友人からのメールで、梅原の反時代的密語が新聞に掲載されていることを知り、読んでみました。
 古来、国家論はその国家を構成する人民の運命・幸福に直結するテーマであり、国家が胚胎・生成すべき最良の秩序とは何かについて幾多の著書を生み出してきました。人間の本性を探求したホッブスやロック、ルソーに源を発する近代国家の基本原理は自由と平等であり、その秩序の方法は民主主義だと言われてきたのです。しかし、歴史が証明してきた民主主義はかならずしも自由・平等の永続性を保障しなかったばかりか、特定の有力な社会グループの自由・平等の道徳律が他のグループに敷衍されることによって、抑圧や悲惨をまねくことが多かったのです。
 元来、国家なるものが道徳的秩序に支えられる構築物であると思うこと自体、ある種の幻想のようなものであり、現実には、全体を支配するための方法としてある程度の寛容さで受け入れられるバランス状態にすぎないと考える方がよさそうです。国家というからには何か精神が一本ぴしっと通っていて欲しいと思いたいのはやまやまですが、それこそが自縄自縛なのです。
 プラトンが思い到った「賢者」の導きのもと置かれる国家など、イデアであってイデアでないもの、《空》なるものと知るべきでしょう。
 それでもなお、梅原は、現代の人間の心の状態を見るに見かねて、真なる知者(如来)を招来したい気持ちなのかもしれませんね。何を念ずるにせよ、問題は実践なのです。釈迦は同じものを目にしつつ、人間と自然を貫く《法》のために実践したのです。
 梅原さんのために祈りを捧げましょう…。

 如来妙色身 世間無與等 無比不思議 是故今敬禮
 如来色無盡 智慧亦復然 一切法常住 是故我帰依

朝日新聞2005年2月5日 火曜日 文化欄《反時代的密語》

プラトンの憂慮

梅原猛



  六十年ほど前、田中美知太郎先生のゼミに参加したことがある。そのゼミはもっぱらプラトンの『ポリティア(国家)』を読むゼミで、毎週二回、午後一時から五時までぶっ続けで行われた。ゼミには、田中先生とともにみごとな日本語訳の『プラトン全集』を完成させた藤沢令夫氏や加来彰俊氏など七、八人が参加していたが、出席する学生はギリシャ語原典の十頁分ほどを予習していかねばならなかつた。近代哲学を専攻していた私は、プラトンの予習には前日しかあてないと決めていたので、前日はほとんど徹夜を余儀なくされた。
  このゼミから一年で私は脱落したが、そのおかげでプラトンの『ソクラテスの弁明』や『パイドン』などの著書を原語で読むことができ、ソクラテス、プラトンから哲学的論証の仕方を学んだ。とはいえ二ーチェ、ハイデッガーの徒であった私には、ヌース(理性)を神としているかのようなプラトンの哲学は決して親しめるものではなかった。

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  しかし私は最近、プラトンの心情に深い共感を覚えるようになった。政治家を志向していたプラトンは二十歳のときにソクラテスに出会い、ソクラテスに魅惑されて政治家志望を捨て、ソクラテスの如き愛知者すなわち哲学者になろうとした。しかし二十八歳のとき、ソクラテスはアテナイの民主主義者によって世を乱す者として死刑を宣告され、毒を仰いだ。この民主主義によって殺されたソクラテスはいつたいいかなる人間であったかということがプラトン一生の間題であった。
  アテナイは民主主義の都市国家であった。アテナイの民主主義は三百年にわたる光輝ある歴史をもつ。そのアテナイが、もっぱら真理を語る愛知者であるソクラテスを殺したのはなぜか。この問いがプラトンを苦しめる。プラトンは民主主義が衆愚政治に変質したのを認めざるを得なかった。
  当時、アテナイでは自らを智者と称するソフィストが活躍していた。ソフィストは主に雄弁術を教えた。政治家たらんとする青年は争ってソフィストについて雄弁術を学んだ。しかしプラトンによれば、そのソフィストの雄弁術は真理を求める術ではなく、詭弁を教える術にすぎない。なぜならソフィストは、Aなる命題を主張するときも、それを否定する非Aなる命題を主張するときも、同じように相手をうまく説得する術のみを教え、Aが真理であるかどうかを問おうとしないからである。

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  日本で普通選挙が行われてから八十年が経つが、腐敗の現象はアテナイと同じように確実に進んでいるように思われる。日本の政治家には大学の雄弁会出身の人が多い。日本の雄弁術はソフィストの雄弁術とはいささか違う。が、真理探究の術ではないことは間違いない。現在、時代におもねる詭弁がもっぱら通用しているように思われる。
  たとえば小泉首相が、戦争を二度と起こしてはいけないという気持ちで、あの無謀な戦争を始めた東条英機首相が祀られている靖国神社を参拝するというのはまったくの論理矛盾である。戦争を起こしてはいけないという気持ちで参拝すべきなのは広島・長崎の原爆で亡くなつた霊などに対してであり、靖国を参拝するならば、「もう一度英米と戦います」といって参拝するのが論理的一貫性をもつ行為であろう。また首相の「自衛隊が活動しているところは非戦闘地域だ」という言葉は、イラク駐留の自衛隊の安全をいかに図るかというまじめな議論を抹殺する暴言といわねばならない。しかし私のみるところ、このような非論理的な言論を公言するのは小泉首相のみではなく、現在日本で人気のある政治家の多くは小泉首相と五十歩百歩なのである。
  プラトンは、言葉に論理なく心に徳もない、いたずらに民衆の人気取りだけが上手な政治家がアテナイの民主主義を腐敗させていると批判する。そのような政治家を選ぶアテナイの民衆にも責任があろうが、現在の日本でも同じことがいえる。今、日本の若者にとって最高の価値は格好よさということである。格好のよいことを好む若者などが格好のよい政治家を選ぶのは当然であろう。
  プラトンはこのような現状を深く憂慮して、最後には哲学者が王である国家を理想の国家と考えたのである。このプラトンの理想国についてイギリスの哲学者、バートランド・ラッセルは、ヒトラーの独裁国家だと厳しく批判した。私は、プラトンの描くような理想国は夢にすぎないと思うが、プラトンの気持ちは分かる。アテナイの民主主義は結局マケドニアの軍事力によつて崩壊したが、民主主義の腐敗もその崩壊の原因の一つであったことは間違いなかろう。
  最近の世論調査では支持政党なしという人の割合がかなり多いが、そのような人たちは日本の政治に対する憂慮をプラトンや私のように感じているのであろう。政治家が真理と正義の言葉を語り、民主主義を健全にしてもらいたいと深い憂慮を抱きつつ祈るのみである。

(哲学者、題字も)