされつつある」と歓迎する。「作家がばかばかしいまでに心血を注いださまに、ビジュアルな作品を通して共感する。そんな姿に、立ち返るべきだ」とも。
近代以後、日本の土着的な美は、しばしば「伝統」という重荷を担がされ、政治的に利用されてきたという苦い教訓を忘れるわけにはいかない。大切なのは、造形物を前にした時の生々しい体験を大切にし、いかに個人としてしっかりと抱きしめられるかだろう。その意味で、フィギュアや生人形は、確かに同時代の多くの人々の心をつかむ、「ばかばかしい」までに心血が注がれた美を備えている。
(山盛英司)
朝日新聞2005年1月7日、文化欄
今年中とうわさされる新作の刊行が、これほど待たれる作家も近年のフランスではめずらしいという。ミシェル・ウエルベック。1958年生まれ。90年代末に出した小説『素粒子』(筑摩書房)で、戦後の実存主義世代(サルトル世代)の親に捨てられた異父兄弟の孤独と絶望の物語を描き、対抗文化やフーコー、デリダら現代思想の大家たち、あるいはフェミニストらに手厳しい言葉を浴びせて、「事件」と呼ばれるほどの賛否を国内外に巻き起こした。
翻訳者の野崎歓・東京大助教授(仏文学)は「西欧の破産」を宣告した物語だという。
「『個人の自由』を基本理念にしてきた近代、とりわけ戦後思想への明らかな反動でしょう。ウエルベックに続いて同様の小説が次々出てきているのも、イデオロギーや左翼の終焉と無関係ではない」
自由の憂欝と閉塞は、日本でも90年代半ば以降に顕著になった。様々な規範が揺らぎ、援助交際や人体改造から殺人の自由までが正面きって取りざたされたっ進路を決められない若者が増加する中、子どもの自主性を尊重した「ゆとり教育」が理想的すぎると批判されている。問われているのは、明治以降、根を下ろしてきた西欧流の「自由な主体」の真価である。
熊野純彦・東京大助教授(倫理学)は、かつてその代表格とされたサルトルが、自由な主体から発して他者に対する責任に向かい、社会参加を呼びかけた役割を高く評価しつつ、70年代以降に直面した壁を指摘する。サルトルの唱えた自由は、困難な状況を切り開く創造主にも等しい「強い主体」のものだった。他者も自己を脅かす「強い他者」だった。
サルトルとの対照として熊野さんが注目するのは、ナチスのユダヤ人捕虜収容所を生き延びた同世代の哲学者、レヴィナスだ。世界秩序が崩壊した絶望のふちに立ち、死者への「無限責任」を説いた彼は、他者との関係の中で主体の意味を見定めた。人間は「つねに・すでに」他者にまきこまれ、関係が成立してしまっている…。「弱い主体」であればこそ、むき出しの政治性やスローガンとは無縁に思想を積み重ね、冷戦終結後十数年の世界的な秩序崩壊の中で、じわじわと現実性をもっているのかもしれないという。
自由をめぐっていまの日本社会で起きている事態は、従来の自由/不自由の二項対立の枠組みではとらえきれない、との主張も現れている。その一人が、大澤真幸・京都大助教授との共著『自由を考える』(NHKブックス)がある東浩紀・国際大GLOCOM教授(哲学)だ。
東さんによれば、個人情報保護のための規制を世論が支持するように、自由と管理は等しく共存している。私たちはかつてなく自由でもあるし、自由を奪われてもいる。自由か不自由かの差異を間う意味自体が失われつつある、というのだ。
「より切実なのは、人々がえたいの知れない力に飼いならされていることの方だと思う」
わかりやすい例がファストフード店の硬いいす。企業側は、来店する客の長時間の滞留を避け、回転が良くなることを狙っている。だが客のほうは、構造までは考えない。不自由さや不当さで声を上げることもない。意味を問うことさえ意味がないと思わせるしくみ、大義を必要としない物理的な権力装置を、東さんは「環境管理型権力」と呼ぶ。イデオロギーなどの「大きな物語」が消えたポストモダンの果て…東さんの言う「動物化の時代」…の、新しい権力統治のシステムだという。
もっとも、いま自由を語ることにある種のあきらめがつきまとうのも確かだ。『リベラリズムの存在証明』(紀伊国屋書店)などの著書がある稲葉振一郎・明治学院大助教授(社会倫理学)が強調するように、社会主義の退潮で「自由主義以外は、さしあたり選択肢がない」。そんな消去法の中で、個人の生き方と公共性をつなぐ論理を新たに作りださねばならない。稲葉さんが最近考えている「超消極的自由主義」は、社会や個人に過剰な負担をかけず、選択しない人の自由まで認めながら公共性を担保するような「折衷的な」市場システムである。
だから、言葉が問われる。一昨年、『責任と正義…リベラリズムの居場所』(勤草書房)を出した北田暁大・東京大助教授(社会学)は、レヴイナスからデリダに連なる「無限責任論」を尊重しつつも、その限界を指摘してやまない。共同性を語る「われわれ」という言葉に最初からあきらめを抱いた、より若い世代として、無限の応答責任があることを受け入れない他者、その重さに耐えられない他者の存在も真剣に考えられなくてはならないと思っている。
