今日も21世紀論です。思想を職業とするグループの仕掛けた《世界》観の変革への挑戦です。思想は飯のタネにはならない…、と思っていますが「マルチチュード」というキャッチフレーズが地球上の現実世界で生じている格差の肥大化を解消するための何らかの考え方ないしエートスとならないとは限らない。それがグローバリゼーションの方向転換を促すような政治家たちの常識とならないとは言えない。そう思わせてくれるところがあります。
文中「…人に希望を与えるのが思想の重要な役割だとすれは、その意味は否定はできない。世界はこう変わっていくという未来への息吹を感じさせる」と書いているところは、何か20世紀へのクーベルタンの挑戦と比較して考えたくなります。ただ、ちょっと世直し怪物みたいな滑稽さが頼りないです。
難解な言葉が知の世界を歩き回っている。「ただの流行では」。懐疑的な声をよそに言葉は姿を大きくしている。
「マルチチュード」だ。
1月の初め。台湾の中歴市にある国立中央大学で「マルチチュード生/身体」と題した学会が開かれた。
主催は現地の文化研究学会など。日本から講師として参加した社会思想史研究者の市田良彦氏(神戸大教授)によると、大陸からの参加者も含めた200人を超える研究者が「マルチチュードはアジアの現実とどう関係するか」といった議論を繰り広げた。
論争は欧州から米国、南米にも広がっている。日本でも関連本の出版が相次ぐ。一方で書評などでは疑問や反発も目につく。「感情価の高い言葉の乱発」「消費される思想に意味があるのか」
「マルチチュード」とは、いったい何なのだろうか。
もともとは古くから使われていた言葉。ラテン語の辞書には多数、群衆とある。スピノザの哲学でも知られる。
古い言葉に新しい息を吹き込んだのがイタリァの哲学者ネグリと米国の比較文学者ハート。マルチチュードはただの群衆ではなく、グローバルな世界に登場した多様な人間の集合体のことだという。
マルチチュードには世界を動かす力があるが、形はあいまいだ。「われわれは、マルチチュードがいたる所に拡散しているような状況に置かれている」(『〈帝国〉をめぐる五つの講義』青土社)。
哲学的難解さの一方で、娯楽映画の宣伝文句のようなことも平然と言う。
「マルチチュードは怪物的な本性をもつ」「蘇ったヴァンパイアだ」(『マルチチュード』日本放送出版協会)
ネグリらは現代を危機の時代と見る。世界の混乱や「貧者と冨者の無残なまでの格差拡大」を見ても、グローバル秩序形成の失敗は明白だ。
危機を解決できない支配者に代わるのが怪物的な力をもつマルチチュード。怪物性は現代を生きるすべての人間の中にある。人々はマルチチュードに変身し、新しい民主主義社会の変革の担い手になる可能性をもつという。
「理論としては乱暴だが、もうユートピアは消滅したと誰もが思っている時代に、まだ可能性はあると言い切った新鮮さがある」。そう評価するのは社会学者でドイツ語翻訳家の島村賢一氏だ。
『新世界秩序批判 帝国とマルチチュードをめぐる対話』(以文社)を訳した島村氏は「論には社会科学の研究者の立場からはとても同意できない点が多い」という。
「だが、人に希望を与えるのが思想の重要な役割だとすれは、その意味は否定はできない。世界はこう変わっていくという未来への息吹を感じさせる」
マルチチュードは世界の悲劇を終わらせる力になるのか
(レバノン、スーダンの難民キャンプで) 写真略
未来への息吹というのなら、マルチチュードという言葉も、新しい日本語に置き換えた方がいいのかもしれない。「多数者」「多数性」「多衆」などの訳語からはイメージが伝わりにくいからだ。
明治の日本人は新知識を広めようと大胆な翻訳語を考えた。その時代なら「共衆」と訳されたかもしれない。マルチチュードは「〈共〉的生を生み出す」というからだ。
「共衆論」とも呼ぶべきネグリらの主張は、古い世界像の転換を説く。人類は新しい「共の時代」を迎えている。知識や情報やコミュニケーションの重要性がまし、アイデァやイメージの生産、人間の安心感や幸福感をつくりだす「共の労働」が物質的労働に代わって世界を動かす世界だという。その担い手がマルチチュードなのだ。
ネグリと以前から親交があり、国際雑誌「マルチチュード」の編集人もしている市田良彦氏は「マルチチュード論にはイタリアの人文学の伝統と現代思想が寄せ木細工のように組み込まれている。批判は簡単だが、魅力はむしろ風呂敷の大きさだ」という。
「彼らの議論には世界と人間のすべてをとらえたいというルネサンス的雰囲気がある。現代の学問が専門化しすぎて、世界を全体的に論じられなくなってしまったことの方が問題なのかもしれない」おそらく転換を迫られているのは古い世界像だけではない。21世紀は知の再生(ルネサンス)の時代になるのか。
(編集委員・清水克雄)