STAPSにおける技術観、その神話と範型 … ハイデッガーの技術論によって …

マリー・ジョゼフ・ビアシュ(Univ. de Clermont-Ferrand (*))

(*) Laboratoire d'Anthropologie des Pratiques Corporelles

1.技術を問う

以下、私たちは技術について問います。問うとは、すなわち道に従い道をつくることです。

マルチン・ハイデッガー(1958)

 ハイデッガー以降、「技術を問う」ことは意味のない問いのように思われがちである。最近、STAPSの領域でも技術を問うことが組織的に行われているが、技術論の研究は部分的な成果しか挙げていないと言ってもよい。 (1)
 スポーツ的技術(les techniques sportives)、あるいは一般的に、肉体的技術(les techniques corporelles)は、STAPSの領域を規定する用語であり、二通りに用いられている。一つは、練習過程によって獲得され、指導機構の影響を受けることを前提とし、社会的に意義づけられた行動(comportements) の総体という意味と、もう一つは、STAPSが優先的に意義づけている《諸科学》の研究対象、という意味で用いられている。この《諸科学》から優先的に認められるということが《諸技術》に割当てることのできる立場を曖昧なものにしている。科学に対する技術の独自性は、このように、制度的にはまったく取るに足らぬものとなっている。(Biache, 1991)
 こうした制度上の問題よりも、もっと明確に問題を提起する視点は、肉体的技術なるものを独自の研究対象と見なすことの可能性に関わる視点である。つまり肉体的技術は、科学知(savoirs scientifiques) の応用問題の一つだと言いきれないが、さりとて一般的な哲学的考察の主題ともなり得ない、それほど独立した研究対象なのかという点である。
 したがって肉体的技術という場合、技術を問うことは、認識論としてはつまらぬことではないし、方法論的にも無駄なことであるとは思われない。実際、こうした論述計画は形式論的反論に直面する。肉体的技術という場合、肉体も技術も存在論の上で特別の約束があるわけではない。この不明確さの故に、肉体的技術の社会的定義(例えばスポーツのイメージ)を頼りにしようにも、その対象を捉える理論的枠組みを変更する可能性がまったくない中で分析せざるを得なくなる。この曖昧さの原因の一つはSTAPSという名前から来る。技術は技術でも、スポーツ的身体活動(APS) の技術であり、運動性(motricité: 「モトリックス」) によって規定される形式であり、社会的・イデオロギー的な枠組みの中に捉えられ、そのイメージはそれを生産する主体との関係で自律的なのである。この《APSの技術》の中で、物象化傾向が対象を構築する力として作用する。何故なら、技術の持主つまり人間は技術の表現形態の背後に隠れてしまうからである。一方、APSの《諸科学》の方は、まったく矛盾することだが、人間科学(Sciences Humaines) のことではない。
 工業技術の様式としての肉体的技術の物象化傾向は、テクノロジー以外の観点をまったく排除する。バイオメカニクス、あるいはもっと間接的には生理学などの科学は、このテクノロジーのためのものである。この種の研究が直接めざしているものは、肉体=機械である。すなわち、基本的定義として、メカニズムないし機械として発達する対象、言い換えれば、その定義にかなった物質的存在を支配する対象である。こうした唯物論的還元論は、肉体的技術というものをシステムの貫徹という視点からしか眺めない方向へと一直線に導く。その危険性は、技術への問いを動作の研究に還元し、技術に含まれる知(savoir)を抹殺し、動作研究に還元できない観点や、動作のディスクール〔動作記述〕に還元できないものを抹消してしまうことにある。
 ハイデッガーは、技術の道具的性質ないし行動的性質について、「何か特定の物をつくる時に、如何につくるか、ということの知識」としての《テクネー》である、という定義があるが、この定義だけでは十分ではないという。そこにおいて知識(connaissance)は制作や仕方を意味しない。知識はむしろ表現行動(le manifeste)の始点であり、本来の意味での発明を意味している。したがって「テクネーは作るという意味ではなく知る(savoir)という意味」なのである。(Heidegger, 1990) 技術の概念をこのように捉えたハイデッガーは、技術が行う制作を組織化する知識の必要性を再提出した。知識とは、知識を用いる知(savoir)ではない。肉体的技術の中に技術知(savoirs techniques)があるという仮説は(これが本稿の論点であるが)以上のように、ハイデッガー的視点に支えられているが、そこにのみ埋没するものではない。技術知が存在することを確かめるだけでは十分でない。内容ならびに構造として具体的に技術知を定義する必要がある。

