マルク・ラッセール(Univ. de Nice Sophia-Antipolis (*) )
(*) LARESHAPS
大学高等審議会第74部会が新設され、明確な研究対象によらず、種々の理由からAPSの領域に関わる諸学科が再編成された。STAPSは「数学的な理論モデルを採用する強い傾向によって、人間諸科学と自然諸科学の間で徹底的に揺さぶられた。」(1) EPSやAPSに従事するには「身体的」という概念を明確化する必要がある。このことは、キリスト教(EPSと同じく古い)が、魂(âme) ならびにその精神的世界の対立項に置いていた肉体という意味をよく示している。肉体は、有機体としての内在的限定によって特徴づけられると同時に、人間に宿る超越性とは異なるものとして定義される。(2) 人間に超越性がまったくないと想定すれば、人間的主体は肉体=物質である。「精神(エスプリ)とは、物質の特殊な組織化形式に依存した何か特殊な過程のようなものだ。」(3) 検討すべき関係は、神経システムとそれ以外の有機的組織との部分的関係である。超越性の観念を認めるなら、肉体・精神という二つの実体の関係がつきつけられることになる。心理現象を離れた純粋に肉体的因子を求め、それを教育できるとするのは空想論であろう。肉体はそれのみでは決して教育の対象とはならない。教育されるのは人間「全体」である。活動(activité)、行動(action)は、肉体のみのそれではなく人間のそれである。たとえすべての行動が必ずしも意識や思考の対象ではないとしても、思考がまったく介在しない行動というものはない。したがって《肉体》の概念の意味を明確にしようと思えば、《精神的なもの》(le mental) が指し示す概念を定義する必要がある。科学や哲学の文献には、精神的なものないし思考を定義しようとする沢山の試みが見られる。バンジュ、ポパー、ジーメンス等の行ったle mental / le physique の相関概念の主要なものの整理によれば、五つの二元論とそれに等しい数の一元論があるという。(4) ここでの問題は、これらの分類に含まれる肉体観の内容を例示することではなく、この種の考察を無視せずに、STAPSに関連する学科の研究者たちの肉体観の違いによる数多くの理解の食い違いがあることを考慮するべきだと指摘したいのである。《肉体》の概念は特に、物質、心、精神、意識、思考、メンタル、人格、生命といった諸概念に関わるきわめて広範囲な研究課題の中に含まれている。肉体は基本的に両義的であり、存在と世界の媒介者であり、根底的出発点である。肉体は、科学においては対象としての肉体(corps-objet) であり、日常的生においては主体としての肉体(corps-sujet) であり、私の実存の中心であり、肉の衣(la chair)である。自然諸科学は肉体を、運動可能な物体として記述する。肉体・精神のアポリアに陥らないために、人類学者、記号学者、精神分析学者たちは、象徴化現象としての肉体を探究する。人間学者は、社会的シンボル、異文化接触による文化変容(acculturation) の標的として肉体を記述する。記号学者は言語学の理論モデルを参照し、肉体はそこには含まれないものと結論する。精神分析学者は、無意識的事象の世界に属するものとして肉体を考える。現象学者に言わせれば、感覚可能なものとして感じられる自己の肉体の経験を通して、肉体は現れるという。このように肉体は、多様な意味の網の目の中を動きまわる。肉体は「見事にうつろいやすい能記(signifiant)であり、あらゆる事実関係の分光器である。」
F.J.ヴァレラによれば「第二次大戦以後、科学の関心はワット〔蒸気機関〕から《ビット》〔コンピュータ〕へと方向転換し、僅かのあいだに、科学研究の対象ばかりでなくすべての個人の生活の上でも、驚くべき変化が見られた。」という。(17) 本稿は、人間の肉体を細かに切り刻む諸領域の間に何らかの協調の糸を紡ぐための、一つのシステム的観点を採用する。科学的パラダイムとしてのシステムの概念は、思想と世界観を再び方向づける。肉体ならびに肉体に関する知識を競う諸領域が、一つの巨大な組織体と見なされる。肉体は、論理学、数学、その他さまざまな学術領域の《抽象的システム》であるところの《概念システム》の光に照らし出される《現実的システム》となる。