所収誌: STAPS no.26, Octobre 1991, p.7-21

フランソワ・ビグレル(CREPS d'Aquitaine)

EPS教員養成課程における科学知識教育について


《私タチハ知ラナイトイウコトヲ知ラナクテモ、知ッテイルト信ジテイル。 》

私はCREPS(Centre Régional d'Education Populaire et de Sport: 社会教育・スポーツ地区センター) で生理学を教えている。この機関の目的の一つはAPSのトレーナー養成である。ここでの生理学は、単なる生理学ではなく、パフォーマンスという生きた人間の作り出す現象を理解することができるように教えられている。非常に驚いたことに、スポーツの教師の任用試験の際、科学的知識をコピーした初歩的な間違った使い方がなされている。
 体育・スポーツ教師資格試験の実施報告書でも長い間こうした間違った使い方が指摘されているが、学生たちの側にはさしたる変化も見られずに今日まで経過している。養成者の側では、こうしたことの原因は応募者の無能と試験官の審査基準の厳しさにあると考えられるかも知れない。
 養成課程を修了し教員資格試験を受ける学生たちが直面する困難は、養成課程教師の自分の専門担当教科に対する知的態度によるものではないか。教員養成の過程の一要素としての専門担当教師の心理ということについては、ほとんど触れられない。その理由は大いに推測できる。このセミナーでは、皆で(当たり前なので堅固な概念だと思われている)体育・スポーツの諸概念の脆さを検討するので、上のような問題について検討したい。
 ここでは生理学の専門教科指導を例にして話しをすすめる。体育・スポーツの職業人の養成の中で、生理学は通常、時間割の上で特別扱いされている。この授業科目は、他の科目と違い、生体行動の意味(le sens de l'acte du vivant humain)を解明するというものではない。他の沢山の科目の中で、生理学はパフォーマンスを理解するためのいろいろなアプローチの要素の一つと考えられている。
このような課程編成は、知識の連合性という考え方、学生が無意識のうちに段々と知識を統合するという考え方を持ち込んでいる。この考え方の前提には、実践的問題解決において、沢山の個々の領域の知識を混和させることができる(additivité)という考え方がある。この知識の混和性は今日では大いに疑問視されている。
実践的問題には理論的内容が第一だと信じさせるように、教科の知識が時と共に組織化されたとも言える。専門教科の組織化は、上から下への伝統的理論教育の考え方で《習熟》 (パフォーマンス) というものを位置づけており、これが知的思考過程の通常のすすみ具合であると信じさせる。
 個々の専門教科は、その一つ一つがさしたる論議もなしに、養成課程における正統性と知識産出手段であると自負している。例えば生理学は、生体を研究する科学であると思われていて、ニュートン物理学そっくりの独占的普遍的なものとされる。時間を超越した要素的法則のいくつかを巡って、世界の統合化という一つの命題(thème) の上に構築されたこのアプローチは、同質的と見なす実体の中で主体と客体を分離する。そして、デカルト的方法学 (例外なき弁別・還元・総合) を適用する。諸事象は、この方法学の基本的公準である連続性(continuité)の中に置かれ、決定論的視点、すなわち低位の組織レベルでの因果関係の研究の中に置かれて分析される。この視点は《先験的法則》(loi prédictives) にその焦点を合わせている。
デカルト的アプローチは閉鎖システムの分析では大へんうまく行く。しかし、システム全体の一般化、とりわけ生体システムの一般化は、閉鎖システムの俗用に陥り、システムとしての力を弱める。このような科学の専門教科を再検討すべきことは当然であろう。しかし、その独自の説明的原理が養成課程の中では限界があるということを明確化しなければ、デカルト的実体論のアプローチを適用することは、しばしば学生たちの心を《科学主義》へと導くことになるであろう。科学主義の特徴的原理は、科学というものはありのままの事実に接近する道であり、科学のみが人間の心を捉える諸問題のすべてに対して答えてくれるものだと信じさせる。
 この種の科学知万能論(intelligibilité scientiste)が、特に大学で蔓延しており、それが若干の利点を得ていることは理解されていない。科学知万能論は研究構想の中にどんどん根を下ろし、その構想の普遍的妥当性の主張にまで及んでいる。科学知万能論は観察対象としての事象の複合性(complexité) (とりわけ人間にとって最も固有な) を捨象し、この種の複合性を知的に理解することが非常に微妙なものであるだけに、有難いものとされている。実在(réalité) との直結を信じ込むことで、科学知万能論は、形而上学的問題とりわけ、創造に関わる人間行動の責任と自由な判断の問題を避けて通る。自己完結的であると思い込むことで、改革の必要性をまったく感じない。これは、ラプラスがその機械論的自然観(conception mécaniciste du monde) に抵触するような仮説を受け付けなかったのと同じである。

