ジェラール・ブリュアン(Univ. Toulouse III - APS )
通常、実際的感覚ないし自然的思考から生じる感覚知と、科学ならびに論理的思考から導かれる抽象知は対置される また、この二つの思考形式は排他的関係において理解される。しかし、こうした認識が果たして事実に即するものであるかどうか疑わしい。科学と共通感覚の乖離はバシュラール的認識論の伝統が好んで指摘するような根源的な乖離であるのだろうか。
バシュラール(1884-1962) 科学的範疇の固定化に反対し、理性の可塑性と発展性を認め、いろいろな形態の理性が゙存在することを主張。これが゙精神分析学の正当性の主張とつながる。
スポーツ行動研究における知識の発展は、これら二つの思考形式の関係の分析にとって有望な分野を提供している。こうした二元論は行動教育と科学教育を共存させているSTAPSならびにその教育制度の役割をも明確にし得るものであるにちがいない。科学と行動の間での技術概念の曖昧さ(カンゲラン, 1952) という問題が再び持ち上がるけれども、研究成果を心理的機能から分析することによってこの問題を解明する(メイヤーソン, 1954)といった古典的な認識論を構築することが重要なのではない。
この意味において我々は、これら両面に関わることがその社会的地位と役割からして避けられない人々、すなわちスポーツ技術者と体育技術者たちの仕事の成果を検討した。彼らの職分は、運動習熟と身体能力の形態において学習を誘導しようとするトレーニング計画や段階的運動課題設定という仕事にある。各思考形式の特徴的時代というものが区別されてしかるべきであり、とりわけそれは、第一次大戦後フランスで用いられている徒競走のトレーニング計画の中に認められる(ブリュアン, 1992).
第一の時代においてトレーナーたちは、さまざまな努力のパラメーターによって規定される自由度の数を減ずることによってのみ、トレーニング計画の分割ということを理解していた。まさに、分割された計画の系統的な組立てが、使用可能な論理的システムを理解不可能なものにしていたのである。
この時代(1920-1960) 課題選定ということに重点があった。それは機械学的原理に立脚していた。チェーンの強さはチェーンを構成する一つ一つの小さな輪の強さと等しいという考え方、最も強い点ではなく最も弱い点の働きを大切にするという考え方が正しいものとされた。それはまた、定常性と多様性を融合させることのできるリズムや比率の問題に還元された。こうして、建築学的、音楽的、絵画的理論モデル (多様な努力のタイプの中に実現される進歩を集約させるためのパースペクティヴの法則) 農学的・料理学的理論モデルが見出された。これらの理論モデルは、さまざまな身体能力 (強さと経済性、力と柔軟性、速さと正確さ等など) を働かせることによって生じる矛盾を解消させるような発明術を含んでいる。それは、互いに対立するシステムの中にそれらを統合することによって可能となる。こうした理論モデルは実際的機能を持っていた。競技者の最初の水準を特定することによって、トレーニングは、毎回さまざまなトレーニング場面での努力の価値を見出させてくれる暗黙の法則を利用するのである。こうした経験的トレーニング過程は筋出力 (努力) の生理学的知識が十分な発展を見せ、適用されるようになると姿を消す。
以下の二つの例がその契機となった。
一、科学者とトレーナーの協力により開発されたインターバルトレーニング法は有機体を昂進させる変化因子とその発現様態を特定することに成功。筋出力 (努力) は心臓の働きの産物であり、その効力は同じ周回を反復する回数を上げることによって高まるのである。このトレーニング法は逆転の論理から発見された。有機体は努力の最中に働くのではなく休養時に働くということ。
二、これに次いで、有酸素的・無酸素的の代謝回路の発見は、もっと明確に、内在するエネルギー産出過程から努力を特定することに成功。
経験的時代と比較して、科学がトレーナーの仕事を単純化すると考えられた。それ故科学は、実践の論理につきまとう妥当性の問題を提起した。しかし、伝統的方法を無効としながらも、この新しい知識は再確認の必要性があった。心拍数のコントロール、採血など、トレーニングの生物学的パラメーターの検査は、今や行動パフォーマンスの領域としてのみ見られるようになった自然な肉体の悪魔祓いの代わりとなる儀式的行為のようなものとなる。
科学と行動の関係づけは強制力の問題だとする反発もあったが、競技者を支配するトレーナーの感やコツにたよる強制力は、科学の名において、信念とか空想にすぎないものと軽視される。同時に科学的トレーニング法というものが推奨され、科学嫌いのトレーナーたちはそうした傾向に反発する。