自他の肉体の統一的像は、肉体そのものに関する知識のシステムの抽象的理論的な像に変わる。人間の肉体は、組織化された集合体の秩序に挿入される。原子、分子、細胞、器官、人体、家族、制度、国家。これらは自然のシステムである。これらの一つ一つが上位のレベルのシステムの部分となり、下位のレベルの要素の属性に作用する。個々に組織化されたシステムの各々は、個別的属性を示しながら集合体をなす。肉体はまず、私たちにとっての一個の全体であり、基本的にそうでなければ把握できない。ある複合システムを構成する要素は一般に、それが属すべき集合体を離れる時、あるいは挿入される時、異なる特性を有し、そのシステム内の別の構成要素と相互作用を起こす。有機体の部分はその有機体全体の中でしか意味を持たない。全体を離れて孤立すれば、それはもはや言葉としても部分とはいえない。部分が部分的関係を持つのは全体があるからなのだ。《全体》は部分の総和を越える何かである。それは堆積、集積、混合、数的合計、名目の集まりではない。人間の肉体は複数の全体の複合体であり、「下位の有機的全体」から「上位の有機的全体」へと《組織の階層構造》によって分けられる。(18) 言い換えれば、「前生物的階層」(物理学的、化学的、生化学的)から「超生物的階層」(社会的、技術的)によって分けられる。(19)
生物=心理的肉体としての人間は有機体的(organismique)ないし生物的な中間階層に属する。階層の位階は序列的なものではなく構成的なものである。人間というシステムは「《統合化へ向かう多様性》と《多様化へ向かう統合性》によって構成される複合体」なのである。(20) 各階層は概念の階層であって自然物のそれではないが、各階層の構成要素は逆に複雑な物体であり、それらについての知識は私たちの探索手段によって左右される。「私たちが実在(réalité) と呼んでいるものは、人間の側のさまざまな観察と断続的視線から組立られた大まかな総合のようなものにすぎない。(...) 世界の科学的探索は際限のないことであり、また、観察者ならびに彼の方法、彼の観察のレベルと無関係な《実在》に到達することなど望みえないことなのだ。」J.ハンバーガーはそう述べている。(21) 学術領域の区分けというものはプラグマティックなものであり、肉体のあずかり知らぬものだ。実在の構造・過程と、実践的教授学的な理論、概念、表象の構造・過程は、できるだけ区別しなければならない。肉体を裁断することによってでっち上げられた学術領域のさまざまな研究対象は、人間の身性(corporéité)の中では一致している。しかし、同時にそれらのすべての階層を同じ明らかさで観察することは技術的には不可能なことだ。
さまざまな階層間の分離がどれほど私たちの観察の外に存在するかが問題である。観察それ自体が現実の技術的なものから生じるのである。観察のレベル間の結合が問題だ。ある結合関係が見出され研究されるや否や、それは独自の技術と言語を獲得し、自らを自律的なレベルと見なす。化学と生物学との間の新しいレベルに分子生物学が誕生し、自らを自律的なものと見なしているのが、そのよい例である。(22)
分析的手法は一定の科学的行動に欠かせない方法の還元主義(réductionnisme)のようなものである。この場合研究者は「自分を規定するものと全体的なものとを分離し、自分を規定するものの諸属性の中に全体的なものの規定要因の説明を見出そうと」希望的な主張する。(23) これはメタ科学的な公準だ。この還元主義のプラグマティックな価値は、科学の正当な領域境界を描き、科学の進出の限界を教える。全体と部分を分離する分析によって、全体的なものの諸属性が十分理解できると、ほとんど無反省に思い込むような理論は還元主義ではないとすべきである。理論としての還元主義ないし狭い意味での還元主義はイデオロギー的な関心を動機としており、科学の統一化理論に対する形而上学的基礎として利用されるものである。物理学や化学が、一定の観察レベルにおいて、生命体は非生命体と同じ物質的組成であると述べる場合、物理学や化学は科学の統合化の願いを述べているのであって、それは、全体的なものとしての有機体の恒常性を疑おうとする者にとっては、まったく無用な知識なのである。