いつも身体に関するさまざまな論文を探していますが、朝日の文化欄に認知神経科学という分野のちょっと気になるコミュニケーション論が出ていたので収録しておきます。
 ぼくには2つ気になることがあります。
 ひとつは、たぶん昨今の子ども虐待とか殺人といった惨たらしい事件を踏まえているのだろう、「好きになる」という認知の機序を、よりよいコミュニケーション発達の手段として評価しようとしている点です。もうひとつは、認知神経科学の知見を拡大して認知という人間の機能を進化の戦略として説明しようとしていることです。
 どちらもそれなりに、新聞の文化欄のようなところでは、分かりやすい説明だと思われるけど、「見ることで、好きになる」というのは、よい方向に解釈すればコミュニケーション発達の説明になるにしても、メディアとコマーシャリズムの中で、現代の大衆の欲動が、こうした認知の機序によって、抗しがたく均質化され導かれているという面も考えられるということです。また、認知の機能が進化の過程で精密化の方向へ淘汰されてきたという、最近のミクロとマクロを結ぶ科学的説明を鵜呑みにさせる危険も感じられます。《認知進化論》とでも名づけるべき論述ではないでしょうか?いかにもUSAの人間科学といった印象を持ちました。

朝日新聞文化蘭20031205

ヒト科学21

体と心の相互作用 知らぬ間に、見ることで好きになる

下條信輔(カルフォルニア工科大学教授)

  人は悲しいから泣くのだろうか、それとも泣くから悲しいのだろうか。もちろん悲しいとわかっているから泣くのだ、という人がほとんどだろう。しかし心理学者、生理学者たちはむしろ泣くから悲しく感じるのだ、と主張してきた。
  この説は直感に反するように見えるかも知れない。しかし実際に感情(生理反応を含めて情動と呼ぶ)を経験する場面を考えると、案外そうでもない。たとえば山道で突然クマに出会ったとしよう。まず状況を分析し、自分は怖いのだ、と結論してからおもむろに逃げる入がいるだろうか。足が反射的に動いて山道を駆け下り、人里に辿り着いて一息ついてから恐怖が込み上げて来る、という方が普通ではないか。また人を好きになるときは、「気がついたらもう好きになっていた」ということがむしろ多いのではないか。身体の情動反応が先にあり、それが原因になって感情経験が自覚されるという訳だ。「身体の情動反応が感情に先立つ」という話の順序が逆に見えるのは、身体の情動反応が無自覚的(不随意的ともいう)であることが多く、気づきにくいからだ。

視線のカスケード現象

  筆者らは最近の研究で、「好きだから人はそれを見るのか、それとも見るから好きになるのか」という問いを立てた。この問いに答えるため、画面上に顔写真をふたつ並べて出し、被験者には「よく見比べて、どちらがより魅力的か判断して下さい。決めたら直ちに左右どちらかのボタンを押して答えて下さい」と指示した。そしてその間の被験者の眼球運動を測り、ボタンを押すまでにそれぞれの顔に視線がどのように配・分されるかを調べた。
  すると面白いことがわかった。ボタンを押す1秒ぐらい前から視線の向き方が少しずつ偏りはじめ、片方の顔を見ている時間がほぼ80%以上に増大した時点で、そちらをより魅力的と判断するのだ。同じことは、あらかじめの評価で魅力度に大きな差がある顔をペアにした場合でさえ起こつた。
  私たちが視線のカスケード(連鎖増幅)と呼ぶこの現象は、たとえばより丸い方の顔を選ぶというような課題では見られなかった。つまり視線の動きと「好き」という判断との間だけに、特別な関係が見いだされたのだ。被験者はボタンを押す直前まで自分の判断を自覚できてないはずなので、目の動きという身体反応,が、意識よりも先に判断を示していたことになる。「見るから余計に好きになる」ということだ。この因果径路と「好きだから見る」という逆の径路とが互いに促進して、視線のカスケードを起こすらしい。

目で語り合うように進化

  もしこれが本当なら、ふたつの顔への視線の配分を人工的に操作することで、被験者の選好判断を偏らせることさえできるはずだ。そこで、ふたつの顔を左右に交互に異なる時間だけ呈示し、被験者にそれを視線でフォローしてもらった。すると予想通り、より長く注視していた方の顔を魅力的と判断する確率が高まった。またこのとき、単純により長く見ていることが重要なのではなく、自発的に視線を向けて見ることが重要なこともわかった。
  視線を合わせて「目で語り合う」ことで親密度を増すスタイルのコミュニケーションは、ヒトという種に独特のものだ。猛獣やサルなどでは、むしろ目を合わせることは威嚇や敵意の表現である場合が多い。ヒトに特有のこうした目によるコミュニケーションが進化する過程では、視線のカスケード現象に見られる体と心の相互作用が、大いに役立っただろうと想像できる。
  実際、人は他人の視線の方向や動きを素晴らしい感度で検出できる。このような知覚能力が進化したのはどうしてだろう。相手の視線が、相手の心の中の状態、たとえば自分への関心や好意などについて有力な手がかりを与えるから、と考えるのが自然だ。「目は口ほどにものを言い」「目は心の窓」というわけだ。

なぜ「目は心の窓」に?

  しかしさらに、目の動きが心の中を知るよい手がかりになり得るのは何故か、と考えると、まさにその答えを視線のカスケード現象が与えてくれる。というのもそれは、目による心の表現と見なせるからだ。
  つまりこういうことだ。相手の視線に敏感な人ばかりが周囲にいるとし、その中でより親密にコミュニケートできることが生存、繁殖に有利だとすれば、目を使って心をよく表現できる者に、子孫をより多く残すチャンスが与えられるだろう。
  また逆に、目を使った表現に長けた者ばかりが周囲にいるとすれば、視線を敏感に知覚できる能力が繁殖に有利となり、そうした知覚能力の遺伝的基盤が世代毎に拡大再生産されていく。
  こうして視線による表現と、視線に対する敏感性とが、互いに自然淘汰の圧力となって、他の種にはないヒト独自の「目で語る」社会行動の進化をもたらしたと考えられる(このような双方向の進化を「共進化」とよぶ)。
  いずれにしても、言葉による自覚的なやりとりは、視線や身ぶりなどの無自覚的なコミュニケーションに支えられている。決して逆ではない。
  誰かを好きになろうと思うなら、その人と頻繁に会うことが助けになるだろうが、それだけでは足りない。自分からその人と幾度も視線を合わせることだ。もちろん実験室の発見が実生活にすぐ応用できる保証はないが、試してみる価値はあるかも知れない。

(認知神経科学)