小学校の体育指導、学級担任とスポーツ支援指導者の関係史、1880年〜2000年
パスカル・ガルニエ (パリ地区・クレテイユ教師養成大学センター)

【抄録】フランスの初等学校の教師は全教科を担当している。1880年にジムナスティークが必修教科となってからずっと、体育も担当している。同時に、19世紀末からは、一部の自治体では運動指導の専門家の支援を学校に提供している。本研究の目的は、今日、教育提携のモデルにもなっているこの小学校教師とスポーツ専門家との公的な関係の変遷を、制度と現場指導の両面から明らかにすることである。そのために、体育の定義、カリキュラム編成、脱中央集権化政策、業者の専門性向上政策などの主な観点から変遷の意義を考察する。スポーツ界の発展とともに、全教科担当教師の資質という古くからの問題に加えて、初等学校の子ともたちのための固有な運動技能習得という問題が複雑にかぶさってくる。
【キーワード】歴史、体育、スポーツ的身体活動、初等学校、教科指導、スポーツ専門家

はじめに

 中等教育の体育スポーツの教科指導は、今日、教員免許と採用試験をパスした専門指導者組織に委ねられているが、フランスの小学校のこの教科の指導は全教科担当の小学校教師に委ねられている。しかし、この教育段階における体育スポーツは、身体活動の専門家による外部からの支援によって教えられている。彼らの多くは自治体から俸給を得ている。 1  このような支援者の雇用は制度化されておらず、常に自治体側の好意にすがっているにすぎないけれども、無視できないものがある。80%以上の自治体がフルタイムで小学校にスポーツ専門教師を供給している(Bayeux.1996)。したがって、小学校のこの教科の歴史は、どうしてもこの影響力とそれがもたらす論議を念頭において書かれなければならないのである。そこではおそらく、制度史に《忘却された諸事実》の研究という、典型的な困難に直面することだろう。口述による証言を活用しなければ、この研究は制度史から無視された文書とか無味乾燥な公式発言などの文書史料を含む一本道の歴史になってしまう。
 一連の研究(とりわけ Meunier.1978、Collot-Laribe.1982、Michon.1984、Defrance.1987、Néaumet.1992、Bui-Xuan.1994、Michon et Caritey.1998)が学校体育の専門家組織の成立・展開過程について解明している。これらの論文は20世紀にまで叙述をすすめているが、みな中等教育の体育スポーツ科に限定されており、年少者の就学の伸びについては間接的証言にすぎない。忘れてならないことは、20世紀初頭、初等教育には550万の生徒が就学しており、高等小学校や職業学校あるいは中等学校の生徒数は170万であるということだ。また、第1次世界大戦直前、リセ・コレージュは20万弱の教授を雇用しており、今日では370万である (Prost.2000)。このことを解明している専門職・仕事の歴史は、こうした中等教育の集中化ならびに、《民衆の学校》が学校制度の体系の中の「第一段階」とされていくにつれて優先権を後退させる事実について注目している (Nique et Lelièvre.1993)。母親学校も含めて (Garnier.1987)、小学校の《身体教育》の「アイデンティティー」の特殊性 (Terret.1998)、「就学困難性」 (Solal.1999)について考える必要がある。これら最近の論文では、幸いにも、このことが重視されている。さまざまな研究視点を持つにもかかわらず、これらの論文は同じように確認事項に到達している。すなわち、各教科に配分される公式の時間数の間の恒常的な格差、そして、現場実践の実状、運動専門家への恒常的な依存ということである。本研究が論ずるのは、まさにこのような確認事項である。この《専門家》とは一体、誰のことなのか?彼らが小学校で認められている地位はどのようなものなのか?彼らは小学校教師とどのような関係を持っているのか?小学校教師はどんな資質が求められてて、何を教えるのか?
 「体育スポーツの学外支援者」と今日名づけられている人々について考える、同時に制度と指導の両面で小学校教師の仕事とかかわる彼らの支援活動の正当性について述べないわけにはいかない。この問題について、本研究では彼らの活動の行為者であり対象者である人々の評価過程の中心をなす正当化論・批判論を検討する。(Boltanski et Thévenot. 1991) この分析によって小学校教師と「専門家」の協調のかたちの多様さ、ならびに彼らの支援活動の正当化理論の変遷が明らかになるであろう。この変遷過程は、異なる4つのタイプの関係を示すことによって解明されるであろう。1880年以来必修であるこの教科を小学校教師が自ら担当することを課した条文は、軍隊と公教育の決別が実現した20年代から、大きな意味をもってくる。条文はこの教科を軍人に「委託」することを止めるという意味をもつ。「専科教員」の支援体制が非常に早く整ったパリ市のケースは、市が小学校教師を早々に担当から外したという点で注目される。このケースは小学校教師の専門家への「従属化」というモデルを現出させる。身体運動の実技指導に関するこの条文はまた、1969年の「ティエール・タン・ペダゴジーク」において小学校教師を援護する団結の原理によって強められる。しかし、身体活動を専門家が支援することは、妥当なことではなかったが、1960年から1970年の間に、生徒向けの固有の実技の提供とそれがまねく安全問題とともに伸びを見せる。こうして体育スポーツ科教育をめぐって、小学校教師とスポーツ活動専門指導者の間の固有性と責任の分担が認められる。そしてさいごに、1980年代の初めから展開された学校と地方自治体の間の「教育提携」のモデルが、小学校教師とスポーツ専門職との間の協力関係・相互関係の理想とされることになる。このモデルは支援活動に対して無言の正当性を与えている。小学校における体育の歴史の重大な欠落ということ(Terret.1998)は認めながらも、小学校教師と専門家の関係を分析する本研究は、20年代の方向転換ならびに小学校教師の動員と専門家の支援を結びつけることへの大きな懸念を強調したい。