理論的還元主義が事実を考慮に入れるのは、所与の事実が観察の概念枠に照らして異なる意味を持つかも知れない場合だけである。理論的還元主義は過程と概念の間に混乱を持ち込む。実際、典型的に生物学的過程が生理=化学的過程と同じであるならば、概念のレベルではそれらは専一に生物学に属するのである。人間をその根本的組成にまで還元しようとすることは錯誤のようなものだ。その構造がすっかり分かっているコンピュータですら、こうした還元主義は許されない。コンピュータの物的構造、その構造と発揮される機能の関連性について物理学の言語で記述することは不可能である。何故なら、そこには構成部品とそれらの機械的結線から高度なプログラミング言語にいたるレベルの異なる組織が介在するからである。各レベルでの処理能力は、それぞれ固有の言語で書かれたことの組織化であるから、いかに相互間をつなぐコンパイラーといった翻訳言語があっても不可能なのである。各階層はその前の階層にほとんど還元できない。上位の階層の構成単位との論理的なやりとりの内容は、翻訳言語の中には含まれていない。それはもっぱら、上位のレベルのプログラミングの働きに属する。コンピュータが実行する仕事に関する意味を、0と1の数字の列からどうやって知ることができるというのか。各レベルのプログラミングの働きに固有な論理的結合を知らなければ、その意味は理解できない。(24) 結局、狭い意味での還元主義は人間の肉体には不向きである。肉体の複雑さは完璧な理論モデル化ということを許さない。そればかりか、肉体内部の階層間の翻訳言語なるものが存在せず、そこは自然言語の曖昧さにまかせるしかない。かりに、物理的言語によって各構成要素を記述することが、別の領域が介在する統合的なレベルでの観察や法則の予言のために必要であるとしても、その記述だけでは、統合的レベル独自の問題を扱うことはできない。あるシステムの働きが、そのシステムの構成要素の振舞いの記述から推論できるということは、そのシステムがその記述によって説明され得るということではない。この点が重要なのである。例えば、生物学の理論が物理学や化学との関係において自律的であるのは、性とかさまざまな機能といった組織化のレベルにおける固有の思考が存在するからである。別の領域の言語で記述され説明されている事象や法則を、すべて物理学の言語で翻訳するなどということは不可能である。説明すべき特定の状況の関与特徴は、説明すべき諸事象を捉える観察レベルだけに現れる。攻撃行動を生理=化学の言語で記述することはできる。しかし、攻撃行動の意味は生理=化学の言語のレベルには属さない。物理的現象の因果の連鎖によって自然の事物のすべてを説明しようとする態度は、物質の究極の実在性というものを統合原理とする唯物論的な形而上学のようなものだ。生体としての有機体を研究するには物理科学の原理とは別の原理が必要だと述べたからといって、必ずしも非物理的、非物質的な生命概念を採用しなければならないというわけではない。新しい説明原理が生命的自然によって生まれるのだということを示すだけでよいのである。物理学のレベルであれ高次のレベルであれ、説明的還元主義は、たとえ分子生物学の還元主義が、たまたま発生の機序の解明に成功したとしても、十分なものではない。
方法上の還元主義に並行させて、認識論的還元主義とでも言うべきものを採用し、さまざまな観察レベルの諸理論が自律的なものだという確信を導く必要がある。各領域の諸問題が独自なものであるのは、それぞれの観察レベルに依存しているからである。構成論的(constitutif) な還元主義の信奉者たちは、生命の世界の物質的組成は非生命の世界のそれと同一であり、いかなる生命過程も生理=化学的諸法則との不整合はないという見解を持っている。唯物論的還元主義者たちは構成論的還元主義や説明的還元主義を認める。諸科学の各々は再び物理学に集約され、完璧な統合性を構築すべきだなどと言うのは古典的な科学者の態度である。物質の究極の実在性は世界の究極の実在性と見分けがつかなくなっている。創発論的唯物論者たちは説明的還元主義を不完全として退ける。しかし構成論的還元主義は認める。有機的物質と無機的物質の違いは、物質レベルの違いではなく組織化過程の違いなのである。