2.肉体的技術の一つの理解

 《肉体的技術》の最も簡単な定義として、ヴィガルロとヴィヴェスのものがある。それによれば肉体的技術とは「特定の運動性の仕事(tâche motrice) を効果的に遂行すべく、人間が行使することのできる伝達可能な手段の総体」である。(Vigarello/Vivès, 1983) この定義は明らかにモースが「肉体の諸技術」(les techniques du corps) に与えた定義と似ている。モースはこれを「社会から社会へと、伝統的方法により、人間が自分たちの肉体を使用する仕方」であると定義している。(Mauss, 1973) レヴィ・ストロースはモースの著書の序言で次のような重要な指摘をしている。つまり肉体の諸技術とは、一般的ないし一般化可能な肉体的活動であり、それを媒介として社会構造はその刻印を個人につける、といっている。しかし、この二人の定義は表面的には似ているがそうでもない。モースは彼の概念を技術の組織性ということと結びつけ、技術が社会の特異形質(idéo-syncrasie)の機能的表出を決定づけるとしている。モースが伝統ということを重視した点を忘れるべきではない。モースは伝統の重みと役割を技術の定義の中で主張している。それはまさにジェネティック (生殖・遺伝学的) な観点と表裏をなす。それは単なる機能的発達あるいは肉体的形態の構築の意味よりも、むしろ社会的発生という意味である。肉体を社会的使用に向けて適応させるということ、あるいは練習・学習ということより、むしろ教育ということに強調点がある。モースの調査研究は、方法論の上では比較民族誌と関わっており、また、理論的には人間行動の発生的社会学の概念と関わっている。ヴィガルロとヴィヴェスの概念の下敷きとなっている観点は、上のモースの概念とは掛け離れたものである。彼等の提案をごく表面的に検討しただけでも、それは 定冠詞 "La" を伴う肉体的《技術一般》に関する提案であって、肉体の《個々の技術》ではない。そして、技術的思考(la pensée technique) なるものの存在を問題とし、技術的成果を想定する余り、適応の観念を忘れている。伝統的なもの(traditionalité)が生起する場は互換可能であると想定している。要するに、技術一般の心理=行動的(psycho-praxique) 理解よりもスポーツ諸技術が優位になるように対象を定義している。このような視点はまさにテクノロジーの視点でありモースの視点との存在論的ギャップは明らかである。人間が技術的なものの働き手とされ、主人となっていない。肉体的技術のこうした定義は、モースのそれよりも現代的ではあるが、ハイデッガーの批判するように、技術に関する思考と、技術の道具的概念とが混同される、といった通俗的間違いに陥っている。それ故、ハイデッガーは「今日にいたる技術一般の歴史に見られる技術の道具的表象を、技術発展の全体像と見なすこと」(Heidegger, 1990) (これこそまさに、ヴィガルロがその著書で、文字通りに表明していることなのだが)と、技術の道具的性格では定義し得ないような「技術の固有性」(Heidegger, 1958) との違いを力説しているのである。ハイデッガーの古いテキスト(1958)では、もっと強烈にこの違いが表現されている。ハイデッガーの言う「技術一般の道具的人類学的概念」は技術の本質に迫る道を閉ざす概念とされているのである。ハイデッガーの観点については再び後述することとし、ここではまず肉体的技術の概念ならびに、そこからスポーツ的技術を引き出す論理の曖昧さについて検討しよう。

 スポーツ的技術の裏には技術形態が優勢である。これが効果をもたらしている。この意味では技術はみな行動的なものであり、目標達成すなわち運動性の仕事の実現を目指す。パフォーマンスがそれを立証する。肉体的技術の分析とスポーツ的技術の分析を同列に置けば、肉体は道具となってしまう。それは自然の手具(モースに言わせれば「人間の第一の対象物であり、かつ技術的手段」)ではない。 (2) スポーツ的技術は肉体を道具化する。それは肉体をして仕事を達成させるようにするが、それだけでなく、肉体をテクノロジーの環境の中にはめ込む。エリュル(J.Ellul, 1988) によれば、現代のスポーツ的技術はテクノロジーの構築物であるという。それは単に、人工物としての道具(例えば機械スポーツの道具)が介入するという意味ばかりでなく、そうしたものと見なされることによって、肉体が存在論的に逆転され、肉体的技術のカテゴリー全体を構成するものとなる、という意味もある。 (3) こうして、すべてが次のような考えに結ばれる。「《道具化》(instrumentation) という言葉そのものが、二つの意味を持つ。一つは認識論的に、構築された知識を自然へ結びつけるという意味。もう一つは方法論的に、文化的技術(technoculture) なる表現で示されるところの一連の装置とか儀式の数々をつくり出す手段を手に入れるという意味。この文化的技術が、知を分節化し、不要なものを排除する。」(J.Ellul, 1988) 道具化は、技術を定義する各要素によって肉体の技術一般の意味を変換する。「つくり出す手段」の記述と比較によって。「《特定の》運動性の仕事」の分解によって。伝達様式の形式化によって。ハイデッガーの言う「純粋情報」や「メッセージの体系と形式的記号化」として働く生の言語(une langue)の使用によって。このような、人間の技術化(technicisation)過程は、伝統性とか教育といった観念を、悟性から抜き取る。そして、肉体的技術のテクノロジー的概念から人間学的概念までの距離を強調し強制する。ただし、ハイデッガーの考えでは、この距離は相互の位置確認のためのものだという。
 肉体的技術一般の意味は、それだけでは社会=歴史的ないしイデオロギー的意味を持たないが、こうした技術化(technicisation)の過程の外側にそれを位置づける必要がある。「諸技術に対抗するシステムとしての文化」(Simondon, 1958)といった概念を持ち出すことが問題なのではない。そうではなく、肉体的技術の理論(技術知が教えるものはこれ)を整理し、認識論的な煤(スス)を拭い落とすことが問題なのだ。この煤は、技術を道具的に偏って理解することで付着し、そこに存在論上のギャップが生じるのである。 (4) この煤(スス)落としは、対象への接近法を変革する可能性がある。グスドルフによれば、それはロマン的変革であり、「人間理解ということを最重視する共通の認識論的地平」をもたらすものだという。(G.Gusdorf, 1990)
 このような考え方は必然的に、個々の肉体的技術には《行動知》(savoir-faire)のようなものがあると認めているのである。この行動知なるものが、《共通感覚》ないし《行動感覚》(sens pratique) のレベルで肉体的技術を具体的に統合するということ、すなわち「無媒介的に把握される表現形式(mode d'expression) 」である。(Whorf, 1969) (5) B.L.ウォルフは、その論文『プラグマティックな行動と言語に対する思考の関わり』で、現代人の世界認識のカテゴリーの相対性を主張し、私たちの世界認識のカテゴリーの概念構造は言語的構造に依存していると述べている。ウォルフによれば、概念は「何らかの文法体系に結合されるよりも、むしろ経験から発して分析へと向かう知識の操作過程に結合されており、この操作過程は《既に学習された経験》として言語的に固定されてあった様式(modalité)であり、文法的分類思考では把握されないものであるという。(Whorf, 1969) ウォルフの思想の中心には、世界認識の体系というものが何ものにもかえがたい特異な性質を持っているという確信がある。そればかりか、私たちにとって注目すべきことは、あらゆる《共通感覚》ないし《行動感覚》の中に、それを組織化する独自の知があるという確信でもある。