1.軍人の仕事、小学校教師の弱点の補いか?

 ジムナスティークを必修科目とすることは大ごとだが、小学校教師たちがそれを担当すると考えると、それも大ごとだ。ジムナスティーク科教育の必修化に関する質疑における上院議員ヴァランタンの1879年の演説は、それを証言している。

 彼ら小学校教師の他に、わが国の隅々にいたるまでほとんど金をかけずに協力することができる別のたくさんの人間が存在しております。わが軍から派遣される下士官は一人たりとも小学校に適したジムナスティーク指導をはるかに超える指導をおこなうことのできない者はおりません。(Andrieu.1994.12)

 1920年代まで身体訓練の実技指導に軍人が当ることは、単なる小学校の枠を超えた制度的形態をとっていた。このような軍人の優越視の強さは、教育目的・内容の面でもジムナスティーク指導者の任用の面でも、それが元々、国民国家の枠の中で「武装した市民」の形成と結びついていた以上、別に驚くにあたらない。「わが軍のためにほとんど完成された兵士を準備すること」、そしてより広くは、子どもたちに秩序・規律を身につけさせ、愛国心を教えることについては、軍人はすでに配置についていたのである。1882年から1889年にかけての学童部隊(バタイヨン・スコレール)は、マンガにまで描かれるほど、ジムナスティークと軍事教育の混同ともいえる接近を示している。当時はまだ学外支援者という言葉はなかった。そればかりではない。学校と軍隊のイデオロギー的協調関係は、1928年に公教育省に体育局が設置されるまで、軍事省と公教育省の両方に教科の制度的つながりがあった。(Arnaud et Saint-Martin.1998)
 
 いずれにせよ、軍事省の奨励にもかかわらず、当時のフランスの大部分の農村地帯は軍人教師の任用ができなかった。P.アルノーの分析では、この条件で学校ジムナスティーク教師の多くは市当局によって募集され支払われていた。

 市当局と大学区視学官は、うっかりすると疑わしい資質の人間を学校の壁の内側に入れ、その失態の言い訳をしかねない市議会の熱意に急ブレーキをかけコントロールしなければならなかった。なにしろ、ジムナスティーク科教育の法的措置の肝心な点は、大学行政府当局が資格認定していないいかなる人間も学校の中に入れてはならないということなのだ。(Arnaud.1991a,161)