諸システムが中程度の複合性を持ち始めると、すべての構成要素を認知しているといった全体の属性を考えるために、非線型数学の理論モデルを利用する必要が生じてくる。構成要素の諸属性はむしろ矛盾的な役割をはたる。一方、組織化過程の理論モデル(modèle d'organisation) は、科学一般が方程式のシステム論理に還元できるものと認める理論モデルであり、決定的かつ不可欠なものである。ある場合には、有効な理論モデルだけが、全体の振舞いを予見する上での不確定な要因を導入する蓋然論的要素を含む。有機的システムならびに一定の物理的システムの複合性は、提唱されるいろいろな理論モデルは実在性の根底的な還元に他ならないのと同じことだ。
ある全体の特性は、別個に、あるいは部分的な組として取り出されたその全体の一部分の特性からは推論され得ない。新しい特性が出現する現象は《創発》(émergence) と言う。コンピュータの例が教えることは、創発は生命体に固有の過程ではないということだ。創発という属性の設定は人為的システムにも可能である。もしCCCが具体的な複合体であり、かつ、PがCCCの一つの属性であるとすれば、PはCCCを「生み出す、ないし継承する属性」であるが、但しそれは、CCCの構成因子のいくつかが、共通な属性Pを持っている場合に限られる。もしCCCの構成因子のどれもが属性Pを持たないなら、その場合に限り、PはCCCの「創発ないし集合的属性」である。(25) 機械論的ないし狭義の還元主義者たちは、すべての属性に生み出す性質があると認める故に、第一の構成要素に還元できるという見解を取る。創発論的唯物論者たちと違い、神秘主義的還元主義者たちや精神主義者や生気論者たちは、構成論的還元主義を退ける。創発論的唯物論者たちは分析的手法を否定しない。彼等は複合的システムはすべて下位のレベルで研究できるものと考えている。彼等は、説明的還元主義を不完全なものとする点において、《全体》の分離化の限界を指摘する。全体論(*2) の初期は生気論とごっちゃになっていたが、今日、その大部分は厳格な唯物論である。一つの生命体の内部には多数の組織ないし統合の階層が存在する。「同じ事物、例えば有機体、が物理学(解剖学)、化学(分子)、生物学(マクロ分子、細胞)、生理学、心理学、言語学、社会などさまざまな面を同時に持っている。これらの研究分野は、一挙に全体を対象とする限りにおいて、統合的階層における組織の科学である。この科学は統合的階層をいろいろな断面から解明する。一つの階層から別の階層への移行や還元の問題が重要となり、研究の推進力となる。(...) 統合的事物の研究は階層間の結合の研究を含み、それこそが、別の研究分野との可能的対話あるいは、それへの可能的還元に行き着く。」(26) 肉体の組織のいろいろな階層は還元の階層とは見なされ得ない。階層間の移行は、単純な因果関係の決定でもなければ、単純な空間的共有関係でもない。また、この両者の馴れ合い関係でもない。そこには、低次の階層である言語では記述不能の新しい属性の《創発》をともなう質的飛躍がある。
諸知識の統合と総合の問題は統一性の問題を提起する。統一性の点で、肉体は最も明確な証拠として現れる。各領域が細分する個室型研究は、肉体のような複合システムの研究には向かない。個室型研究は研究対象を破壊してしまうからだ。統合化の願いは沢山の個別的思考に関わっている。所与の観察レベルにおいて諸現象の総体を報告することのできるような自然法則の説明原理を、一番少ない数にすることが追求される。そこで問題となるのが領域間に取り残された領域である。こういった領域に固有の研究方法が求められ、それが同じ自然の事物に適用される。これと別の考え方として、多様な観察レベルに見合った法則が探究される。この考え方では、概念と法則の記述レベルの間の翻訳ということが中心問題となる。科学はまだそこまで行っていない。これは領域変換(trans-disciplinaire) の研究であり、統合の対象となる各領域の研究方法に見合った一つの方法論が必要となる。またそれは、少なくとも当該の諸領域が観察を行うレベルにおいて異なる性質として現れる研究対象に適用できる方法論でなければならない。エネルギー保存法則のように異なる観察レベルで適用可能な法則や概念は、ほんの僅かな数しかない。