彼らのある人々は、未知の問題の指摘や問題の複雑さの指摘など、問題の領域を拡大することによって自分たち独自の職分を回復しようとした。
パフォーマンス向上のみでなく勝利ということが主目的とされ、外的不確実性をどう取り込むかが必要であるとされる。
一方、競技者の要望に応えるべく、トレーニング計画が個別化される。そのため、普通の科学的決定論では通用しない例外的人間、といった新しいチャンピオン像が提示される。生理学者から学ぶのではなく、生理学者に新しい研究課題を教えるのである。特定の競技者のためだけのトレーニング計画の策定という要求は、クリニックの知識を発達させ、従来の立法者的トレーニング計画が否定される。
トレーニング計画の個別化によってトレーナーは競技者との関係を強め、競技者の依存性を強めることに成功した。トレーナーは監督者ではなくなり、競技者の話し相手となる。有酸素・無酸素といった用語ではなく、持久性・耐久性といった用語が用いられるようになる。純粋な身体能力に対して働きかけるのではなく、特定の種目の要求に合致する競技者をつくるための別のものが求められる。例えば、短距離走者のトレーニングにスピードのトレーニングだけでなく種々の形態での疲労トレーニングを導入するなど。
一方、言葉は心理的響きを持つようになる。持久性・耐久性のための努力は、犠牲とか諦めとか自己実現といった内実を持つ苦痛との戦いである。努力とは、第一次資源の開発のような一方的努力ではなく相反する心理的要因の交互的関係の中に認められる。スポーツマンは自分の自然能力を向上させるために、力を出すのではなく、苦しむのである。毎回のトレーニングは車輪の回転のような一定の周期によって組織立てられ、前進を阻む後退の観念によって励起され、そうした構造に取り込まれる。数字は呪術的儀礼的意味を持つ。数学が変位を導く。繰り返される報奨の産物としての粘り強い勇敢な活動が変位を導く。こうして曲線は、自然なリズムに従って定常的で円滑な物的造形となる。
これと同じような運びがごく最近の体育の教育学的進歩の中にも認められる。それを確認することは相当難しいのはたしかだ。なにしろ、合理性志向の言説で武装し、社会規範の正当性によって科学的基盤を持っている。(フェスティンガー, 1964) しかもその社会規範は論理的実践ならざる論理を実践において認めないようにしている。(ブルデュー, 1972)
進歩の有効性は一重にその内的一体性に求められており、生徒の行動、生徒の失敗、生徒の質問などお構いなしのように見える。教育学は理論的問題にはうまく当てはまる。
修辞学は一般に、ヘーゲル的弁証法に立脚し (おそらく教員採用試験の準備で推奨されているのだろう) 実在性と合理性を混同している。そこでは、事物 (活動) の中に内的論理性が把握できるものと考えられており、それによってさまざまな事象が演繹される。何らかの方法で矛盾の和解が求められる。根拠不明の論理は因果関係の説明の論理に変えられる。とりわけ秩序現象の説明において。
課題提示の秩序性は目標達成の多様な方法を生み出す。サーキットトレーニングのようなものは直線的秩序であり、認識カードから方向づけるようなものは構造的秩序である。この場合、できるだけ速やかに基本構造を獲得し、それを拡張しながら補助的要素を統合していく。 (動作分析という点では生徒とスポーツマンでは文脈が異なる。トレーナーは通時的視点で、その間の活動の連鎖ということに力点を置くが、学校教師は最初からかなりの数の能力の異なる生徒たちを秩序づけるような構造の分析に力点を置く。
したがって生徒たちには達成すべき課題を明確に提示する必要がある。そのために用いられる標識は教師の観念 (意図) と行動の間を取り持つ有効な因果関係の確立である。それだからこそ、その標識は客観と主観、形態と内容の両視点を融合してくれるような変容因子として作用する。例えば、表現としては「固い衝動の連鎖」が対立する性格を連合させる。しなやかな収縮とか牽引の頑張りといった表現である。
こうしたイメージは、暗示的な力を獲得すべく説明的性格を失うといったイメージよりも散漫なものではない。この点、バシュラールの言説の一部は詩的イメージに訴えているが、そうした試みはほとんど認められないように思われる。
秩序の要因は一つの段階あるいは別の難度への移行の方法をも規定する。失敗のケースでは前提的課題に戻るのが普通である。時には活動の目的を変えることによって、課題の意味をさらに明確化し、容易な課題に戻すこともある。教育学的進歩とは目的論的コントロールにもとづく修練の概念に立脚している。
その上、秩序は努力の発揮の戦略をも規定する。何らかの報奨などを巡って競わせながら、教育学的手法は仕事の目標の困難性を増加させるが、生徒はそれに気付かない。(馬の調教でも同じ手法がとられる) 。
