朝日新聞2003.8.29.文化欄、《誤解されるホッブズ》

 先日は、USA問題をどのように考えたらいいのか、その問題の大きさと複雑さに頭をかかえることでしょう…。ということで、朝日新聞の、ひとつの学際的な論評シリーズを紹介しました。
 以下に紹介するのは、そこで考察された現代ナショナリズム問題とシームレスに連携している論評です。
 USAの「ネオコン」なるグループの学問的素養がどの程度のものか、思想の言葉を皮相的に利用する輩であることがよく分かります。ぼくは、ネオコンたちがホッブスの言葉を、こんな風に使っていたなんて知らなかったのですが、この論評を読んで、わが意を得たりです。まるで思想的遺産の冒涜です。コピー・ライターの方がよほど言葉の意味に敏感だといえるでしょう。
 アメリカの政治家はこの点では日本のそれと似たような思想的体温であるといえないでしょうか?いや、日本なら、たとえば小泉内閣の誰かが、こういう間違い発言をしたら、それこそ野党はヤンヤの喝采でしょうかね…。

 著者は結びとして、「現実がホッブズ的世界なのではない。ホッブズ的世界観で世界を見るから、現実がホッブズ的世界になるのである。」と述べているが、ホッブズに言わせれば、そんな仮想世界を鵜呑みにすることを敢えて望むなんて…、私の本を最後まで読んだのか!と憤慨するでしょうね。

 それは別として、注目すべきは、著者が自然科学から社会科学まで、近代的知の操作概念としての「仮想世界」の純粋培養的な抽象性が貫徹している、と指摘している点です。考えるに、そういう抽象的世界にゾッコン惚れこんで夢中になれる思想状況の推進に、ロマン主義がからんでいるようにも思えます。ぼくたちは、現代思想のために、近代思想が陥った《ありもしない世界》を想定して現実の歪みを革新的に転換しようとする方法を、再び取らなければならないのでしょうか?そして、それを推進する何らかのロマン主義に捉えられることになるのでしょうか?ルソーは読まれるべきだが、そこに陥るべきではない。

 まずは、ごゆるりとお読みください。


誤解されるホッブズ

…ネオコン 米の支配を正当化…「万人の万人に対する闘争」を様々に解釈
 

 加藤朗(かとう・あきら)51年生まれ。早稲田大大学院修士課程修了。防衛研究所員などを経て現職。著書に『現代戦争論』(中公新書)、『テロ 現代暴力論』(同)など。

 9・11以後とりわけイラク戦争後、米国の力による支配が強まってきた。そのためかロバート・ケーガンの『ネオコンの論理』のように、現代の国際社会を「万人の万人に対する闘争」のホッブズ的世界とみなす傾向が強まっている。しかし、国際社会を単に対立の場とみなしたり、力による支配を正当化するために「万人の万人に対する闘争」を持ち出すのはホッブズの誤読以外のなにものでもない。
 ホッブズが誤読されるのは、「万人の万人に対する闘争」の世界観が人間性悪説や原罪意識など普遍性を備えているが故に、さまざまな分野で融通無碍に解釈できるからである。 「万人の万人に対する闘争」という対立の世界観は、自然状態における人間の平等性、その平等性故に生まれる相互不信という仮定から論理的に紡ぎだされた実証も反証もできないホッブズの仮想の世界である。この世界観は「希少性と欠如」の仮説に集約され、「生存競争」 「適者生存」 「弱肉強食」 「強者の権利」などさまざまな対立の物語を生み出し、分野や時代を超えてわれわれを呪縛してきた。

国際社会縛る「仮想世界」

 たとえば古くは人口増加に対する食糧の相対的希少性から生存競争が起こると仮定したマルサスの人口論である。現在では食糧は天然資源に置き換えられ、マルサス理論は石油や希少鉱物をめぐる資源戦争の理論に援用されている。また社会科学では「適者生存」の物語はスペンサーの社会進化論に姿を変えて帝国主義思想を正当化した。他方、自然科学ではマルサスの「生存競争」の物語はダーウィンの生物進化論へと発展し、生物誕生から人類にいたる壮大な物語に結実した。またマルクスはダーウィンを介してホッブズの対立の世界観を資本論に反映させた。さらにアダム・スミスから今日のニュー・エコノミーに至る自由主義経済も「適者生存」の物語を前提としている。そしてなによりもホッブズの影響を強く受けたのは政治学なかんずく国際政治学である。
 国際社会は万国が対峙するホッブズ的世界というのが現代国際政治学の基本的な世界認識である。しかし、この世界認識には重大なホッブズの誤読がある。ホッブズは『リヴァイアサン』で「万人の万人に対する闘争」とは記したが「万国の万国に対する闘争」などとは語っていない。ホッブズの関心は専ら、 「万人の万人に対する闘争」を制約し、人間の生存の権利を保障する「人間の安全保障」のために社会契約に基づく近代主権国家を創出することにあったからである。
 ホッブズは地上における至高の権力を備えた主権国家を、聖書に登場するこの世に比類無き力を持った巨大な怪獣リヴァイアサンにたとえた。この主権国家の創設で国内杜会の「万人の万人に対する闘争」は制約され、人間の生存の権利は保障された。しかし、多くの主権国家の誕生によつてホッブズが想定していなかった問題が生じた。それは、国際社会で万国の万国に対する闘争が生まれ、国家の生存の権利が脅かされると考えられるようになったことである。この背景には、ホッブズによって「人格化」され「人工的人間」となった主権国家からなる国際社会もまた国内社会同様に「万人の万人に対する闘争」の自然状態であるとの仮定がある。
 この仮定に基づく限り「人工的人間」としての国家の安全保障は、 「人工的人間」同士の社会契約によってリヴァイアサンを超えるいわばスーパー・リヴァイアサンとしての世界国家を創設することである。その一つの試みが、カントが『永遠平和のために』で提案した二つの世界共和国」である。カントはホッブズ同様に自然状態を戦争状態とみなしたが故に、自然状態を平和状態にするためのスーパー・リヴァイアサンを構想したのである。
 しかし、国際社会をホッブズ的世界とみなすことには無理がある。 「万人の万人に対する闘争」の前提となる平等性が主権国家の間には成立しないからである。主権国家の数が限られていた19世紀以前はともかく、20世紀以降、主権国家間の能力の不平等は拡大する一方である。自然は老若男女であれ人間の心身の諸能力を平等につくったとホッブズは主張したが、「人工的人間」である主権国家は人間がつくつたが故に不平等になった。

対立と協調の止揚へ

 にもかかわらず、たとえばケーガンはじめリチャード・パール、アービング・クリストルらネオコン派のようにアメリカが生きる世界をホッブズ的世界とみなすのは、アメリカの力による支配を正当化するために「万人の万人に対する闘争」というホッブズ的世界観が必要だからであろう。現実がホッブズ的世界なのではない。ホッブズ的世界観で世界を見るから、現実がホッブズ的世界になるのである。力による支配を正すには、国際社会は自然状態とのホッブズの誤読を改めるだけではなく、ホッブズの対立的世界観そしてそのアンチ・テーゼとしてルソーが措定した協調的世界観の双方を止揚する新たな世界観の創出が必要不可欠である。