概念が階層を移行するのは、類比のかたちである場合が多い。したがって、移行には慎重を要する。階層間での事実関係の随伴性(concomitance factuelle)ということも注目できる。自分の持ち場を離れ、ある統合的レベルが下位の構造の働きの反映とは限らないことを認めるにしても、そこで問題となるのは、因果関係を結ぶ絆の性質、ならびに階層間の相互的影響関係の作用点がどこにあるかという問題である。同じ性質が同じ形態を取るとする同型概念(isomorphismes) を追求することもできる。つまり内容と構造の抽象的対応関係である。古典的還元主義は多様性の根底にある共通性を突きとめるべく、多様なものが共有する何らかの実体を想定する。物理学やサイバネティクス、あるいは一般システム理論など異なる領域が組織の共有または組織の不変という二つの項において共通の特質を探究する。そこで、現象に刻印されているどのような特質が、基本的本質的に不変であると言えるのかを考える必要がある。中心となる問題は、異なる性質の本体(entité)の間での類比ないし部分的同一化の問題である。この方法は特定の目的にしか適用できない。それはプラグマティックな目的だけである。抽象化ないし具体的なものを単純化する形式は、実在性の認識に導くものではなくて、予言と行動において抽象的、効果的かつ共通理解のある目標を処理するだけのものである。この理論の中で働く一般化の意志は、これを力の対象にすることができる。全体性の考慮は数学を介して生じる。数学は現象とシンボルの一致関係をつくり、このシンボルに対して抽象化のための処理を行う。自然を支配することにおける生理=数学的概念の実践的成功は、実在に関する理論的検討を導くべきものではない。数学的形式にもとづいて実体を論じることは、同型論的還元主義ないし存在論的還元主義とでも呼ぶべきものに陥る。数学は、A.コントのように、諸科学の女王だなどと考えられるべきではない。同じく物理学も、他の諸科学を測る物差しであるなどと考えられるべきではない。肉体を階層に分ける領域別科学の研究方法は、その分離された階層間の結合関係の問題を解決しない限り、全体性としての肉体を論じることができると思わないことだ。しかし、異なる階層の間を全部埋めるてしまうだけの概念はないということも、大いに考えられることである。なにしろ各結合関係は、それぞれ独自の観察条件を持つ自律的階層から新しい階層へと結ばれなければならないのであるから常にもっともっと、と新しい階層が必要になるのである。(27)
実証主義ならびに新実証主義の失敗が教えていることは、科学的方法を理論化する妥当な道はありえないということのようだ。科学的方法は、その理論的基盤の故に承認されるのではなく、予言と行動におけるその有効性の故に承認されているのである。合理主義の立場は自然的な経験を断ち切り、真実と知の操作的概念(*3) を要請する。実践面での利益は、科学的な活動というものを、その予見能力ならびに数学的形式化の可能性から定義し判断することを促す。形式論理と結びつくニュートン物理学はすべての科学を排除する理論モデルを提出した。肉体は今日でもまだ、科学者の勝利主義、全知の徹底的数学化を免れている。肉体を数学的合理性の規範に還元することは、肉体からその全ての意味を抜き取ることである。本質的に操作的意義しかない知識の形式に閉じこもる必要があるだろうか。また、別の知識の形式に目を向けることは正しいことだろうか。経験=論理の方法では、諸事実はその客観性、その外的実在性に根づいていると見られる実験の儀式から生じるのである。同時に、論理的法則はそれら事実をつなぎ合わせ、それらの連絡網を確立し、そうすることによって結果する知識の一般化可能な間主観的(intersubjective) 内在的現実性のレベルを確立するのである。この方法は、私たちの主観が捉える大部分の経験を規定するところの非還元的なもの、非論理的なものを排除する。STAPSが優先的に採用する方法論の参照先となる領域の選択は、世界の感覚・情緒的性質を捨象することによって、その生活と文化の側面を隠蔽し、主体の脱身体性(décorporéisation)および脱肉化(désincarnation)をもたらす。