STAPS no.26, Octobre 1991, p.7-21
▽p.7
P. Arnaud, Centre de recherche et d'innovation sur le sport (Cris) Université Lyon I, 27, 29 bd du 11 novembre, 69622 Villeurbanne cedex.
大戦間フランスの体育とスポーツの発展はリヨン市の成果と刷新に多くを負うている。
1905年以降市長を勤めたエドゥアール・エリオ、1903年ジョルジュ・デムニーが創設した体育上級講座の主任で国際的著名医師のアンドレ・ラタルジェ教授、ならびに知られざる教育家ユジェーヌ・フォルチュネ。
この三人は政治と科学と教育学を同盟させた主要な仕掛け人である。
ジェルラン競技場の建設、健康教室や青年祭の試み、1920年のレジオン体育研究所の創設。これらは学校における体育とスポーツのための市政の主要な成果である。
これら革新の多くが人民戦線内閣に影響を与えた。しかし民族再生政策による健康配慮、児童保護要求などは問題点を提起している。
キーワード: 体育 刷新 青年 市政 健康 スポーツ
▽p.8
The growth of Physical Education and Sport en France during the Inter War period is closely linked to the innovations of the City of Lyon.
Edouard Herriot, mayor of the City from 1905 onwards,
André Latarjet one of the best doctors with an international reputation, and Director of the " Cours supérieur d'éducation physique " founded by Georges Demeny in 1903,
and Eugène fortunet, an unknown and discreet teacher of Physical Education, are the main authors of this union of Politics, Science and Pedagogy.
The building of the Stadium at Gerland, the experience of health schools, the youth festivals and the creation of the Physical Education Regional Institute are the main achievements of a municipal policy for Sport and Physical Education.
Many of these innovations are later to inspire the Front Popular with Jean Zay and Leo Lagrange.
But concern for health care and child protection are guided by a eugenic policy ( for race preservation) which give these innovations an ambiguous character.
Key-words: health, innovation, municipal policy, physical education, sport, youth.
学校における体育とスポーツがリヨン市ほど大衆に向けて幅広く顕著に市政の政策課題となった例は見られない...
フランスのスポーツ史・体育史、フランス教育制度へのその統合過程は、この点において単なる制度的事実や公的教育学説にもとづいてのみ語られるべきではない...
フランス体育の発展はリヨンの先導的試行に負うところ大である... 正しくは「学校ジムナスティーク」のための市政と第三共和制の歴史がまったく混同されていると言うべきである...
決定的促進は二人の市長 Antoine Gailleton(1881-1900) と Edouard Herriot(1905-1957) によってもたらされた... 1870年から1914年までの間に沢山の市政が展開されたが本論文ではエリオの業績のみを紹介する...
1939年以降はリヨンは体育の分野ではほとんど見るべき刷新を行っていないことも事実である...
青年の体育は第一次対戦以後の数年、活発な論争のテーマであった...
軍事的伝統保持の主張、スポーツ試合の感動で世論を揺さぶる現代スポーツの主張、戦没者で人口低下のフランスの身体的道徳的状態を復興しようとする伝統主義の衛生学の宣伝家。各陣営におけるフランス民族再生事業の目的・計画・方法は異なる... (Spivak)
▽p.9
上下両院議会でも論戦が展開... 詳しくは1919年の官報参照... 新聞や専門雑誌をにぎわした...
国は学校体育の促進の必要性を感じ、一連の措置を採用している... 拙著『フランスの体育とスポーツ、1920〜1980年』参照... 要約すると下記の諸措置...
体育・スポーツを公教育省技術教育局管轄とする施策 (1920年)... 学校のジムナスティークの必修の再確認そしてその逆効果... 1923年の初等教育指導要領の改訂...
1925年から〈メトード・フランセーズ〉と呼ばれるジョアンヴィル校の一般教育課程の発行... 週一回の半日戸外活動の開始 (1925年) ... 中等学校でのスポーツクラブ活動の法規制定 (1923年) ...
体育関係予算枠の軍隊関係から公教育関係への移動 (1927年) ... 1927年以降の医学部直轄機関レジオン体育研究所の創設... パリに体育師範学校の創立 (1933年) ...
体育教員養成制度の改革... 医師シャイベール教授提唱による二年課程の体育指導適性証の制定 (1933年) ...
1920〜1927年の間にフランスの学校における体育の組織化と統合化に冠する基本的決定がなされ... 政治勢力の後退にもかかわらず、これらは法的継続性をしめした...
しかし現実には予算の貧困のため具体化は困難... スポーツ施設や体育教育の公募などの面でその影響は顕著...