 こうした雇用条件は「何から何まで満点」の小学校教師という固有の困難に直接ひびいてくる。(Bouysse.1996) したがって、ジムナスティーク科の指導を自ら担当する小学校教師は奨励賞・賞金・報償金の対象者となる。もし彼らが、ひどい実技指導の環境や家庭の無関心とか見てみぬ振り、家庭の階層などに直面しているなら、それだけ一層彼らの評価は高くなる。ついには、彼らはこの分野での教師養成と昇進の困難さを克服した手本となる。
 
 1921年3月12日付通達「軍人教師の指導する授業に臨む小学校教師の責務」もまた、この問題を色濃く反映している。そればかりか、生徒たちの怪我の際の教師の責任に関する懸念も見られる。これは学校事故に関する責任を教師側から国側へ移行させる1937年4月5日付法律よりもはるかに前の話なのだ。この通達は、軍人教師が担当する場合、被った損害の補償を原則としてその教師の任命権者である軍事当局に帰することを明記している。当時の民法を参照しながら、つぎのように書かれている。

 (民法の)定めるところ、明らかに、生徒の損害に応じて小学校教師の過失が想定されている。しかし、それは当該生徒が当該教師の監督下にあった場合のみである。しかし、そうした条件は、軍人教師が指導を担当し学級担任教師は見ているだけの身体訓練のコースでは、明らかに満たされない。

 学級担任教師と軍人教師の関係は、ここでは純粋・単純な委託、完全な代置という性格のものである。しかし、この同じ1921年度、体育を大学行政府の管轄に戻す法案の審議の際、公教育美術大臣からセーヌ大学区視学官に宛てた書簡は「可能なかぎりあらゆる措置を講じて軍人との協力関係を少なくすること」と、明示的に述べている。(A.D. de Paris, D 2T1 15) 1923年2月23日付の新しい「初等学校の学習計画」に関する示達ではつぎのように強調されている。

 この指導要領とこの指導方法は、すべての男女小学校教師の実施しうるものである。彼らを専門のジムナストに仕立てる必要はない。(....) したがって、いかなる小学校教師といえども、体育に消極的であることを以ってその資質欠乏の理由とされ得ない。

 このように、軍人教師は学校から遠ざけられていたけれども、体育指導における彼らの戦術転換が強まる。したがって、この体育政策の変化は小学校教育における専科教師の雇用の後退を意味せず、おそらく逆に独特の制度化を促す力を強める。とりわけパリでは、「専科教師」の雇用増をもたらす。P.アルノーのリヨンに関する研究(Arnaud.1991b)にも見られるように、この雇用増はパリだけで発展したわけではないが、パリは徹底した政策によって、その例外的地位が象徴的な威信を高めた。

2.パリにおける専科教師の雇用

 1872年にパリの小学校の必修科目となったジムナスティーク科の指導体制は非常にすばやく制度化される。 2  1883年、ジムナスティークの監督はセーヌ大学区初等教育局長のもとに配置される1名の主任視学官と男女各3名の次席視学官によって行われていた。局長はまた「市立小学校男女教師任用のためのジムナスティーク師範コース」の監督をも担当していた。(A.D. de Paris, D 2T1 121) この19世紀末におけるジムナスティークと遊戯を対抗させる論争の研究(Camy.1980)を見ると、学校遊戯の業務は1892年に創設された。学校遊戯は最終的に、1896年、体育の業務としてジムナスティークとともに統合される。パリ市がこの教科のために特に雇用する免許のある指導員のほかに、専科教師も募集されていた。専科教師は当初、いわゆる初等教育の上級学校のために募集されていた。高等小学校、コレージュ、補習コース、いろいろな職業学校といったこの種の学校がたくさんかかえていたのは、確かにパリの特殊性だった。また、(1879年創設の医学的行政監督、学校衛生指導員、野外学校、療養センターなど)医学や衛生学の領域での市の予算支出に加えて、歌の教師、デッサン教師、手仕事教師、外国語教師といった幅広い種類の教師がいた。(Bedorez.1911)
 
 世紀の変わり目に、このパリのジムナスティーク専科教師の雇用にはかなりの希望者があったようだ。なぜなら、何人かの希望者の調書が繰り返し出されているからである。パリのリセ・パスツールの教師で郊外の小学校教師を併任するヘH.ニグのものがそれである。 3  彼は1920年の4度目の申請(1900年、1909年、1914年と申請したのち)で次ぎのように書いている。