養成者の二つのタイプ

上記の論述ならびに、物ごとを類型化する場合に必要とされる注意事項のすべてを考慮すると、EPSの分野における生理学の指導者は以下の二つのタイプに分けることができる。

 こうした実証主義の養成者たちの中に生物学関係の教育・研究者がおり、STAPSの指導を委ねられている。
 学生たちは、EPSの複雑な世界に特有の問題に直面し、先に述べたような教科の範囲内で覚えた科学的データ以外に考察の材料を持たない場合、彼らはこうした継ぎはぎの知識をどう解消することができるのだろう。こうした教科が相互に孤立しているように見えても、批判的論議から《ほどほどに》距離を置いている限り、学生にそれを教えた者たちには適切なものだろう。
 科学者の立場は、今日では、その自己免疫的(auto-immunisante)提案の性格にもかかわらず、もう支持されない立場であることは、いろいろな面で言われている。

 自己免疫的提案とは、ポパーによれば、環境のいかんにかかわらず常に真実として現れる提案である。科学者の立場は、科学のみがパフォーマンスの理解の中で決定力を持つ、と宣言する立場である。この文章そのものが自己免疫的提案なのである。パフォーマンスが良好なら科学は役割を果たしているのが当たり前であり、パフォーマンスが悪ければそれは科学を十分に参照しなかったことを意味するということだ。自己免疫的提案は疑問の再生を禁じている。

 イリア・プリゴジンによれば、純粋工学・応用工学国際協会会長であるジェームズ・ライトヒル卿が、「ニュートン体系は決定論であるという考え方を3世紀にわたって教養ある公衆に普及させてきたことを言い訳する」のは良いことだとすら考えていたと言う。(Prigogine, 1992) 哲学者ならびに、あらゆる領域 (物理学や神経生物学) の科学者たちの猛攻撃は、科学の中立性という教説に僅かながら裂け目をつくり、漸進的接近と科学的結果の蓄積による「単純かつ潜在な合理性の秩序の段階的系統的征服」という空想を消滅させることに貢献した。(Castoriadis, 1990) 還元によって解明された単純性は《単純化》しただけのことだと考えられた。アラン・ブートが指摘しているように、「徐々に洗練化され、物質の断片に突き進む観察過程は、単純化を進める方向ではなく、逆にますます複雑性を増していく」のである。(Boutot, 1993)
 一方、一つ一つの事象が発明であり構築物であるという構造主義の認識論の展開は、私たちが把握しようとする唯一の真実(réalité) は究極において、どれほど《経験的真実》であり、私たち一人一人が自分の歴史の中で構築したものか、ということを教えている。これについてスペンサー・ブランウンは、「私たちはそうした普遍世界を理解できない。何故なら私たちは普遍世界の現在の一面を発見し、そうした一面的世界の記憶をもっているだけなのだから。」と述べている。こうした主張は現実(réel)の複雑さの認識を導く。現実における秩序は規範(norme) ではなく「無秩序の中の小さな島であり、科学者は時々眺める窓から見えるものについて語っている」のである。(Boutot, op.cit)
 したがって、最初の分析によって考えられることと反対に、《科学者の立場》は最終的には、知識のあくなき蓄積を完全に裏切るような信仰みたいなものとなるのである。蓄積された知識は、その量が大きけれは大きいだけ反作用として、この種の信仰を怪しげなものにする。ミシェル・セール(1991)によれば、科学的な人々の多くは、時には幾世紀も昔の哲学的立場に立って自分たちの、近代的と称する理論を構築していることが分かっていない。この場合、概念枠(パラダイム) とか、事実にもとづく諸理論を規定する裏の決定論(la sous-détermination des théories par les faits)などの概念、現象を創出する(émergent)ように働く開放システムとして生体(le vivant) を理解するといった否定の可能性(réfutabilité)を主張するポパー派の立場など(稿末資料参照)を分析することは不可能なのである。しかし、こうした観点は現実を何かに還元することの不可能性(irréductibilité du réel) ならびに、一切の理論構築は観点として意義を有するだけであることを明確に理解させ、構造化の働きとしての時間の役割を認識させる。運動性習熟(habileté motrice)は、理論のディスクールがつくりだす到達点ではなく、そのディスクールが如何に他のものより優れていても《決定的に》不完全なものとして、そこから上へ遡及すべきものとなる。