3.技術知からの接近法

 エリュルは、その著『テクノロジーのこけ脅し』(J.Ellul, 1988) の中で、技術者的文化(culture technicienne)などという概念を否定している。技術者的文化という概念は、ロケプロの概念で、技術的環境を支配するために必要とされる知識ないし行動知の体得ということを意味している。(P.Roqueplo, 1983) エリュルの論点は、主として、テクノロジーの思考と文化との逆説的関係を明確化するところに置かれている。エリュルは技術と文化の関係の曖昧さを明確化しようとして技術批判をしているが、この説に従う必要はない。彼によれば、技術は自ら文化的思考への妨害者であることをもって任じており、自分たちのモデルの覇権をめざし、彼等の世界は自分たちの世界についての反省、すなわち「後ろ向きに考えること」を排除しているのだという。
 しかし、肉体的技術について考える場合、彼の説にはいくつかの重要な点がある。技術的道具的分析モデルを重視すれば、〔技術的表現〕形式にのみとらわれ、肉体の技術性の根底に潜むもの、すなわち肉体を制作に向かわせる原因や動機を生み出す内的知(savoirs intimes) を捨象してしまう恐れがある。ハイデッガーは、技術者にはこうした内的知があると評価し、心理学的に問題を提起しているが、認識論の問題にはしていない。ハイデッガーの技術観は技術を一つの自律的システムとして、ひいては一つの本質として見る技術観であるが、これは技術と技術者を分離させてしまう。 (6) 技術者がそうした知識を持っており、彼がそのことを自覚しているとしても、その知識なるものの知識としての性質が明確ではない。そのような知識は、技術者の心理的傾向からのみ説明されるものとなってしまう。この問題はあとで一度検討するが、これと関連して別に、肉体的技術の主要な (本質的な) 性格は、はたして肉化(incarnées) されるのか、肉体的技術の意味よりも表現形態の方が大切なのか、肉体的技術の意味は分析的な知の枠組みの中で記述できるのか、といった疑問がある。
 こうした疑問の渦は、既にモースの論述にも認められるが、モースはこれらを最も重要な問題として位置づけていないように思われる。肉体的技術の人類学的研究を推進するということは、すなわち肉体的技術の個々の表現形態と、肉体的技術の背後にあってそのモデル〔範型〕をつくりだす人類の内面的構造との結合関係を問題にせざるを得ない。この問題設定から見ると、技術論は技術知の問題となり、さらには人間の認識論的可能性といった茫漠たる問題とかかわる。
 先に述べたように、本稿では肉体的技術を心理=行動(psycho-praxis) と同一視することを否定する。肉体的技術は単なる行動(praxis)には還元できない。J.C.ボーヌの言葉を借りれば「本来の技術性は知的な準備から生じるのではなく、人間の肉体から生じる」としても(Beaune, 1988)、肉体的技術は根底的にエピステメーと関わっている。肉体的技術はまず何よりも慣習的行動(pratique)であるが、それが肉体を通して表現される時、世界に対するエピステメーの関係、形而上学的関係が生じるのである。かりにボーヌが言うように「技術的発明は形而上学的決定の問題」であるにしても、それは、技術的発明なるものが世界の相貌を改変させるという意味ではなく、人間を発明するという問題を提起するという意味である。したがって、技術論には二つの側面がある。一つは、行動(praxis)の面での《行動知》の知的条件を教えるという側面であり、もう一つは、人間観に向かう技術知の側面である。技術を知識の側面から考えるということは、技術を通して人間を知ることと同じである。肉体的技術論の最初のつまづきとなるのは、技術の本質論である。そこで発見されるのは内面的なもの(l'intime)の仮説的概念である。肉体的技術論が人間観の知識の助けとなるための条件は、エピステメーの視点があるか否かである。大切な点は、行動(praxis)の中に現れる経験と知を(内面的なものから外面的なものへと)外化する過程(l'extimisation)である。この外化過程が、行動における知・経験の構造と構成を知的に把握可能なものとする条件を教える。このような知的解明は心理学の問題なのかも知れない。U.フリック(U.Flick, 1992) 〔『主体と技術−−−日常生活における技術変革の社会的表象に関する方法論的反省−−−』〕は、個人の日常的技術能力と心理的構造の相互作用について指摘している。フリックは、自己に関する知(主体の知)と技術的範型を結ぶシステムの概念について論じ、「技術の主体的概念の構築ならびに、それがテクノロジーの発展に沿って変容する過程の問題」を強調しているが、彼の技術概念は、特定の刺激としての役割に限定されている。技術は労働の環境の中に最も大量に見られるのであるから、この労働の分野が技術観の一般化ならびに技術変革の評価に及ぼす影響について研究対象とすべきだという。フリックはこの〔一般化される〕技術観のことを「技術概念」と呼んでおり、主体的表象と社会的表象の混合論の助けを借りて、「関与する事件の物語り」(narration d'épisodes pertinents) の方法で事実の解釈を行っている。日常的知の特異性を正当化するものは社会的観点であり、認知論的観点を捨てて社会的表象の周囲に働く概念に注目すべきだ、とフリックは考えている。この方法はそれ自体、批判すべきものではないにしても、関与する事件の物語りは、実のところ、先述の外化過程(l'extimisation)の概念を裏づけるものとされ、その理論的成果は、先の肉体的技術に関する指摘と完全に食い違っている。まさにフリックが問題としているのは、個人の内面を動かす知の本質や構造ではなく、その反対の、技術的物品として姿を取ったイメージの問題であり、語られる主人公のディスクールの装置の問題なのである。技術はもともと外的なものであり、主体が「技術に向かう」のであるから、主体は技術の主体である以前に、技術の働き手である。主体と技術という二つの本質が主体=世界の二元論によって分離されている。この文脈において、心理学者が有力な役割をはたす。主体の内面に「技術概念」なるものを構築する媒介者は、まさに社会的表象のメカニズムなのである。D.スペルベはこれを受けて、社会的表象の伝染病理といった論を展開し、個人の心理的内容としての技術のイメージの普及過程を解明している。しかし、それが技術の内部で認知論として働くことについては触れていない。「主体内部における」技術の適切な組織化という問題は、こんなわけでほとんど問題にならない。フリックの論文は何より、技術概念の社会的特質のメカニズムの説明に終わっている。こうした社会心理学は、人類学に近いものであり、その研究対象が何であるかを限定することにおいて弱点がある。