 わたしは、多くのパリのリセの同僚たちのように、市立小学校を併任する恩恵を受けていません。わたしはサンマンデ、シュレスヌ、モンルージュといった町で勤務しています。通常、こうした郊外の町では専科教師の雇用が不十分であり、ときにはゼロということもあります。これがわたしの場合です。昇進も退職も一切認められないのです。(A.D. de Paris, D 2T1 75-76)

 この史料は、ジムナスティークを教える者の当時の普通のありさまを語っている。身分や職歴の不確かさ、「売り込み」をしなければならないこと、生計を満たすために同時に複数の、学校、企業、ジムナスティーク・クラブなどの職業を重ねることなど。パリ市は、当時、市場の気まぐれを防ぐ雇用と職歴の制度化の場であった。視学官レイ・ゴリエの提唱により1927年に実施された採用試験は、「パリ市学校教師」団体の設立の決定的一段階となった。(Picq.1986,167)
 
 男女小学校教師の養成を推進し、褒賞金の措置をもって彼らにジムナスティーク指導を促そうとするパリ市の努力は、この教科だけを担当する人間の徴募への配慮と明らかにダブっている。パリ市議会の1889年度予算報告者ブーティエは、ジムナスティーク科のための、新たに30名の専科教師の募集計画をつぎのように正当化している。

 皆さんは、小学校の先生がたがどれほど注意深くまたどれほど献身的に職務を遂行しているか、良くご存知です。しかし、そういう資質といえども、ジムナスティークの合理的、系統的指導に関わる技術的知識・専門的経験・身体能力をカバーするものではないのです。ですから、全科目を教える職務に当るべくすでに多大の知識をこなしているわが小学校の先生がたに対して、専門家ですら苦労するこれら専門的知識を要求できるでしょうか? …授業の準備で手いっぱい、手の抜けない職務によって身も心もくたびれている先生がたは、ジムナスティークの時間が来ると、もうその気力もエネルギーもないし、持ち得ないのです。…(cité par Solal.1999,132)

明らかに、ジムナスティーク科教育はここでは専門家の仕事になっている。「全科目」担当に専念する教師の資質と体力をこえるものとなっている。このまったく「特殊な」さらに余分の仕事と見なされる指導を遂行するような小学校教師は例外的存在であり、それを自分の職務として専念するよう仕向けられたように思われる。パリ以外ではまだ長い間、体育の先生(体育教授・体育教師・体育指導員など)は小学校教師から出ることになる。(Michon et Caritey.1998)

3.小学校教師と専科教師、その相補的関係

 パリにおいて専科教師の徴募が小学校教師の弱点の補いとして了解されていたとすれば、彼らの支援指導の有効性をめぐる懸念は小学校教師たちの協調関係の問題へと向かっていく。実際、この支援指導は身体訓練の日常的習慣を望むといったレベルのことではなく、小学校教師がジムナスティーク専科教師の指導員として参加し、自分の生徒たちにレッスンを繰り返させるのである。このようなかたちでの協調関係の最初の事実は、パリの体育教育主任視学官D.セーが「1914〜18年の戦争の間のパリ市の小学校体育」について作成した調査報告の中に出てくる。戦争中という特別な条件下で、専科教師の第一の協力者であり「指導員」となったのは生徒たちだった。専科教師たちはこうして「小学校教師の頼りない資質」を補った。

 資格をもった専科教師が模範を示してこの指導計画を進める。彼らは小さな指導員をこしらえて、カードに書かれた指示を繰り返させる。年が上の指導員も代理教師も、管理者のほかには残っていなかった。(Séhé.1920,9)

1920年代には、パリ市の町村立男子小学校でのジムナスティーク科教育の指導計画は、指導員の存在と指導員に従う補助員の存在を確認する一般的勧告によって補われた。

 専科教師は一斉運動の号令をかけ手本を見せることのできる指導員を用意しなければならない。そして、小学校教師が繰り返すべきレッスンの内容について、必要とあらばいつでも指示に従ってその説明をすること。(A.D. de Paris, D 2T1 15)