「問題を公的な場所に引きずり出す理由づけや手順をていねいに考え説明するのが、これからの自由主義を前提とした社会の課題だと思う」自由と責任。両者の可能性をつなぐ切実で繊細な言葉、そして閉塞に耐えることが、どんな時代にも増して間われている。
(藤生京子)
朝日新聞2005年1月12日《文化》欄
「安全・安心」という言葉が、21世紀に入ってから行政の流行語になつている。
「安全・安心な米づくり」(農林水産省)
「安全・安心まちづくりの推進」(警察庁)
使われるのは食品から治安まで、様々な分野に及ぶ。
かつて、科学技術の正しさは自明だった。科学者集団の中で合意された「安全」を社会に適用すればいい、と考えられていた。なのになぜ、安全だけでなく「安心」なのか。
文部科学省の「安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会」が昨春まとめた報告書は、「安心は安全の確保に関わる組織への信頼や個人の主観的な判断に大きく依存する」とする。事務局を務めた科学技術・学術政策局の内丸幸喜企画官は「これまでの科学技術政策は、もっぱら工学的な意味で安全の確保を考えてきた。しかし、よかれと思って進めた研究が不安を呼ぶこともある。人々がどう受け止めるか、安心の部分まで見通しながら研究を進めたい。研究にはアカデミックな先進性だけでなく、世の中に役立つという軸も必要だ」と行政側の狙いを説明する。
牛海綿状脳症(BSE)間題など食品行政の動きを追っている平川秀幸京都女子大助教授(科学技術社会論)は、科学知識をめぐる行政側の変化を感じている。牛の全頭検査は「非科学的」と米国などから批判されたが、「消費者の安心」のために実施され、結果的に若い月齢の感染牛が発見された。食品安全委員会はBSE対策について市民を対象に「意見交換会」を開いているが、これもかつてなら「説明会」と呼んでいたところだ。
昨年の科学技術臼書は、地球環境間題など、科学技術の発展がもたらす負の影響にも紙幅をさいた。さらに、ヨーロッパで市民が科学者らと議論する「科学カフェ」や、市民参加型研究「サイエンスショップ」などの動きも紹介している。
「安全・安心懇談会」の委員だった御厨貴東京大教授(日本政治史)は、安全・安心ブームの背景をもつと直接に、「食品や原子力など、今までは専門家が安全と言えば信頼できたが、それでは危ないことが明らかになってきた」とみる。平川さんも「BSEには専門家にもわからないことがたくさんある。かつての原子力政策に顕著だったように、専門家は科学的な正解を全部知っているとされていた。安全とは別に安心といろ言葉を使うことで、科学だけでは解決できない問題があることが認識されるようになった」という。
一方で、人々が抱く不安は主観的なゆがみであり、科学的に正しく理解すれば安心するはず、と従来のように考える専門家も多い。「安全・安心というロジックが、安全は専門家がつくるもので、素人はそれを一方的に受け入れて安心しなさい、という形で働くこともある。今は過渡期。同じ組織、専門分野の中でも様々な考えの人がいる」と平川さん。専門知と民主主義という問題において、安全・安心は正反対の方向に働きうる、というのだ。
安全・安心はテロや犯罪対策との関係でも語られる。ジャーナリストの武田徹さんは、「ある人の安全・安心が、別の人の危険・不安になる恐れはいつでもある」という。歴史的にも、例えばハンセン病の隔離政策は非感染者には安全・安心な社会の実現だったが、感染者には危険な選択だった。監視カメラで安心する人もいれば、逆にプライバシーに不安を抱く人もいる。一部の共同体のものではない、公共的な、少数者も含めた『みんな』の安全・安心を追い求めなければならない」
武田さんは特任教授として東京大に招かれ、御厨さんが代表を務める「安全・安心を実現する科学技術人材養成プロジェクト」でジャーナリストコースを担当している。御厨さんが受け持つ共通コースは、「国家と『安全・安心』」「日本の治安」「テロ対策」などの講義が並び、警察庁、自衛隊、電力会社など安全・安心を「実現する側」の人々が主に受講している。一方、ジャーナリストコースは科学技術の内容紹介だけでなく、社会的・歴史的な位置付けのできる人材養成を目標に掲げる。武田さんは、「安全・安心を『実現される側』の声は失われがち。それを実現する側に伝えるのがジャーナリズムの役割です。このプロジェクト全体の自己検診の役割も果たせればと思う」。