主体と技術の関係は、そこでは行動的(praxique)側面から考えられており、行動の道具的物質的な面が、推敲の枠組みとして、個人の行動(action)の枠組みとして重視されている。フリックは、K.H.ヘーニッヒと共に、技術は「独立した本質」であり得るという説を否定することによって、この問題点に気付いたかもしれない。いずれにせよ彼の論文は、その方法論の具体的視点のいくつかも含め、主体と技術の間にアプリオリな断絶を持ち込んでいる。現実的価値は何より技術の方に置かれている。このような考え方は、主体の働きとしての技術概念の認知的側面を排除し、それによって、個人における技術の表象の構築を否定するものである。フリックは技術の社会的表象内容を重視する立場に確信をもっているが、その内容構成は必ずしも技術の意味論と関わるものではないと考えている。 (7) この心理学者は、その内容構成としてイメージないし社会的表象のコレクション目録を編纂しようとする。そして、主体を技術的行動へ向かわせる動機や原因については問題にしない。したがってフリックの説は、肉体的技術論の二次的方法としてのみ意味がある。主体の認知的側面の重要性を否定するが故に、肉体的技術の原因の根幹に触れておらず、主体における技術的行動の意味にまで達していない。ただしここで、意味といってもそれは論理的意味とか合理的意味とか、あるいは直接的に表記可能な意味ではない。 (8)
 行動の原因の根幹としての意味は、肉体的技術の場合、まさに技術知の認知論的側面を示している。認知機能は心理的内容や運動形式(formes motrices) の表現にのみ限定されるのではなく、それらを生み出す枠組みにも適用される。肉体的技術が目的達成に向かう場合、それはまさに究極目的論(téléonomique)の側面を持つと考えてよい。またそれは、形態目的論(téléomorphique)すなわちメカニズムの表現の解明にも向かう。何故なら、肉体的技術は、目的や文脈への適合化へ向かうものであるからである。この側面は、それ自体、特異的(idéosyncrasiques)なものであり、何らかの方向性を支えるものであるにしても、意味を説明してくれるものでは全くないという点で皮相的な認知論でしかない。 (9)
 ここでは合理主義宗教論にまで踏み込むまでもない。作るべきモデルは精神(エスプリ)の理論モデルだということを確認しておけばよい。チョムスキーの理論はこの視点で展開されている。彼の『デカルト言語学』には諸技術に関するまったく驚くべき文章が見られる。それはチョムスキーの修練と洞察に満ちたの奇妙な文章である。著者がそこで述べているのは、芸術家や技術者が《学習された技術》に対して持つ差別的能力の一般性ということである。《見知らぬ、不定型の、しかし前もって存在する》想念を構成することにおいて芸術家や技術者の誰もが持つ差別的能力のことである。(N.Chomsky, 1969) チョムスキーの理論はこの点において合理主義の理論であり、類的属性として個人の中に切実に働き現れる潜在的構造の理論である。この観点は根底において認知論的観点であり、肉体的技術の一般概念のための仮説とすべきものである。(Biache, 1990) しかし、チョムスキーが特に問題にしているのは、精神(エスプリ)の合理的哲学、合理的心理学に関する検討であり、肉体的諸技術の認知論的基盤が肉体的技術の一般的定義を内在的に構成する、といった説とは関係が薄い。知覚と学習の間のメカニズムの同一性を主張する点において、チョムスキーは何より、人間的生産活動の認知論的基盤を擁護する。立ち戻るべきはこの思想である。
 この認知論的基盤は、ある意味において、行動(comportements) を構造化する背景として働く。この認知論的基盤に関わる斉一性や統一性の観念が批判されることがある。知識には構造化するカテゴリーがあるという確信を相対化すべきだというのである。これはある意味において一般化が可能である。それは、この種の知識の表現のすべてに先立つ要因だが、決定要因としての背景の概念は別の理論的提案に見られるもので、それが肉体的技術一般と関わる可能性がある。ウォルフの考察はこれに関係している。彼は二人の話者の相互的理解が成立することの説明の形式、参照の形式としての自然の論理を否定する。ウォルフの問題はそれ自体、合理主義の認知理論の再検討を目指すものであり、彼にとって自然の論理は無意識的に言語に結ばれており、その言語の中での論述は、話者たちをその言語に統合する一種の論理共鳴(syndoxie)のようなものを生み出すのである。 (10) 「第二に、自然の論理は、ある会話の主題が皆に理解されるという事実と、その共通理解が得られる言語学的過程についての知識とを混同している。」(Whorf, 1971) この二重の意味での鈍感さは、二人の話者が特定の言語で理解しあうために必要な背景を考慮することを妨げている。ウォルフが指摘しているのは、科学をも含むコミュニケーションに関わる全ての人間行動の中に、この種の背景が一般的に存在するということである。これはかなり重要な事実である。「何故なら、いかなる個人も普遍妥当の立場で自然を記述する自由を持たず、どれほど独創的な概念を創案しても、解釈の一定の形式を考慮しないわけにはいかない、ということをこの事実は示すからである。」(Whorf, 1971) どんなに過少に評価しようとしても、背景としての文脈の重要性が再び出現するであろう。この重要性が曖昧であるということが現代の認知科学の研究の問題となっている(Warela, Thompson et Rosch, 1993) が、奇妙なことには、この重要性は、互いに反する二つの観点で考えることができる。ウォルフの立場は明らかに人類学であり、人間行動を秩序づける背景に関する認知カードのようなものを作成する能力を科学ならびに(奇妙にも)言語学に認める点において客観主義の立場である。F.ヴァレラ、E.トムソン、E.ロシュらはそうではなく、「表象主義者(représentationniste) の立場を逆転させ、漸次推敲される法則の発見によって段々と廃物にされてしまうことになる人工物としての文脈にではなく、創造者の認知の本質としての事実に行動知が依存しているものと考える」ことを願っている。本稿の目的はこの対立的立場の検討ではない。ここでは、どちらの構想も、すべての人間行動の基礎に意味の構造を仮定している、ということを指摘すれば十分であろう。したがって、肉体的技術一般の問題は根本的に違う設定なのである。なにしろ問題となっているのは、二次的構造、すなわちある意味において、人間に固有の背景の問題なのである。これに責任が持てるのは哲学か科学か。いずれにせよ、エピステメーの二つの側面、すなわち肉体的技術一般を特徴づけるところの行動知(savoir-faire)の認知論的基盤と、人間の内実としての技術知(savoir-technique)の二つの側面を常に忘れないことである。