この勧告は小学校教師と専科教師の双方に配分されるレッスンの数をも定めている。初級コースでは30分のレッスンを週4回小学校教師が担当し、週1回専科教師が担当する。中級と上級のコースでは30分のレッスンを小学校教師1回、専科教師が1回担当する。小学校教師がジムナスティーク科の実技指導をやった形跡はない。小学校教師が自分の生徒たちに繰り返させることになっているレッスンが実行されたかどうかを確かめることのできるものは何もない。反対に、昼食後のジムナスティークを避けるよう勧告する1927年12月22日付通達に関する大学区視学官からの質問に対するセーヌ県のこの教科の主任視学官レイ・ゴリエの回答はつぎのようなものである。

 教育学一般の理由から、午前中の時間は純粋に知的な科目の学習に最適であるという口実により、ジムナスティーク科の授業は拒否されることが多い。この場合、どうしても配分されたすべての体育の時間が実行されるためには、レッスンを午後1時から2時半の間に置くことになる。(A.D. de Paris, D 2T1 15)

これに続いて視学官G.モーリスは1937年、小学校教師のこの分野での養成の弱さを指摘している。(Gay-Lescot.1999)
 生徒を「指導員」にするという発想はジムナスティークが誕生した頃の教育方法に求められる。これは「指導生」が教師の肩代わりをして教師の活動を少なくするというもので、19世紀初頭のモニトリアル・システムの学校と少し似ている。この発想は、1946年10月1日付示達にもとづいて文部省青少年スポーツ総局が1949年に出版した『体育要覧』にも見られる。

 新しい指導要領の詳細は教師を尻込みさせるようなものは何もない。全ての男女小学校教師は老若をとわずこれを実施するよう考えなければならない。(....) さらに、健康や一時的な病気によって運動を示範できない、あるいは、指導員の手を借りることができないということは教師にはあり得ることである。資格のあるフルタイムの指導員が必要となるところだが、法律も財源もそれを許さない。しかし、器用で頭のいい生徒なら、実施すべき姿勢や動きを完全に理解し、同僚に対してそれを実施して見せることができる。(Ministère de l'Education national.1949, 5)

 示範の実施(教師)と模倣の実施(生徒)は、ジムナスティーク指導の仕組みであるが、初期のスポーツ指導のやり方でもあった。これは非常に直接的に身体能力に関して小学校教師の資質を決定づける。専科教師が支援する場合、その主要な仕事は自分のレッスンを再現することである。1938年の小学校における野外活動の普及にともなって、教師は遊戯を指導するための専門的活動を身につけることを求められる。
 
 小学校教師と専科教師の間のこうした特権的な職務区分は、はじめての一般教育・スポーツ総合委員会の広報冊子『ひとつの実験・ひとつの事例、サン・マンデ』の中で典型的に認められる。冊子は、すでに達成された進歩を忘れずに、小学校教師の「教育的役割」対して委員会がのぞむ新しい力を強調している。

 1937年以来、サン・マンデ市のスポーツ施設は実現され、学童の医務管理も組織化されている。総合教育の国家指針が発表された時、小学校教師はすでに整えられた体制の中で体育教員の積極的な協力者となった。学級外での彼らの教育活動を推進する彼らは、生徒たちを遊戯場へと導き、知的教科と活動的教科の不可欠の総合化を実現した。(Commissariat générale à l'Education générale et aux sports. 1942,3.)

一方において「校長と教師は裸になって遊戯を楽しむ」。他方、「(市の)体育専科教師は小学校教師の手助けによってレッスンを指導する」。冊子は、まとめとして、「学校外では」市の行政、県の行政、大学区行政、総合委員会が、「学校内では」学校教師、体育・唱歌の専科教師、医師、看護婦の「完全な協力関係」を主張している。この意味で、専科教師はまだ学校の外の支援者と考えられている。彼らは小学校教師とともに一つの市の場所を分担している。戦後、1950年のヴァンヴでの「ミ・タン・ペダゴジーク」の実験の実施が新たに小学校教師とパリ市の若い指導者の間の協力関係をつくりだす。(Bounier.1986)