科学的産物は時には、無酸素から有酸素への過渡期を判断する調整走のように、特定の知識の成功を物語るような実践的論理を反映している。
競技者は科学知が教えた乳酸蓄積による筋疲労という生理現象を走りの中で感覚知として把握しその走りのスピードを調整している。
調整走の考え方の成功はその象徴的内容を想起させる。移行現象を選択し、個人の像の変化を支配し状況の変化を可能にする過渡期の儀式の科学的正当性を認めさせる。競技者はそうした状況の入口を自由に出入りしているのである。彼は出来上がった一つの像ではなく生成中の像である。彼は限界を越え新しい能力を創出しようとする。トレーニングは永遠の過渡期の儀式のようなものとなる。彼は進歩を目に見えるものとし、それを検証可能な実体とする。そして自分の行動の未知の部分に挑戦する人間として現れる。
一般に訓練や努力の展開の論理は二つの思考形式に立脚している。一つは知識を支配する理性の論理であり、もう一つは呪術の論理である。そこでの表象は象徴と意味の結合に用いられる。それは行動と状況の関係と類似している場合もある。呪術的思考は意味の関係を情報の関係に変える(モスコヴィチ, 1992)。あるいは類似の関係を因果の関係に変える。 (意味思考は、冒頭に述べた理性思考と人間行動を変える) 。呪術的思考は環境把握という普遍的願望に結びつく人間の認知限界から生まれた。(シュヴァンダー, 1977) 。そして技術的思考に向かう近代的文化の中に複雑にからみ込む(リーチ, 1976. 政治=魔法論、技術=魔術論) こうした技術と魔術の結合はAPSに応用される諸科学の中にも見られる。科学的領域からの承認を得たいためにSTAPSは、教育に狙いを定める科学的帝国主義を象徴する技術主義の支配意図に屈している。スポーツ・パフォーマンス生産の集団的手段を合理的なものとするという口実のもとに、STAPSは制度崇拝に熱中しているが、それは呪術的実践を無くするどころか強化しようとしている。STAPSの研究者たちは自分たちの生産した知識の応用、限界、必要性ということ確かめるために教育学関係に熱意を示している(ブルーム, 1986)。
STAPSの研究者たちは自分たちの研究主題から呪術の重みを下ろしているにすぎない。呪術の重みとは、スポーツ的努力は限界の克服、驚異的なものの実現、不可能なことの実現を目的にしているという事実と特に結びついている。
上述モスコヴィチは個人主義が呪術的思考の温床を準備しているという。個人主義は個人のパフォーマンスならびに失敗・成功の個人責任を認めるという点で重大だという。科学者たちは何らかの研究対象をめぐって競合する。時には、その研究対象の初期のかたちは、大西洋を泳いで横断する競技者をつくるれぬものかと、さまざまな専門家たちが躍起になる、といった類の新しい挑戦でさえある。この場合、バイオメカニクスや生理学の知識が、最も効果的な水中動作を決定するために用いられる。体づくりの準備過程は監視され、スイマーのチームが結成される。水中のダイナミックス、弱出力下の物理学と化学、エレクトロニクス、認知情報科学(informatique)、オートメーション、気象学、栄養学などなど、スイマーの泳ぎをコントロールする知的ネットワークが結成される。鮫の習性に関する知識も集められる、といった具合である。一方、科学者たちがパフォーマンスの主要な鍵を外すと、スポーツの行われる場面が変わる。科学一般が魔術に加担する。魔術が科学の衣を着飾り、科学はできるだけうまく魔術を隠すように振る舞う。しかし、こうしたやり方は直に化けの皮を剥がされる。問題は理論とか技術とか金とかではなく、倫理なのだ。なにしろスポーツの世界というのは規則志向になりがちであり、関連する特定のテクノロジーや権限の使用を限定するといった条件の下で、スポーツ選手に対して、パフォーマンスを生産する役割を与えるのである。
STAPSでも他の科学分野でも、論理的側面からのみ知識の進歩を説明することはできない。科学と共通感覚の断絶は、社会的要求の役割、政治的目的の役割、イデオロギーの役割を無視しようとする新しい実証主義の形態にも認められる。この断絶は一種の神秘として作用し、前もって分離されていたものを結びつける儀式を生み出させる。実践の理論を推敲することよりも理論=実践の結合を追求することを専門とする態度は、それ自体一つの儀式であり、STAPSが消滅しないためには、その責めをうけざるをえないのである。この点で、科学を論じる方法においても何か保護してくれる遮蔽物を見つけることが必要である。
1995.3.1. Trad. par Shimizu Shigeo
『私たちと近代体育』(1970)再考のために