4.肉体的技術の哲学となるべきもの

 先に述べたように、技術知の問題がハイデッガーの視野に入っている以上、ハイデッガーの論文を検討する必要がある。彼は技術と技術の本質の違いを指摘しているが、そこに戻る必要はない。ただし、肉体的技術に関する彼のエイドス的概念だけは、STAPSの領域における技術知の真の理論構築の妨げとなっている通俗的理解を打ち破ることのできる概念であることを再確認しておこう。
 ハイデッガーによれば、技術とは何かと問へば、早速、最も直截かつ通俗的なレベルでの返答にぶつかる。このレベルでは、技術とは目標達成手段であり、かつ人間的活動である。(Heidegger, 1958) この二つの側面は、彼が言うところの「技術の道具的人類学的概念」を構成している。技術をこのように考えれば、人間は技術に対して従属的な関係、すなわち「正しく」あろうと努力する関係に置かれる。人間が技術をコントロールするという皮相的な観念(能力や道具を正しく扱うこと)は、現実において、熟達への熱望に支配されることを意味するのみである。そして、この熟達への熱望が大きければ大きいほど、コントロールを逸脱したい切迫感に脅かされる。ハイデッガーはこのように、技術一般の性格を規定し、これを明白かつ確実なものと考えたのであるが、この一般的性格は肉体的技術の最も通俗的側面を一挙に被い隠してしまう。  技術への問いに対する第二の返答は技術の本質に向かうものである。それは思考の真実性を求めて知覚の確実性を止揚する。そこでは道具性ということが、その皮相的な形態の面ばかりか、その意味の面でも問われることになる。道具性につながる根底的なものを調べる必要がある。ハイデッガーはそこに因果関係を置いている。彼によれば、すべての原因は「答えのある働き(acte dont on repond) 」である。ただしこの働きは、道徳的形式や単純な機会原因論に還元できない働きである。原因は単一の価値を越える。すなわち、行為の道徳性として把握される価値を越える。原因は、認知メカニズムあるいは器官のメカニズムを前提とする何らかの作用を超える。それは「生産」の原点であり、想定された技術の対象の中にではなく、対象を想定する技術者や芸術家の中にある、という特徴を有する。「制作とは隠蔽状態を非隠蔽の状態へと変えることである。制作とは現れである。制作する(中から外へ持ち出す hervorbringen)とは、ある隠れたものが隠れなきものとなる場合のみをさす。」ハイデッガーはこの隠れなき状態を、表象を確実に把握させるという意味で「表出」(dévoilement) あるいはもっと広く「真実」と呼ぶものの中に位置づけている。技術はこの時、単なる手段ではなく表出の仕方を意味する。この理解に立てば、技術は制作の詩ないし芸術のようなものとなる。たしかに、テクネーとエピステメーは知識の観念において融合しており「制作としてのテクネーは製造ではなく表出である。」
 ハイデッガーの論文解説はこの辺で終わるとして、本稿の第一の論点では、肉体的技術は一種の共通感覚のレベルの問題である。それは芸術家的技術の中に働く共通感覚に近いものであり、ハイデッガーの言う「表出」は、この場合、技術の本質に関わる。しかしなお、これまで触れなかった一つの問題がある。肉体的技術を産業技術と同一視することの拒否、スポーツ技術の近代性という顕著な特性を闇雲に論破することは、それをこと更に示したいばかりに、原因と結果をあべこべにしてしまうという大きな危険性がある。肉体的技術の日常的表象、すなわちスポーツ技術の表象は、こうした問題を別の視点で考察する可能性のすべてを破棄するものだ、ということが始めから分かっているだけに、そこに向けられる眼差しの歪みが、スポーツ技術の余りにテクノロジー的な側面から来るものであり、技術の一切を科学に従属させるものだと推測させる。またその結果として、自然の理論に行くことなく人間の理論にとどまるべき技術知の理論を構想する道を迷わせるものだと推測させる。ところで、この考え方は、バフォーマンスにおける技術的資質の発達ならびに肉体のテクノロジー化に関する間違った考え方だとの批判もあろう。つまり、現代のスポーツ技術は、もはや技術の芸術家的概念にではなく産業の近代性の概念に立脚するものだということである。技術への問いは、道具化の形式の問題、目的達成から見た装置の製造工程としての技術の問題、表出のかわりに、因果関係の理論モデルとしての操作性(opérationnalité) の問題に向けられるべきである、ということである。
 したがって、残された問題は、先に述べた肉体的技術のエピステメー的な二つの側面の主張の意図の何処に問題があり、また何故、技術の産業的表象の分析の結果を規定することになるのかということだ。この問題についてはハイデッガーの視点は矛盾している。彼にとって、近代的技術の特殊性は、厳密科学の理論的基礎があるからとか、厳密科学との相互的関係を保っているからといったことにあるのではなく、これもまた「表出」であり、ポイエシスという意味での制作とは何ら共通性のないものなのである。「近代的技術における《表出》は一種の挑発 (中から外へ引き出す Herausfordern )であり、それによって自然は何らかのエネルギーを自由にすることのできる状態となり、エネルギーはその状態で引き出され、蓄積される。」ハイデッガーが主張しているのは、近代的技術は自然への方向性を取っており、自然はそこで《基礎》として任されるということである。この運命に従う限り、自然は機械装置のようなもの(machinique)となり、この同じ運命が人間を強制して、「基礎としての現実に関与する状態」に置くのである。近代的技術は、もはや制作の意味における表出ではなく、自然を無理性化(arraisonner) し、「自然を理性の支配下に置くことによって理性の僕とし、理性に関わるすべての事物に対して理性を与える。」このように、ハイデッガーにとって、《無理性化》という用語が、むしろ近代的技術の本質を示すのである。自然の無理性化は人間の仲だちによって生じる。人間は、引き渡されるものとして、力の数量的複合体の収納庫として、現実を理解しようとする。「自然は数量的客観性として現れるよう促される。」