科学的伝統の固さは、主体ならびにその自由性を尊重する人間的態度と相いれない。本稿の論述は科学知の正当性を問題にしているのではない。科学知を唯一可能な知だとするイデオロギーを問題にしているのである。(28) 科学的方法は主体の実在の根底的否定という問題を惹起している。技術=科学的目的による肉体の分析は諸科学、諸技術、ならびにそれがもたらす文明の諸問題の飛躍的発展に寄与する。私たちは自然としての肉体の支配者に止まるべきではない。科学知識を獲得する方法から見ると、相変わらず奇異に思われている倫理学の問題にも目を向けるべきなのである。自然を支配するだけでは十分ではない。自然を人間化することもまた、とりわけ今日、必要なのである。
(1) J.Gleyse, Corps, sciences et culture, essai d'épistémologie des STAPS., in. Les sciences de l'éducation, 1-2 / 1991, p.24.
(2) J.Ulmann, De la gymnastique aux sports modernes, Paris, Vrin, 1971, p.408-411.
(3) G.M.Edelman, Biologie de la conscience, Paris, Editions Odile Jacob, 1992, p.18.
(4) M.Jimenez, Dualisme, monisme et émergence, in. < Psychologie et cerveau >, Paris, PUF., 1990.
(5) J.-M.Bröhm, Philosophies du corps: quel corps ? in. < l'Univers Philosophique >, Paris, PUF., 1989.
(6) G.Vigarello, Une épistémologie ... c'est à dir ..., Paris, in. revue < EPS. >, no 151, 1978, p.5-6.
(7) G.Vigarello, op.cit., 1978.
(8) J.-M.Bröhm, Sport et informatique, in. < Revue Quel corps >, p.141.
(9) とはいえ、単一の科学から生み出れた諸研究は為にならないというわけではない。
(10) C.-M.Prévost, Eloge de l'éclectisme, in. < Revue STAPS. >, 1987, p.37.
(11) G.Vigarello, La science et la spécificité de l'éducation physique et sportive, in < La psychopédagogie des APS. >, Toulouse, Privat, 1985, p.21.
(12) J.Ulmann, 1986, op.cit., p.411.
(13) J.Ulmann, 1986, op.cit., p.416-417.
(14) 動作(mouvement) や運動行動(conduite motrice)など
(15) P.Feyerabend, Contre la méthode, Seuil, 1979, p.18.
(16) P.Feyerabend, La fabrication de la science, Paris, Editions La Découverte, 1991.
(17) F.J.Varela, Autonomie et connaissance, Essai sur le vivant, p.10
(18) E.Laszlo, Le systémisme, vision nouvelle du monde, Pergamon Press, Avignon, 1981.
(19) M.Bunge, Epistémologie, Paris, Maloine, 1983.
(20) A.Giré, Théorie ouverte des systèmes, Limonest, L'interdisciplinaire, 1988, p.37.
