所収誌: STAPS no.26, Octobre 1991, p.7-21
フランソワ・ビグレル(CREPS d'Aquitaine)
--- 非常に古い概念。アリストテレスはある事例に依拠して一般化をめざすための論拠( argument) の意味で用いた。言語学ではこの概念は、トーマス・クーン (Thomas Khun) が『科学的進化の構造』で重視したように、分析にとって重要な概念である。その第一義は、パラダイムは「指導的原理」(principe directeur)に対応するというもの。これは一種の基本的公準 (postulat) であり、ある法則体系の推敲過程を支配する。今日的には、フーコーの「エピステメー」概念やホルトンの「テーマ」 概念に近い。ギリシャ語の「パラディグム」 は「モデル」(模範) の意味。丸山は「心象風景」 (paysage mental)、すなわち世界の見え方 (vision du monde) であり表象ないし観念の体系の意味に拡大させている。エドガー・モラン (Edgar Morin) のほとんどの著書では、「すべてのディスクールがその支配圏においてなされる場合の基本概念ないし悟性の支配的カテゴリー、あるいは論理的正・反関係のタイプの意味である。
--- 一定数の事実に対して、その論述に必要な理論は沢山あるという命題。事実を生み出すシステムが複雑であればあるほど、その論証は正しいというもの。ポパーはすでに、一つの理論のための複数の事実ということを挙げ、帰納法の不十分さを主張している。モランは、ラドニツキー (Radnitzky)の説に答えて「有限な領域に帰納法を適用することは問題解決 (problématique) にならないし面白くもない。有数の無限な領域への適用こそ面白い…が、不確実である。」と述べている。(Morin, 1991) 《裏の決定論》はデカルト的概念枠(パラダイム) の視点を根底的に変えた。《事実》の実在性 (vérité) は、因果関係として、科学的合理性 (raisonnement scientifique) を用いて一歩一歩探究されるのではない。その事実全体を報告することで理論の決着がつき(説明された事実は理論の下につく)、進歩が達成されるのではない。そうではなく、まず事実が《還元できないもの》《根底的なもの》と見なされ、特定の時期にそれを説明してくれる理論なるものが構築される(事実が゙理論の上につく)のである。そこでこの理論が事実に対応する観点(パラダイム) 、理論そのものが発明した観点、この理論が用いるところの道具が発明した観点となる。もし既存の理論に抵触するような新しい事実が出れば、それも含めたすべての事実が構成するもっと広い全体を包摂してくれるような新し理論の推敲がはじまる。一番最後の理論が、観察された全ての事実を包摂しているとしても、それが真であるとする手立ては存在しない。これは、一つの理論よりも別の理論の方がよいとして、ある特定の時期、支持する科学者の集団全体の《一過性》の共通理解なのである。共通理解であるから、研究対象としての事象の真実性 (réalité) とは関係のないことである。科学者たちのこの同意は自動的になされるものではない。ホルトン は科学の理論発明ということについて、子供の頃から自分を導いてくれた原理が間違っているとされた時、その立場を捨てることができない学者たちもいると述べている。
--- カルル・ポパーはウイーンの哲学者で、科学論に大へん新しい見解を導入した。彼は、間違って発表されることが避けられない理論のみが科学的だと述べた。この否定の可能性こそがドグマと理論の違いなのであり、ドグマは理論に勝てないのである。事実によって完全に裏づけされた (sous-déterminées) 複数の理論が誕生する場合、ある種の自然淘汰のような力が働き、特定の理論が特定の時期に他のものより沢山の事実を報告する。このように、理論なるものは、《真実》(vrai)という名のヴェールを剥ぐことによって発見されるのではなく、先行する理論が主張した真実 (vérité) の中に《間違い》を探索することによって発見されるのである。ポパーのこの視点の変換は決定的である。彼は、ルイセンコ学説の踏襲ではなく《継起的説明的観点》 (points de vue explicatifs successifs) から捉えられる事実 (réalité) の尊重という原理を掲げているのだ。いうまでもなく、ルイセンコは マルクス・レーニン主義の原理を生物学に適用した人である。今日、デカルト的概念枠(パラダイム) は生命現象 (phénomènes vivants) を前にして困難に陥っている。