(Heidegger, 1990) したがって、自然に関する厳密科学は、理性の体系が自然に関与する限りにおいて、技術の指標として力を揮い、人間は自分の主体について問う力を保持することができないようになる。これは不可避なことと思われる。まさに技術と科学を結ぶ関係は、この図式では逆転している。科学は技術の決定要件などではない。現代科学を支えているものは、現代の技術の本質であり基本的構造なのだ。ハイデッガーが自然の「無理性化」と名付けたものは、人間に対して現代の運命として力を揮い、人間が技術の本質に迫る道をすべて閉ざす。この意味において近代的技術は盲目的な姿をとり、技術のポイエシス的な側面でテクネーとエピステメーを結合する制作の様式の露呈を人間には見えないものにする。人間はこうして、自己の人間的実存に接近することを禁じられる。何故なら、無理性化の様式は人間の目には自然なのであり、あらゆる反省的思考の形式の中で幅をきかせるからである。したがって、技術の思考は閉塞に支配され、閉塞によって人間と関わる。人間には技術の本質を把握することが許されない。このような考え方は人間の自然に関するきわめて悲観的な考え方のように見える。それ故、ハイデッガーはそこに止まらない。彼にとって近代的技術の本質としての無理性化は、救済の可能性を含むものである。救済の可能性は《本質》という言葉そのものの中にあり、そこでは、本質は本質であり、永続するものであり、物と物とを統一するものであり、物たちを「融和」させるものであり、人間に対して「融和するもの」の露呈を可能とする力を与えるものである。要するに閉塞を免れさせてくれるものである。このように近代的技術は、人間を運命に閉じ込めれば閉じ込めるほど、その閉塞の認識を通して、人間の主観における露呈の可能性を提供する。理性には二つの顔がある。一つの顔は、人間に対して自然への関与を促す。もう一つの顔は、「融和するもの」を露呈させる人間の決意、すなわち真実を生産する決意を促す。この説明は一見、舌たらずであり、曖昧であるが、『伝統的言語と技術的言語』(1990)と題する短い作品はその補足となる。その中でハイデッガーは、技術を純粋な情報につくり直すことを言語に対して要求する磁力のような力を技術に認めている。如何に「言語が言語であり得るか、あるべきか」を命じるものは、まさに彼にとって、世界の悟性的様式としての機械の技術的権能なのである。メッセージの体系や記号の総体として発達した技術的言語は、露呈といった言葉の登場を妨げ、人間の取り分を脅かす。近代的技術は、すべての活動がその表象に適合することを促す。それ故、学習そのものが情報理論のかたちで理解されている。ハイデッガーが強調しているのは無理性化の激しさである。言語を記号の産物と定義することは、言語に対して自然と動産と考えよと言うに等しく、不可能なことだという。しかしこのような想定は「《自然》言語、すなわち技術によって発明され強要されたものではない言語、あらゆる技術的変容の背景となって常に保存され存続する言語」の使用が事前に存在しなければならないということだ。この作品の中に認められる注目できる論点は、自然言語ないし伝統的言語が(これまで触れられてこなかったことの中で)世界の露呈の究極の可能性としてあるという点である。したがって、人間にとっての救済の可能性は自然言語である。それは、自然言語が形式ならびに明確性の面で技術的言語に対立的であるからという理由よりも、むしろまさに、その性格上、技術発達そのもののためにも人間のためにも、技術支配の可能性ではなく技術との自由な関係の可能性において、自然言語が頼りになるからという理由による。以上のような論に照らして肉体的技術の問題はどうなるか。肉体的技術を定義する道具的方法は存在する。ハイデッガーが強調するように、それはとりわけ、技術を考えることにおいて最も具体的であるが故に、最も自発的かつ確実な方法である。道具性は、目的から見た手段の利用という点にあると同時に、人間は本源的に技術的存在であり、人間が技術を駆使し支配すると考える点にある。既に指摘した通り、肉体的技術には究極目的論的(téléonomique)な性格と形態目的論的(téléomorphique)な性格があり、その上、形態目的論的性格はトートロジーとして、人間的行動であることが確認される。肉体的技術にとって、人間が自分の行動の支配者であると考えるのは、まったくの幻想と言える。現に、人間に課せられているのは、現代的な枠組みであって、支配者だと思っている人間は、その中で行動しているのである。この支配者的幻想に影響される人間は、技術の本質へ迫る道のすべてを放棄している。このように、肉体的技術から見ると、それが何であるかといった本質を問題にする必要はまったく感じない。(それ故意味上の問題は存在しない)。行動の連鎖が肉体的技術を規定していることだけを認識すればよいのである。この連鎖について語ることは常に可能である。STAPSの領域における諸技術の分野はこのようにして確定している。しかし同時に、《諸技術の科学》は自己発展をめざす。それはスポーツ的諸技術が問題としている悟性的要請である。この悟性的要請は、記述可能なものの総体として現れる。科学が自然に対して適用する法則にもとづく数量化可能なものの総体として現れる。肉体的技術は近代的技術の枠組みに入る。この状況の中で、人間は自分のイメージを得たかのごとき錯覚に陥る。人間の肉体は、自然の場合とまったく同じく《基礎》される。肉体は目的達成のためのエネルギー貯蔵庫である。スポーツ技術にも同じことが言える。この場合、パフォーマンスはエネルギーの正しい使用を条件としている。トレーニングはその結果に左右される蓄積である。このような肉体的技術のあり方の中に、技術と科学の結合があり、技術が優先される。人間の運動性(motricité) はここでは、その認知論的側面も含めて、必ずや機械論的かつ機能論的なものとなる。なにしろそこに働く因果関係は操作的な関係なのだ。(《人間機械》という言葉もある。) (11) 結果の獲得、効果の獲得が大切なのである。この無理性化の枠組みを規定するものは実験科学である。したがって次のようなことは驚くに当たらない。