(21) J.Hamburger, La philosophie des sciences aujourd'hui, Gauthier-Villars, 1986, Préface, p.4-6.
(22) H.Atlan, A tort et à raison, Intercritique de la science et du mythe, Paris, Seuil, 1986.
(23) H.Atlan, 1986, op.cit. p.55.
(24) H.Atlan, 1986, op.cit. p.60-61.
(25) M.Bunge, 1985, op.cit. p.125.
(26) H.Atlan, 1986, op.cit. p.49.
(27) H.Atlan, 1986, op.cit. p.67.
(28) M.Henry, La Barbarie, Paris, grasset, 1986.
(*1)創 発 (émergence)
一般に、進化論で用いられる概念で、先行与件から予言したり、説明したりすることが不可能は進化、発展をいう。G.H.Lewes がその著『Problems of Life and Mind 』の中で emergent property の概念を導入し、それに基づいて C.L. モーガンが『Emergent Evolution』(1923)に提唱した概念。生物の進化の歴史の中で、生物の発生、神経系を備えた生物の出現。人間の出現などいくつかの段階において、先行の諸状態に基礎はおいているものの、それらから直接予見することのできないような飛躍が認められる、というのがモーガンの主張で、これらを創発の典型例と考えた。
こうした飛躍は、モーガンによれば、ベルグソンの創造的進化論などと違って、非形而上学的、純自然科学的概念とされるが、しかし自然の因果律に、そのような飛躍を認めることを許そうとしない一般の生物学者は、普通創発を認めないか、または認めたとしても現在の無知に対する便宜上の概念であって、やがて人間の知識の拡大とともに捨てられるべきものとの見解をいだく場合が多い。しかし、生物学的哲学者の中には、創発の発想を受け継ぎ、展開させている例もあり、ティヤール・ド・シャルダンの思想、ホワイトヘッドの有機体の哲学などにそれが現れているといえよう。〔平凡社『哲学事典』〕
(*2)全 体 論 (holisme)
一般には、全体は部分の総和としては認識できず、全体としての原理的把握が必要である、と考える立場をいう。とくに生物学の領域では、機械論に対し、基本的な局面では生命現象も物理的、化学的な法則の支配をうけるにしても、生命現象のすべてをそれによって捉える還元主義は成り立たないと主張する。たとえば、モーガンの創発的進化、心理学におけるゲシュタルト説などが、こうした全体論的立場への基礎になっている。
ポパーは、全体論を分析し、⑴ ある事物のあらゆる性質もしくは様態の総体、とくに事物を構成する諸部分の間に成り立つすべての関係の総体、⑵ 当該の事物のある特別な諸性質もしくは様態、すなわちその事物をして「単なる堆積物」よりはむしろ一つの組織された構造と考えられるような特別な諸性質、という二つの意味に「全体」が使われていると考え、⑵の意味での「全体」は科学的探究の対象であるが、⑴の「全体」はそうではないという。
全体論的思考を拒否するかにみえる物理、化学の分野でも、多体問題、気体分子の統計力学、アイシング問題など、かならずしも個の論理だけではすまないことも多いが、それがそのまま全体論につながるか否かの問題があり、対象が、人間の個体、社会、国家などの場合は、さらに深刻な検討が必要になるといえよう。 (cf. ポパー『歴史主義の貧困』中央公論社 1961) 心理学においては、人間の精神の諸機能を脳の一定の部位に割りふって当てはめる局在論に対して、脳全体の有機的連関を強調するのが全体論(Ganzheitstheorie)の立場である。両説の対立は19世紀初めガル(F.Gall)の大脳定位説に対するフルーレンス(P.Flourens, 1794-1867) の批判にはじまる。彼は、動物実験で脳のどこを破壊しても軽ければ遅鈍となり重ければ昏睡におちいるのであり、大脳皮質は機能的に等しいと全体論の立場を主張した。