4.スポーツ専門教師の支援と全科担当教師

 1953年、フレスティエ博士によって提唱された海の学級が残した学校宿泊の発展とともに、たくさんの指導要領が支援指導者の公的な位置づけと認可の問題に触れている。1961年、1963年、1964年は雪の学級について、1968年は新鮮な空気の学級、海の学級、雪の学級について、1971年は海の学級と緑の学級の組織と教育原理について、それぞれ触れている。その関心のおもむきは、小学校教師と支援指導者の相互の責任能力へと新たに向けられているが、スポーツ実技の指導体制に関する評価の制度化へも向けられている。1963年8月6日付法律は「体育ないしスポーツの職業」について規定している。これ以前には1951年の水泳救急指導員に関するものが単発的に存在していた。1965年以降、小学校での水泳指導は、実技指導体制、支援指導者の認可、関係者相互の責任能力の問題に関する数多くの規定をつくりだす原因となっている。1971年12月23日付通達は「この活動の発展状況」と「関する小学校教師の水泳指導の資格のさまざまな段位」に関するノートをつけている。安全については、水泳救助指導員が生徒の監視のために特別に置かれる必要があるとしている。この活動の学校での実技は、ここでは市の支援と不可分である。実技指導については、小学校教師の「積極的な立会い」が必須であり、「小学校教師の役割はその資格水準に応じて、担当する実技グループの全体的監視を行うこと」としている。小学校は専門教師によって指導されるスポーツ活動に開かれていると同時に、小学校スポーツ連合(USEP)の普及が、体育の時間にスポーツ教育を導入することを助ける。
 
 1959年9月10日の小学校における体育・スポーツの「指導要綱」に関する示達の発行とともに、青少年スポーツ中央委員会は、体育・スポーツ県指導主事を配置して小学校教師の援助策に乗り出す。1961年6月1日付通達は、この県指導主事の業務と組織を定めている。また、1963年7月8日付通達は、体育・スポーツの実施を担当する小学校教師と町村アニマトゥールに関する情報を扱っている。これらの指導主事は大幅に体育スポーツ教師団体から任用され、その普及は、小学校教師の募集増加に呼応しており、大部分は師範学校での養成の一部を免除された者たちである。1969年の「ティエールタン・ペダゴジク」の実施とともに、体育・スポーツ県指導主事の制度は、国民教育省の視学官の監督のもとに置かれる体育・スポーツ専門の小学校教師兼養成員である学校区指導主事の創設によって補強される。事実、ティエールタン・ペダゴジクの設置は、1969年、国民教育大臣O.ギシャールが評価しているように、「小学校教育の真のルネサンス」であり、体育・スポーツを週2時間半から週6時間にした。これがもたらした不安と期待は明らかである。1973年、総視学官G.ベルブノワは「体育・スポーツに対する小学校教師のほとんど完全なあきらめ」であると報告している。彼の数字では、15%以上の小学校教師が当時、法的に規定されている2時間半を確保していた。
 
 G.ベルブノワが指導主事制度を「一時凌ぎの姑息な手段」だと難ずるのは、全科担任制とはいえ「1ないし2教科を得意科目とする」担当制と共存するにしても、小学校教師の統一性の名においてである。

 馴れ合いを一般化することはできない。それは違法であるばかりか、ほとんど避けがたい危機をもたらす。法令が禁じている教育部門の雇用のために指導員を募集することはできない。したがって、子どもの健康と教育のための望ましい保証は一切得られない。とりわけ、指導員が学校に所属していないというだけで、最良の指導員(もし小学校スポーツ連合がそれを排除しないなら素晴らしいことだ)が外部の団体として、体育・スポーツという小学校教師に直接関係しない活動を学校に導入している。そこから生じる問題は、免除される体育の本質的品質の問題ではなく、学校教育とその統一性の概念全体の問題なのだ。(Belbenoit.1973,12)

パリ市の専科教師について、著者は「彼らが存在するだけで通常の小学校教師は体育・スポーツの指導はできない、それは専門家がやるべきだという思いを強くする …。」とつけ加えている。こうして、小学校がすべての生徒のための中等教育の準備機関に変身すると、フランス語・算数・目覚まし教科とおなじように体育・スポーツを担当するという全科担当の原則は、単なる必要性ではなく、ひとつの真実となる。(Bouysse.1996) 1970年代のはじめから、この全科担当原則という言葉そのものが制度論の合言葉となる。子どもの総合的教育の狙いは、この小学校教師の特殊性の再定義と教科目の統合化の努力に意義をあたえる。(Bernstein.1975)