別の道への試み

 私たち西欧的思考に深く根を下ろしている悟性形式(modes d'intelligibilité) を払拭することは、たしかに極めて困難である。別の道をとろうとすることは、まず何よりも、養成の目的達成を認めないことであり、達成へ導いてくれる歩みを保証しないということを意味している。以下の論考を導いてくれるものは何もないのである。
 養成課程における生理学の担当者は、ただ単に生理学の現状をできるだけ知ろうとする者であると同時に、科学が機能する条件について反省し、パフォーマンスの実体(réalité) を解明できるものと思っている生理学について反省する者でもある。このような担当者は、カントがその光学論の中で強調しているように、「弱い(minolité)状態」を出ようとする。それは、常に私たち固有の理性(raison)なるものの働きとしての悟性以外の別のものによって強制された状態である。何らかの権威に逆らってでも理解しようとせざるをえない。
 この脱出は、もしそれが自由の契機であるなら、苦悩は決定的であり避けられないと思う。もし、教育の専門家として私たちが根底的な不確実性原理を掲げないとしたら、私たちに託された学生たちを何らかの危機に陥れることは免れそうにない。この苦悩は一方では、パフォーマンスを見て驚き喜ぶという心情を保持することに役立つ。この心情は人間的現象の産出条件を断定的にコントロールしていたのでは得られない。養成の担当者はこうして、自分の心の働き(psychisme) に問い掛けざるを得なくなる。それは主体(Sujet) としての復活なのだ。彼は、ピエール・カルリ(1992)が要請しているように「知の秩序とは何なのか、科学的合理性が構築する事実とは何なのか、思考の秩序とは何なのか、意味と願望が私たちにはどうしても必要だと教える信念とは何なのか」はっきりさせざるを得なくなる。
 こうした個人的努力がなくても、養成担当者が同僚たちと一緒に反省することは妥当性ということ以外にない。さもなければ、またぞろ体系的異議申し立てしかない。こうして彼は自分の世界で提起される諸問題に関する真実(vérité)の観念とは何か、と反省する。そしてこのように、他の身近なようでいてそうではない諸問題に比べて豊かで固有な諸問題を手放すことはない。これが、科学がでっち上げ、己が至高なる理性のために、それに答えるべき方法論とやらを掲げさせる。理論・行動の間に《関係》など存在しない。理論と行動を《関係づける》仕事は養成担当者、科学者の仕事ではない。彼らは共通の尺度では測り得ない論理、すなわち経験的真実(réalité) と科学のディスクールが構築した真実を互いに接触させようと考える。科学的知識はそこではもう実証的役割というより、粗雑で一過性の人間的現象の理解のあれこれを選ぶ役割ぐらいしか持たない。こういう知識は結局、無知の間仕切り(zones d'ignorance) に役立つだけのものだ。
 こうした反省材料のいくつかは、生理学担当の養成教師に《詩人》ないし《哲学者》の資質を危うく要求するような、妙な感じをいだかせるにちがいない。将来の養成者はそのような資質を大いに誇るべきだと私は考える。何故なら、詩というものは事実(réel)を非常にうまく抽象化するので、研究者にとって大切な発想源となり得るからである。ミシェル・セールは先のプリゴジンをヴェルレーヌと関係づけて論じている。哲学についても同じことが言える。哲学の現代的課題は、フランシス・ジャンセン(1947)が述べているように、人間ならびに科学的行動の本質にかかわる価値について考えることだ。