このパラダイムは、アーウィン・ラズロ (1993) の指摘するように、科学的思考の歴史の中の前史に属するのかもしれない。新しいパラダイムは、たとえそれが事実 (faits) による裏の決定論の《観点》でしかないにせよ、人間の生 (le vivant humain) の個別性をよりよく説明している。そこには負のエントロピー (néguentropie)、組織体 (organisation)、複雑性 (complexité)、分岐( bifurcation) といった概念が見られる。科学は真実 (réel) を反映するのではなく、真実を「うつろいやすい否定可能な理論」として翻訳する。科学は、《神の社会学》〔社会主義〕 (Alain Tourain, L'après socialisme, 1980) が主張するような、天からやって来るものではない。
--- 相互作用の中にある要素の総体が、あるシステムを一般的に規定する。還元主義ないし構造主義のアプローチは共に、こうした要素が組織化されて現前するものと考える。しかし、あるシステムが開放されているということ、ならびにそのシステムの計画〔情報プログラム〕には意味が伴うということについてほとんど疑問を持たない。デカルト的アプローチは伝統的に、主体論的全体主義(ensembliste-identitaire)(Castoriadis)とか主体論的演繹主義 (déductive-identitaire) (Morin)とか言われるが、このアプローチは世界を、完全に特定可能な諸要素より構成されたものとして見せてくれる。この方法はそれを見せるために明証性 (l'évidence) に依拠する。ラマルクは、分類は人間の発明したものであると考えたが、彼は自然の事物のみが不可分割的なもの (individus) だとしている。存在 (Être) の哲学を受け継ぐ私たち〔西欧人〕はデカルト的概念枠(パラダイム) の伝統にどっぷりと漬かっている。この伝統は閉鎖システムに固執し、開放システムの研究が理解できない。閉鎖システムとは、システムとして保存される限りにおいて、それを取り巻いている環境と交流しない。石はいくつかの構成要素からなるが、その状態が持続する限り、その周囲との関係は問題にならない。かりに石の構成は閉鎖システムとして研究するとしても、生命システム (système vivant) が開放システムであることは、今日、周知のことであり、そうでなくても、そうした確信にもとづいて、すべての結果が引き出されている。あるシステムを開放システムだと宣言することは、そのシステムの特性、働き、計画〔情報プログラム〕を理解する上で《かなりの》重みを持つ。そのことが今日でもまだ、あまり追求されていないのは驚くべきことだ。また、開放システムの《開放性》 (l'ouverture) にかかわる概念を必要なものと認めたがらないといった日常的な科学的アプローチがあるのではないかと思いたくなる。
開放という概念は、開放システムと呼ばれるあるシステムがそのシステムの構造を保存するためには環境との《関係性》を維持する必要があるということを示している。もし、環境の重要性というこの認識が完全に優位となれば、新しいパラダイムが私たちに考えさせるべきことは、この《関係性》ということである。関係性を認識し、関係性の意味を考えることは、近い将来において、生体に関する知見を一変させるにちがいない。開放システムを概念化することによって、いくつかの重要な結果が生まれている。
サイバネティクスの理論モデルは、生命組織体をホメオスタティックな働きをする機械と同類のものと見てよい。この最初のサイバネティクスの理論モデルは、均衡と無縁の開放システムの記述に好適であり、生体、とりわけ人体の特徴である《計画》〔情報プログラム〕に関する疑問について、手っ取り早く分からせてくれる。調整による保存、均衡ならざる動的均衡とは、調整の組織的実行を比較するために、ある時間にある別の規範の原理を必要としている。ホメオスタシスを例にとれば、この比較の指標は、人間の場合でも同じであり、自分が持っている開放システムそのものの中に登録されている。この人間は (文化的多様性があるにしても) 自分だけの指標を選択・構築することができるものと思われる。(但し、選択と構築を実際に区分することは困難なようだ。)
初期のサイバネティクス理論は組織体の理論であるが、開放システムおける変化 (changement) や発展 (évolution) の問題とぶつかる。人間の生命体は自己形成体 (s'auto-organiser)、自己生産体 (s'auto-produire) と見なされ、沢山の疑問を提起しつづけた。