すなわち、こうした考え方は、技術の近代性に統合されたきわめて正しい考え方であると思われていること、そして、これが肉体的技術に強要する事項は、STAPSにおける肉体的技術の優位という認識はハイデッガーの指摘する「挑発」過程に左右されるということ、ならびに、それ故、技術一般は自然諸科学の中で薄まってしまうということである。この見解では、技術知はそれが限定可能な数量化可能な対象と関わる限りにおいてのみ、客観的なものであり得る。人間の人格や納得はその背後に引っ込んでしまう。肉体的技術の本質はそれ自体、二つの委託事項として現れる。すなわち、人間は無理性化という運命に甘んじるよう要請されている。そしてもはやまったく、自分自身を基礎として置くことのできない状態に陥る。すべてが人間存在の如何なる部分も見えないところへと人間を押しやっている。人間の固有性としての行動である肉体的技術はそれ自体、人間の頼みに足る基礎である自然の中に封じ込められている。「人間自身が(自然を挑発する)要請に応えるべく要請され従っている。」(Heidegger, 1990) 近代的技術の形式で把握される肉体的技術の本質は、もはや、ハイデッガーが近代的技術の分析で垣間見た救済の問題を考えさせる余地を持たない。もはや人間には、自然の無理性化の《運命的》側面は残されていない。もはや人間は、肉体的技術の人間固有の性格を否定する以外には、技術一般の理性から身を引くことができない。それ故、閉塞は再閉塞へとすすむ。そして、肉体的技術は人間的無意味となり、その原理は行動のモンタージュと法則体系の間で揺れている。もはや肉体的技術の人間科学は見ることはできない。先に述べたエピステメーの二つの側面は、一つの目標に規範化された行動の総体を操作する理論の構築ということに集約される。この論点に対抗できる矛盾する観点は、肉体的技術が道具性と無理性化を免れるとすれば、それはまさに、肉体的技術がトートロジーとして人間的なものだからである、と考える観点である。ここで、ハイデッガーが原因と呼び、技術の道具的概念を批判するために分析したあの論述に戻って考えてみよう。ハイデッガーにとって、因果関係の領域を規定するものは、手段と目的の関係性であった。手段はそれによって獲得されたものの原因である。ある効果、ある結果の出発点である。目的はそれ自体、目的が手段を働かせるという意味において手段の原因である。しかし、ハイデッガーにとって、原因は操作性(opération) や効果性(effetion)をもたらすだけではなく、権能(responsabilité)に参与している。何か芸術的なものの製造を考えて見ると、そのものは、その物質的属性(質量や形態)に関わるばかりでなく、何がために、という定義にも関わる。結局、このものが形をとるためには、一人の芸術家が働く必要がある。権能(「答えのある行動」)は原則的には芸術家のものであり、芸術家のみが、その物質的属性や定義の中でそのものを適合させることができる。芸術家は、このものを存在に至らしめたという点で、そのものの《制作》の共同責任者なのである。この意味において、原因は一つの始点と考えられるべきものであり、単なる物づくり、きっかけと考えられるべきものではない。これがハイデッガーの言う《露呈》であり、芸術家的技術の本質の特徴なのである。この場合、技術は知識のレベルの問題である。技術は芸術家の中に、まだ与えられていないもの生み出す能力を前提としている。技術は術(art) である。つまりポイエシスである。しかし、ハイデッガーのこの技術概念には、ある特別な相が含まれている。生み出されたものは、それを認知する第三者の存在を必要とする。それ故、花が咲くといった、ものの現れそれ自体ではない。肉体的技術の場合、このことが不思議な重要性を持ってくる。本稿の前半において試みたように、肉体的技術は、これを機械論的に理解する時にのみ道具的なものだ、とする見解は支持できる。この時、因果関係が作動し、自己の独自な行動の主人としての人間が全面的に排除される。この因果関係は、おかしなことに、芸術家的技術の形式の中に認められる。そして、これが技術の本質だと断定される。この場合、肉体的技術は始点となる。行動は、もはやそこでは構築されない。構築されるのではなく、原因が働いて出来上がるのである。原因は単一の連鎖を断ち切る。技術の究極目的論の側面は、つくり出される形像の構造的原因と見なされる目的を知っていることを前提としている。重要なのは、この知識であって、観察可能な状態のアルゴリズムではない。そのようなものは技術の意味でしか存在しない。肉体的技術の場合、芸術家が働きかける対象は、芸術家の中身そのものである。芸術家的技術が人間を人間自身のために生み出すのというのなら、肉体的技術は芸術家的技術と違うものだ。確かなことは、芸術家的技術はそれ自体が本質、つまり、技術の本質であると同時に、人間の本質でもあるということだ。人間は、原因も作品〔結果〕も共にこの本質に適合させることによって、本質を見出す。肉体的技術をその本質から考えることは、人間の本質を問い直すことになる。そのような問いは基本的、構造的に人間科学への問いである。ハイデッガーの思想の中で、技術の本質への道は「技術の本質に結ばれていながら、しかもなお(...) 根本的にそれとは異なる」到達不可能の分野へと道をはずそうとするようなものだ。技術論一般のこのような悲観論は残念なことだが、それだけに、技術の中に知識というものが根本的にあるということを教えている。この知識は、技術を人間の影のシステムとして理解する限りにおいてのみ近づくことのできるものだ。肉体的技術は、この矛盾が止揚されるべき場となるであろう。肉体的技術が人間の表出の場である限り、人間に対して、自然科学の押しつけではなく別の独自な形式での研究を行う機会を提供する。そのような研究は、肉体的技術の本質をめざしつつ、ハイデッガーの言う救済の道となるべきものである。それはとりわけ、一つの人間科学の正当化の可能性でもある。それは必然的に、一つの人間学(anthropologie) なのではないか。
これ以後の論考については、そのような人間学の中身を展開する重要な著作にゆずる。本稿はその先触れである。