議会でもドイツ・イタリー・ベルギー・イギリス・アメリカ合衆国に比較してフランスの措置の遅れが各政党から指摘されている... 繁文辱礼の状態...
小学校教師の多くは無資格者ないしやる気のない者... 初等教育就学人口五百万余りは「ジムナスティークのレッスン」を知らない...
大都市の官立中学生約二万五千ほどが少しましな状態で享受... 〔参考文献... 拙著『職業訓練、体育スポーツ教授』( 雑誌『ビネー・シモン』第614, I号 1988 年所収 )のシャリエールの証言など... 〕
1926年までのフランの暴落、経済・社会的危機状況、内政外政の緊張... これらが恐らく青年体育関係の予算を優先させる議決を妨げたに違いない... エリートスポーツのみが内閣の度量の広さの恩恵に与かっていた...
国際試合の発達、特に1919年の連合国競技会、1920年のアントワープオリンピックなどで、スポーツは〈国家的事業〉と考えられるようになる...
〔その例として〕ガストン・ヴィダルがアンワープ派遣選手団に対して行った演説「体育を公教育省の管轄とすべし... 」... 時あたかも、1924年パリ大会招致...
終戦直後からスポーツは国力のショーウィンドとなり、外務省はアントワープ大会向けに旅行・スポーツ関係部局を設けた...
▽p.12
〔引用文〕... ヴィダルの演説... 〔後頁〕
▽p.10
フランスが世界スポーツ競技の注目を浴びることが絶対に不可欠である... これは威信であり、フランスに戦争という名の崇高なるスポーツを与えたのだ...(Spivak)
それほどフランス政治家たちはパリ大会 (ならびにシャモニー大会) の財政的困難を凌ぐことをあえて引き受けたのだ...
スポーツは基本的に平和主義をもたらし人民和合をもたらす (クーベルタン)... そのスポーツが急速にナショナリズムの表現となりイデオロギーと政治宣伝の力の成分となった...
1924年の左翼連合の成立とともに、そしてフランの回復ととに新しい繁栄の時代が到来しスポーツとスポーツ的旅行、そして体育は順風をうける... そして、1932〜33年の経済危機とともに危機が到来する...
この時から、国際政治は上下両院の論議の中心となる... 青年の軍事準備は義務制とすべきか否か... チャンピオンを養成するよりフランスの威信の旗手を養成すべきか、それとも衛生的性能、優性の道を着実に進むべきか...
ドイツとイタリーのファシズムの影は青年大集会や国際スポーツ大会でまさに平和精神を高揚していた...
「昨日と同じように今日も、体育こそがドイツの力を再建している... 企てはすでに到るところで実行されている... 退役士官や下士官が指導している...
クラブが組織され、子どもたちを集め、男女青年たち壮年男子すら集まる... クラブは新生ドイツが近い将来養成する軍備のために備える使命を鼓舞している...
この同じころ、マルシャル大佐はワイマール帝国の建国に有頂天となる... フランスの再建の道はこのような経済的・社会的・政治的特殊困難の中で進められた... スポーツと体育ははじめて矛盾した政策課題となる...
事実、国家の欠陥は多くの場合、民間活動(イニシャチブ・プリヴェ) が隠蔽している... 児童・青年の体育は青年運動 (スカウト運動) や政治団体、単一スポーツ団体、多種目スポーツ団体、そして市当局などの激しい奪い合いとなる...
フランス・ジムナスティーク連盟とカトリック系のフランス愛国ジムナスティーク・スポーツ連盟は、フランス水泳・救助連盟と共に最も活発であった...
パリ市は少年赤十字と提携して学校の児童・生徒用の競技施設設置のための幅広い運動を展開したり、視学官レイ・ゴリエの提唱で休暇村事業を展開している...
こうした教育分野での興奮は明らかに、フランス衰亡という時代的不安に促された児童や未来の母たる少女の保護という具体的な心配にかかわっている...
戦没者人口、出生率低下、アルコール禍、結核、性病... これらは体育の医学化を正当化する...
スローガン... 戸外生活をしよう、フランス的知性再生のために肉体を鍛えよう、大衆的・方法的・科学的・漸進的女子体育で過労と闘おう... 〔参考文献: 『スポーツ的身体活動の教育心理学』1989年ツールーズ、「反逆する肉体」の章〕
軍人とスポーツ人は医師の注射に道を譲らなければならかかった... リヨン市政の顕著は指導力はこういう状況の中で発揮されたのである...
▽p.11
それは大戦間期フランス教育刷新の花びらの一枚であり... その成功には三人の人物の偶然の出会いがあった... それは政治と科学と教育の完璧な結合である...
エドゥアール・エリオについて...
▽p.13
アンドレ・ラタルジェについて...