その後の失語症研究と言語中枢の発見を通じてヴェルニケなどの大脳局在論が優勢となったが、その後さらに研究が進んで局在論的失語症論の模図が解剖学的実態と当てはまらないことが分かり、再び全体論の立場が有力になった。新全体論の先駆者は神経系を高次層と低次層の階層構造とその全体の有機的力動を考えたジャクソンである。その後ゴルトシュタインはゲシュタルト心理学の影響を受けて次のように論じた。つまり、人間が脳に障害をうけると、それはけっして個々の機能の廃絶ではなく、全機能領域の障害として現れ、これは一つの根本的変化の現れであり、これを範疇的態度(kategoriales Verhalten)の障害として一括することができる。これは事柄のうち本質的なものを把握する能力で、ゲシュタルト心理学的には、地から図を読み取る能力である。全体論的見解をとる者にはさらにこの他、コンラッド(K.Conrad)の機能変遷の説などがある。〔平凡社『哲学事典』〕
(*3)操 作 的 概 念 (conception opérationnelle)
操作主義(operationism)−−−科学的概念はそれが得られた具体的操作を明らかにすることによってのみ、はじめて客観化される、と主張する立場で、元来、物理学者のブリッジマンによって相対性理論における諸概念の規定について言われた。その後、スティーヴンズ(S.S.Stevens) 等によって心理学の領域で改めて主張されたが、彼らはこの主張の要点を次の命題で一括した。⑴ 科学は社会の成員によって一致して受け入れられた知識であり、公共的な反復しうる操作にもとづいた構成のみがその体系に入ることが許される。⑵ 心理学は、心理学者が自分自身に対してなす観察を含めて、観察を他者(the other one) になされたものと考える。それによって実験者と観察された対象との区別を明らかにしなければならない。⑶ 特殊の実験者が、時には他の実験者の観察の対象となることがあっても (そしてそれが順次に行われても) そのような後退(regress) のどこかで独立の実験者が想定されねばならない。⑷ 術語または命題は、その適用可能性あるいはその真偽性の基準が実際行われうる具体的操作からなるときにのみ、その時に限り意味を持つ。すなわち、何事かを指示しうる。⑸ 弁別あるいは差別的反応は最も基礎的な操作である。それは指示しうる操作よりもさらに前提となるものである。⑹ 弁別とは生活体の環境的状況に対する具体的な差別的反応を意味する。その環境は内部的であろうと外部的であろうと問うところがない。弁別は自然現象の系列として物理的な過程であり、あらゆる知識はこの過程によって得られ、伝えられ、実証される。
操作によって客観化するという意味には第一に、観察が他者に対してなされること、第二に、しかし、観察された事象を観察の手続きから離して客観化するのでなく、観察の手続きを相対的に客観化することが含まれている。ブリッジマンはこの客観性と相対性とを相互に補われるべき操作の性格である、と主張したが、スティーヴンズは客観性をとくに強調し、心理学的概念を固定化した操作で客観化しようとした。これは一般に操作的定義(operational definition)と呼ばれる。そこで、もし、ある概念が二つの独立した操作によりそれぞれ定義されると、それは二つの概念となるのではないか、また概念の体系に関わる理論的構成と具体的操作とはどう関係するのか、ということが操作の汎化の問題として論議されるに至った。この点は操作主義者の中でも必ずしも一致しない趣があり、スティーヴンズのように操作を固定化して考え、物理的性質とする立場と、プラット(C.C.Pratt) のように、むしろ中性的な性質とする立場とがある。なお、操作主義的意味での方法論的反省は、それを主張すると否とにかかわらず、内観法による意識研究を脱却した行動の科学としての今日の心理学に浸透している。新行動主義者はこの点で、操作的分析を重視し、中にはトールマンのように自己の立場を操作主義的行動主義(operational behaviorism) とする者もある。〔平凡社『哲学事典』〕
1995.4.16. Trad. par Shigeo SHIMIZU
『私たちと近代体育』(1970)再考のために