著 者 注 釈

  1. これと逆の例もある。ジョルジュ・ヴィガルロの研究(1988)はスポーツ的技術の歴史的遡及と分析の例を示している。ヴィガルロの研究上の観点は、広い意味での技術史であり、その中で著者の認識は「科学からイデオロギーへと、技術の改善そのものを明確化し、解釈し、説明してくれるような相互関係と因果関係の増大ならびに一つの領域の確定ということ」を前提としている。ごく最近、ジェラール・ブリュアン(1992)は徒競走の社会人類学を展開し、別の観点を採用している。ドフランス(1985)やポシエロ(1983)などは、上の二人の視点をそれぞれ発展させている。ヴィガルロは別稿(1990)において、「習俗や生活様式が技術に及ぼす影響関係」に関する研究のための「文化的テクノロジー」(technologie culturelle)なる概念に期待をよせている。


  2. 手具(outil) と道具(instrument)の違いについてはシモンドン(G.Simondon, 1958)の定義が参考になる。手具は肉体そのものではないにしても、肉体を補強し肉体の有機的な部分と化する物であり、道具は逆に、肉体の延長として、肉体がそれに適合すべき物である。


  3. 「近代的機械は《本質的上下関係》を有し、人間と物質の厳密な条件づけ、肉体と精神の規律化を要請する。」(J.Ellul, 1988)


  4. 技術それ自体の意味についてのハイデッガー的観点は重要である。技術それ自体とは「単に利用可能と見なされる」機械・器具の総体であり、それが生産するシステム、それを駆使し機能させようとして働く人間をさす。(Heidegger, 1990)


  5. 《行動知》という用語はそれ自体、具体化された表現形態(forme) の方が表現形態を作り出す原因ないし動機よりも優越している、と考えさせる点において曖昧なものである。これに替えて《巧みさ》(habileté)という用語がしばしば用いられ、形態と原因を何とか統合しようという意図が見られるが、これは人間学の分野の用語ではなくむしろ認知機構論(l'érgonomie cognitive) の分野の用語である。


  6. これは現実的分離という意味ではない。ハイデッガーの「事物の本質」とは「事物それ自体」なのである。この点で、技術の概念は技術の現実から離れた概念ではない。彼が批判しているのは、この技術観を形態記述的理論(théorie descriptive des formes)に還元することである。この点が、私たちの問題とする肉体的技術での基本的な問題となる。


  7. 位置関係としては技術は個人の内部にある、といった曖昧な論法は最も文学的な意味合いで理解されてよい。概念レベルないし器官(effection) レベルで考えれば、個人は自己の技術の原因である。肉体的技術は、このように、主体の内部において統辞論的視点、行為の論理と原因の反省、意味論的視点、動機から行為への文章構成といったものを必然的に働かせる決定的な何ものかを示している。


  8. フリックが認知科学に向けている批判は、主として認知システムの根底をなす合理性の思想についてである。この種の批判は永遠の批判であり、それだからといって肉体的技術の認知論的基礎を否定したことにはならない。


  9. M. レコペはG.ヴェルニョー(Vergnaud)の概念領域の理論に立ち戻り、対人的集団スポーツにおける個々の技術表現の裏に、それらの技術を規範的に支配する認知構造が存在することを認めている。レコペによれば、あらゆる抗争的技術の運動性の(しかし規範性の)表現において、全く専門性を意識しない決闘の図式を構築することが、個人をして肉体的技術の領域での《抗争》という種類の認知の枠組みに組み込ませることを意味するという。(Récopé, 1993)この場合、この種の図式の構築のメカニズムなどは問題にならない。しかしこうした理論は心理学の枠を外れるものであり、上位概念としての肉体的技術一般に統合すべきものである。


  10. syndoxie の形容詞 syndoxique の用例について、J.M.ボルドウィン(Baldwin) は「多数の個人が (事実上) 共有する個人的知識であり、その一つ一つが他の個人にも存在するものと考えられる知識である。すべての判断は syndoxique な観点を前提としている。つまり、私たちが確信している事柄は、私たちと同じ経験を持つ他の仲間たちにも確認できる、と信じることを前提としている。」(A.Lalande, Vocabulaire technique et critique de la philosophie, Pairs, 1926)


  11. 原因とは「答えのある行動」だとする定義を再び取り上げると、肉体的技術の中で働いている原因のタイプは(《スポーツ倫理》などという言葉に見られるような)道徳的因果形式とったタイプとか、運動性の心理=認知的分析の参考枠としての操作の連鎖(因果)といったタイプである。この事実は、ハイデッガーが原因のモデルとして道具性を挙げ、制作としての因果関係を多用に考えるための妨げと見なしたことと見事に一致している。

引 用 文 献


1995.4.6. Trad. par Shigeo SHIMIZU
『私たちと近代体育』(1970)再考のために