 生理学の担当者が哲学教師になれというのではない。自分の科学領域の指導上の諸問題について哲学的な態度を持てということだ。養成課程に加えられている認識論の講義は、科学至上主義(scientisme)の曖昧さから生じている諸問題には対応できないであろう。養成担当者は L.Sfez の言葉で言えば「超記号の人」(surcodeur) でなければならない。彼は自分の講義の中で問題の答えを教え、同時にその同じ講義の中で人間に関わる主張にぶつかれば今度はそれを問題として教える、そういうことのできる人でなければならない。 この意味において、彼は生理学の知識をできるだけ精選して教える。そしてその知識にしても、ある時代、ある時期の中での知識であることを免れず、それを背後で支える概念枠(パラダイム)の中で教えられなければならない。
 養成担当者はそれにとどまらず、さらに、こうした知識を教えている自分自身の精神的態度をも、自分の仕事に意義を与えている職業上の関わりを考慮しながら変えなければならない。医学部や看護学校の一年生の生理学概論と同じことを教えるわけにはいかない。それぞれ養成目的が違うのだ。私たちの分野で使われている知識は、生きている人間をその運動性の表出(production motrice)の全体像にできる限り近づけてくれるような《モデル》を描くためのものであって欲しい。たしかに自動機械のモデルはもう古いと言われながらも、今日の研究の大部分は無意識のうちにこれを基礎として利用している。私たちの心理の内部にすらこの自動機械モデルが無意識のうちに姿を見せる。それほどまでにこのモデルの寿命は長いのである。
 生きている人間が実際どのように機能しているのか誰も知らないのだ。それなのに養成担当者はこのモデルの体系的批判に目をつむり、そこから生じる教育学的結果にも目をつむっている。科学が如何に進歩したにせよ、科学はやはり倫理的なことを教えるものではないということ。にもかかわらず、科学は倫理を離れられないということ。この再確認を忘れている。
 私たちは複雑なシステムとしてのパフォーマンスなるものを解明(raisonner) しなければならない。以上の論述にぴったりの言葉をつぎに掲げておく。

 私たちの悟性を疑わないでは、悟性の形式(mode de raisonnement)による普遍世界を認める方向に逆戻りすることになる。普遍世界はどんな観察結果をも裏切る世界だ。養成担当者はこの種の問題で意見交換する機会があるだろうか。 (この点では、今回のニース会議は勇気ある企てである。) 私たちは、自分たちの専門教科の文脈とは別に、イデオロギーと行政というメタ観点(méta-point de vue) を疑うべきであろう。このメタ観点が天下ってくることは予期されていなかった。無知だから、信念だから、諦めているから、といって自己充足に安住することは専門教科には許されない。放置すれば、専門教科が学生たちを迷わせ、彼らを実証主義的な知に縛りつける、ということになる。一方では、知識がもたらすモデル化の原理に段々と慣れることも手伝って、彼らは教育的行為の基礎理論そのものであるところの《発明》へと導かれることになろう。ヴィトゲンシュタインがその言語論の冒頭に掲げている勇気ある言葉を引用して終わりとしたい。
 「私たちはちょうどよい時に夢から覚め、自分たちが夢を見ていたことに気付く。」


1995.3.17. Trad. par Shigeo SHIMIZU
『私たちと近代体育』(1970)再考のために