 20世紀初頭に磨き上げられたジムナスティークの価値が風化する時、体育・スポーツには、小学校の教科目に与えるべき方向性についての不確かさが付きまとう。実際、小学校体育・スポーツのための中央教育審議会会長であるG.ベルブノワは、心理=運動系の目標とスポーツ実技への接近を結びつけようと努力していたが、彼の提案は1972年、国民教育相によって破棄されてしまう。しかし、発達の論理とスポーツ文化への段階的接近とを結びつけるこの考え方は、1977年に出版された示達の中で再び採用されることになる。(Terret.1998) 小学校教師の全科担当原則の名において、外部の支援者は、かりに自治体の雇用するスポーツ指導員の募集数が相当に増加してたとしても、市民権がない。(Solal.1999)

5.外部の支援者、学校開放の担保

 1980年代のはじめは、教育活動の地域化に関する国家的政策の発展が顕著に見られた。学校開放という考え方がさまざまなかたちで広まったにしても、それは1世紀以上にわたって進められてきた国家的中央集権と標準化の仕事から見ると、断絶のようなものだ。外部支援者という言葉はまさにこの断絶を意味する。脱中央集権の法律の原理である地域の自治体の特権の恩恵に加えて、学校環境が呈する固有の原資と難題が注目される。19世紀以降、小学校は地方自治体によって投資されてきたとはいえ、そこには市当局の行政の新しい正当性という問題がある。市当局は子どもの就学や余暇など家庭の増大する要求にも直面しなければならない。非常にまちまちなやり方とはいえ、市当局は地方教育政策の発展に場をあたえる。とりわけ、「社会問題」の山積の中で、市の政策にかかわる行政措置が試されるような居住区において。(Donzelot et Estèbe.1994)
 
 このような断絶の何よりも最初の兆候の一つは、『学校における体育・スポーツに関する教育的実施のための第一の勧告』と題する1983年12月13日付の業務ノートである。管理的配慮から、外部支援者の認可が彼らの教育的使命の制度的恩恵となる。

 小学校教師の責任のもとに、この共働関係は、教育の公務につく市のアニマトゥールや指導員の参加に新しい意味をもたらす。市内、クラブ、学校でのアニマシオンの分野での彼らの相互的支援は、長い間忘れられていた仕組みの中に教育的内容と教育的過程の一貫性を実現させる。

すこし遅れて1984年7月16日、スポーツ的身体活動(APS)の組織化と促進に関する法律が、教育チームを構成する小学校教師たちに対して体育・スポーツ科指導の責任を委託する。この点で1975年10月19日付法律によって開かれた道をとるこの法律は「必要な場合」小学校教師の責任のもとに資格と認可のある人間をアシスタントとして認める。J.P.シュヴェーヌマンとA.カルマが署名した1984年12月13日の通達によって、子どもの生活時間を調整する政策が掲げられ、市の新しい行政分野も開らかれる。そこでもまた「学校と地方教育パートナーとの関係の発展」というテーマが掲げられている。その目的は多様である。各省間のパートナーシップ、学校の時間割におけるスポーツ実技の同等の位置づけ、小学校教育への彼らパートナーの位置づけと専門性のあり方などなど…。

 パートナーシップとしてであれ小学校教師の「必要」に応える職務の遂行としてであれ、市のスポーツ指導員へのこのような承認は、彼らの評価と個人的資質を超える新しい拘束を派生させる。 注4  この承認はさらに、彼らの役割を小学校教師の役割に従属させる。これ以後、初等教育は支援計画につい交渉し、計画に参加しつつ「教育的責任」の遂行を前提とする制御を保たなければならない。「委託」とか「従属」といった批判もあるが、この共働関係は小学校教師のこの分野での資質に対してきわめて強い制度的作用を及ぼした。その作用は小学校教師の専修科政策に含まれ、今や小学校教師は「小学校専科教師」として再評価される。1989年の大学教員養成センター(IUFM)制度に導かれながら、この政策は教科の専門的資質ならびに教科横断的資質の習得を主張する。同時に、この共働関係は原則として、スポーツ支援者の「技術供与」の範囲に支援を限定する。支援に対するこうした「技術的」正当化は、スポーツ的身体活動(APS)の指導に全面的な場を与え、スポーツ実技が学校的なものにすることの疑わしさを強めるまでになる。同じく、外部のスポーツ支援者は、「教科システムの閉じこもり」すなわち、井の中の蛙的傾向を生む小学校カリキュラムの細分化への批判を強める。(Sachot.1993, 140)
 