生物学の歴史は、この種の疑問をめぐる二つの根底的立場の間での絶えざる論争の記録である。機械論者の観点では、古典的な直線的因果性 (causalité linéaire) を掲げて、生体現象を説明する。この立場は遺伝子情報 (programme génétique) が発見されて以来、息を吹き返し強力に主張されている。一方には生気論者 (thèses vitalistes) の命題がある。新しいパラダイムはこれら二つの完全に和解不能の立場に対して相互的解決を提案するものとなろう。
--- 生命体 (とりわけ人間の生命体) はその生涯をとおして発達し変成 (se transformer) する。émergence の概念は ヴァレラの énaction の概念と近い。しかし厳密には異なる概念である。「生命体は自己の世界を構築する。... これは絶対的創造性 (création absolue) とでもいうべきものだ。(Castoriadis, op. cit.) 生まれるということ (la genèse) は組織過程においても発達過程においても不思議な問題である。過去の哲学者たちは《神のパラダイム》 (grand paradigme) を俎上に乗せることのできるような理論モデルを持たなかったので、そのことのためだけの (ad hoc) 特別な仮説のいくつかを立てて、この不思議を讃えた。ベルクソンの場合、エラン・ヴィタルの概念を擁立した。生誕の問題を理解するにはまず、無秩序なシステムの物理学が期待され《自己形成体 (auto-organisateurs) としての開放システム》の理論モデルに到達する。そしてこの開放システムの中で「形成的偶然 (hasard organisationnel) が、雑音の引き起こす複雑な作用によって、次第に明確化される役割をはたし、生命体の材料 (matière) を組織化する力 (principe) が最高の複雑さ、洗練、効果に達すると思われる領域へと拡大すると考えられる。」 (「この力は複雑なシステムの冗長度 (redondance) と信頼度 (fiabilité) が、そのパラメーターの何らかの価値から出発し、非常に高度な複雑さのレベルでの組織過程によって偶然的な攻撃 (agressions aléatoires) (単純なシステムなら通常、破壊的な攻撃) に反抗することを可能にする。このような高度な複雑さは調整可能性の大きさとして測られる。(アンリ・アトラン) この類の理論モデルは《第二のサイバネティクス》と呼ばれており、創出 (émergence) の概念 (偶発 événement) を導くものであり、科学者の企てと視野を転換させ、故意の忘却とか寓話的事件にすり替えるとか、事実 (réel) の新しい決定論的記述で間に合わせるといった、三つの方向での恐れを解消させるために必要不可欠の理論モデルなのである。
この挑戦はさほど簡単なことではなかろう。なにしろ、一つの普遍的秩序ではなく沢山の普遍的秩序、一つの歴史像ではなく沢山の歴史像、一つの時間ではなく沢山の時間が存在するのである。そして私たちは、複雑な現象の発展過程を予測することができない。一方、私たちの教員養成の職業は何とかして未来を支配するという使命を持たされているのである。私たちの目の前にある事物が、その内在的性質によってのみ秩序づけられているのではなく、開放システムとしてのその機能から来るところの創出する (émergentes) 属性によって秩序づけられているものとするなら、トレーナー養成に関わる私たちの計画〔情報プログラム〕のいくつかを修正し改善すべきことは明らかである。科学的法則という概念そのものも文字通り変形 (transformation) させられる。西欧のパラダイムの枠内での諸法則は、予め記述 (préscriptive) し拘束するものであり、未来の支配を提示するものである。新しいパラダイムの枠内での法則は「《諸矛盾の表現》 (expression des contraites) となる。... 諸法則は、諸現象の時間=空間的作用としてのディスクール (le discours effectif spatio-temporel des phénomènes) などについて何も述べない。むしろそれは、可能性の総体を意味するのであり、その内部において、時折、発展過程が生産され」新しい根底的な創出 (émergence) が生産されるということなのだ。(ジアンルカ・ブッキ、マウロ・セルッティ『現代多価値世界のコスモロジー』 1990) この創出は特に、浪費の構造を分岐 (bifurcations) させる運行表 (diagramme) によって明示されるのである。
1995.3.17. Trad. par Shigeo SHIMIZU
『私たちと近代体育』 (1970) 再考のために