朝日新聞2003.9.4.文化欄【天皇制論】

 天皇制のあり方論はいろいろあるが、「人間天皇」として戦後再出発した天皇制が生産してきた、独特の公共空間の問題を論じたこの論評には、学べるところが多い。

 天皇という特殊な身分がいかなる機能を、今後の日本社会において果たすべきなのか。この問題は、よくテレビでやっている、皇室情報が描こうとするような円満家庭の最高峰的なイメージじゃなく、そういうメディア的皇室への眼差しを生産し続けたことによって、「マイナスガス」のようなものが漂う皇居前広場ができあがり、国民はそのことに何も不思議を感じない「鈍感さ」に陥っていることに気づくべきだという指摘は面白い。


皇居前広場に天皇夫妻…
半世紀の「空白期」の後、徒歩で…禁忌から対話へ転換点

原武史(はら・たけし)明治学院大助教授(日本政治思想史) 62年生れ。山梨学院大助教授などを経て現職。著書に『大正天皇』(朝日選書)、『可視化された帝国』(みすず書房)、『皇居前広場』(光文社新書)など。

 8月13日午後5時すぎ、天皇と皇后は平服姿で、皇居の桔梗門を歩いて出た。そして皇居前広場を桔梗濠に沿って東に向かい、内堀通りの横断歩道を渡って、広場の北端にあたる和田倉噴水公園で足を止めた。その場所で、たまたま居合わせた一般市民と約40分間にわたって対話した。
 しかしこの模様は、TBSやフジテレビのニュースやワイドショーでほんの数分放映されたほか、一部の新聞で取り上げられたにとどまった。NHKや朝日新聞、読売新聞などでは報道されることがなかった。全くのお忍びだったせいか、いまだに事実自体があまり知られていないように思われるが、このお忍びのもつ政治的意味はきわめて大きい。
 もちろん天皇や皇太子が、御用邸の近くや訪問した地方都市の郊外などをお忍びで散歩することは、これまでにもあった。古くは大正天皇が皇太子時代にしばしばお忍びで出掛けていたし、天皇の神格化が強まる昭和初期ですら、1929年に訪間した水戸のように、天皇が白馬に乗って突然現れることがあった。最近では皇太子夫妻が、東宮御所近くの神宮外苑に、内親王を連れて現れる姿を目にすることも少なくない。

▼「マイナスガス」充満

 だが、今回のお忍びはこれまでのものとは決定的に異なる。天皇と皇后が、御用邸の近くや地方ではなく、東京の中心にある皇居前広場に、初めて徒歩で現れたからである。
 戦前の皇居前広場(宮城前広場)は昭和天皇の権威を演出するための舞台だった。親閲式や記念式典、観兵式、戦勝祝賀式といった儀礼を通じて、「人間」から「神」に至るまでのさまざまな天皇像が作り出された。ところが占領期になると、天皇はこの広場に年に一度しか現れなくなり、代わってここは占領軍のパレードや、メーデーをはじめとする左翼勢力の集会に利用されるようになる。左翼の集会は、言葉を媒介としない儀礼ではなく、演説を主体としながらも、一般市民どうしの対話の形式をこの広場(彼らは「人民広場」と呼んだ)に持ち込んだ点で画期的であった。
 だが、こうした時期は長くは続かなかった。独立回復直後の52年5月1日に起こつた「血のメーデー事件」は、皇居前広場での集会を禁止された左翼による最後の抵抗だった。また昭和天皇も、同年5月3日の「平和条約発効並びに憲法5周年式典」に皇后とともに現れたのを最後に、広場からは姿を消す。86年の昭和天皇在位60年、90年の現天皇の即位式、99年の天皇在位10年、2001年の内親王誕生に際しては、天皇は広場ではなく、二重橋(正門鉄橋)に現れた。しかも、いずれも夜間だったため、天皇の姿を直接確認することはできなかった。
 つまり52年5月以来、皇居前広場は儀礼や集会が全くといってよいほどない「空白期」が続いてきた。その間にこの広場には、藤森照信氏が指摘するように、「何々をしてはいけないという打ち消しのマイナスガス」(『建築探偵の冒険・東京篇』)が立ち込めてきた。 「空白期」が続くことで、天皇制が本来有していた禁忌のエネルギーが広場に充満していったのである。今回の天皇と皇后の試みは、こうした「空白期」を終わらせ、広場における対話を復活させようとするための第一歩と見ることもできる。

▼「公共的空間」復活せず

 その背景には、現在の天皇制に対する、天皇や皇后の危機感があると考える。御用邸の近くや地方では、一般市民との対話はごく自然にできるのに、肝心の東京でそれができない。それどころか、即位式や在位10年などの儀礼では、天皇や皇后は夜間に二重橋の高みから人々を見下ろす形になり、人々は戦前さながらの「君が代」の斉唱や「天皇陛下万歳」で2人を迎えた。平成になってもなお、東京でこのような儀礼が繰り返されることのアナクロニズムを最も痛感していたのは、実は天皇や皇后自身ではないのか。
 内親王誕生以来、皇太子夫妻が神宮外苑にしばしば突然現れるようになったのは、東京と地方のギャップを埋めようとする試みと解することができる。これが「地ならし」となり、今回のお忍びに至ったと考えるべきだろう。それは皇室の姿が見えないことで、禁忌を増幅させる天皇制から、天皇をはじめとする皇室メンバーが全員姿を現し、一般市民と対話することで、禁忌を極小化しようとする天皇制への転換が、 「空虚な中心」と呼ばれる皇居をもつ東京でもいよいよ始まったことを意味している。
 けれども、それは喜ぶべきことなのだろうか。
 先に私は、今回のお忍びによって、皇居前広場における対話が復活したと書いた。しかしそれは、あくまで天皇や皇后と市民との対話であることを忘れてはならない。この点は、占領期と明確に異なるのだ。皇居前広場は、市民どうしのコミュニケーションを媒介とする「公共的空間」として復活したわけではないのである。
 禁忌のエネルギーが増幅することの危機感を機敏に察知していたのは、皇室自身だったのではないか。鈍感なのはむしろ、一般市民の方である。皇居前広場を「公共的空間」にできなかったことにすら気づかないまま、私たちは今回の重要な第一歩を見過ごそうとしている。