安全・安心をめぐる専門家と社会の問、そして社会内部の多様性。行政が「世の中に役立つ科学技術」を言い始めたが、「世の中」も一枚岩ではない。「みんな」が合意できる安全・安心は果たしてあるのか。武田さんは「安全・安心ははるか遠くにあるもの。向かう方向は漠然と決まっているが、いますぐ手に入るものではない。そんなイメージで進めるべきではないか」と考えている。
(鈴木京一)
朝日新聞2005年1月13日《文化》欄
下品で不潔な文章か、新しい世代の文学か。2000年以降にデビューしたゼロ年世代を代表する作家・舞城王太郎さんの作品は、常に賛否両論を引き起こしている。世代による評価の差が、現在、最も激しい作家だろう。
三島賞を受けた『阿修羅ガール』は、選考委員の一人に「幼稚に暴れているパフオーマンス、もしくは無邪気な媚」としかられた。芥川賞候補になった『好き好き大好き超愛してる。』は、選考委員に「言葉の上っ面の風俗はほとんど瞬間的に風化してしまうということを、物書きたらんとする者、風俗の本質として心得ておくべきだろうに」と批判され、落選した。
『阿修羅ガール』はこう始まる。
「減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。返せ。とか言ってももちろん佐野は返してくれないし、自尊心はそもそも返してもらうもんじゃなくて取り戻すもんだし、そもそも、別に好きじゃない相手とやるのはやつぱりどんな形であつてもどんなふうであつても間違いなんだろう」
文章の特徴は、現代的な口語表現を取り込み、スピード感があること。また、「ングング喉を鳴らしてクヒーンとか言ってスガスガ鼻を鳴らしてる」というような擬音語・擬態語を多く使う。意識や時問の流れを意図的に混乱させることもある。
『ライ麦畑でつかまえて』や『太陽の季節』を例にとるまでもなく、新しい世代の作家にとって「下品で不潔」という評価は勲章でもあった。ただ、共通の教養がなくなり、歴史の地続き感が失われるなかで、ゼロ年世代の孤絶感はより深い。
江戸期の文芸から近現代の小説まで、忘れ去られようとしていた名せりふを復権させた斎藤孝・明治大教授の『声に出して読みたい日本語』シリーズは、からだを媒介として表現をめぐる世代の差を埋める試みだった。舞城作品の特性は、声に出して読むことで浮かぶだろうか。
「読みにくいということはありません。テンポや口調を生かした本当の会話体には、現代の身体感覚が反映されている。たぐいまれな言語能力で、高校生や中学生が抱えるゆがみも合めた身体性をすくい取っています。現代でしかありえない感覚を描いていると同時に、発音やなまりの細部まで描き込み、庶民の暮らしをとらえた式亭三馬の『浮世風呂』の語り口に重なって見えます」
近現代の小説作法とは違っても、江戸期まで視野を広くとれば、舞城作品の立つ位置は異端でなくなるというのが斎藤さんの見方だ。
舞城さんは素顔を公開せず、テキストだけで読者と向き合う。作家という一つの人格が物語を生み出すという近代の小説の前提を、超えているようにもみえる。
舞城さんと同じように異端としての出自をもつのが、昨年のベストセラー恋愛小説『電車男』だ。インターネットの掲示板「2ちゃんねる」で、オタク男性の恋愛をネットの参加者が応援して成就させる物語。50万部を超えるヒットになっている。
国際日本文化研究センター客員助教授(比較文学)の小谷野敦さんは、『電車男』を長塚節の『土』と見立てる。
「『土』の茨城方言のかわりに、2ちゃんねるという村の方言を使うことでリアリテイーを獲得した小説です。インターネット上にはそういう村がいくつもあって、自分の日記を公開したり、友だちの日記を読んだりするなど、身近な物語への関心が強くあります。文芸の原初的な動きのようです」
江戸の文芸や芸能、浮世絵などをアジアを合む広い視点で研究している諏訪春雄・学習院大名誉教授は、「『電車男』は、ネットという場で生まれた自分たちのことばで、自分たちの作品を作ろうとした結果ではないでしょうか」と分析する。
「歴史的に見れば、江戸に出て来た各地の人びとのことばが融合し、共通言語としての江戸語が18紀半ばに生まれました。それが歌舞伎などに用いられ、19世紀初頭の『浮世風呂』など、自分たちのことばで物語を作る動きにつながった。明治という新しい状況に変わっていく前の踊り場のような気分が、庶民の物語を生んだと思います」
ここ百年の近現代文学が行き詰まる踊り場で、新しいメディアとともに育ちはじめた「私たちの世代のことば」。小さな村の方言でしかつかめない感覚を大切にしようという流れが、次第に大きくなっている。綿矢りささん、金原ひとみさんの最年少芥川賞効果で若い世代も小説に興味を持ち始めた。自分たちのことばを手がかりに時代の壁を超えていこうとする動きが、静かに始まっている。
(加藤修)
朝日新聞2005年1月13日《文化》欄