 スポーツ支援者たちの「技術主義」への批判は、小学校への外部支援者の数の多さに対する活発な指摘を呼ぶ。それは1990年代に国民教育省一般視学報告としてたくさん見られる。しかし、『21世紀への小学校憲章』(1998)は、彼らを教育チームに統合する主張によって彼らへの承認に一つの新しい衝撃を与える。今や常識となった状況から、彼らへの承認は暗黙の基準となってゆき、まるですべての小学校が一挙にその基準にしたがっているかの感を呈する。小学校教師の「全科担当義務」を保持しようとする執着を捨てていないにしても、上記の憲章は、自分の指揮下の大人の団員たちの統一を調整するオーケストラの指揮者よろしく、小学校教師の統一性を埋葬してしまう。小学校におけるこうした職務専門化の強まりは、雇用の発展への関心と無関係ではない。しかし、予測されているらしい展望は、国家公務員の雇用を減らして私的身分の雇用者(1997年につくられた補助教育者のような)あるいは地方自治体の雇用者に振りむけるというものである。それでもなお、地方のパートナーシップは学校カリキュラムの中の「周辺」教科群から大幅な利益をえている。パートナーシップの学校での地位が不確かであるにしても、彼らの価値は自治体にとって重要である。その上、文化活動・スポーツ活動といった諸活動は「社会化」の活動を柱としており、いわゆる「学校の」勉強に対する予備教育、付随教育と見なされることがしばしばある。一方、フランス語や算数などは、これらの教科に関する定期的な評価報告が示すように、完全に国家的等価システムに含まれている。したがって、小学校教師の全科担当原則の再確認、ならびに一団の国家公務員が存在することは、学校の「マイナーな」科目の中で地方的イニシャチブ、とりわけ今日の地方公共団体の役務のために学校開放の恩恵を与えようとする意図とダブっている。

   

6.市のスポーツ指導員から地域の教育者へ

 スポーツの分野では、市の役割は、脱中央集権の諸法律と並んで一つの新しい力と見られた。(Monneret.1990) そこにもまた非常に不揃いなかたちではあるが、スポーツクラブへの伝統的な援助を離れて、クラブ、町アニマシオン、校外活動、スポーツ学校、学校スポーツといったさまざまなセクターの支援指導を統合するローカルなスポーツ・プロジェクトへと移行する傾向が見られる。地方公共団体は、スポーツ的慣習の発展とまったく別個の事業者と見なされることに懸念を表明し、とりわけ、学校とクラブの組織的結びつきを保証することを主張している。特に、1993年に初会合を行った「スポーツと地域」協会の創設は、それを裏付けている。協会はつぎのようにその関心を示している。

 生徒たちと未組織な人々とスポーツ促進運動は地区スポーツ政策の標的である。この会合の趣旨は、さまざまな公共機関を通じて、地方公共団体の役割、その相補性、その特異性を検討しすることにより、フランスのスポーツの他の事業者とともにその公共事業の正当性を位置づけることである。(Cranga.1993, 18)

 地方スポーツ政策の推進と合理化をめざすこの意志は、今や地区の新しい公共事業の中にスポーツとの連携を作りだすことに基礎をおくことができる。実際、脱中央集権法にもとづく1992年の政令は、APS地区主事(A種)、今や競争試験で募集されることになったAPS地区教師(B種)、技術者(C種)の区別を定めた。 注5  APS分野での報酬つき指導の可能性は、国家公務員から地区の自治体の有資格教師へと広がっている。「危険をともなう」とされる活動には一定の制限があるが、彼らはすべてのスポーツ種目の指導ができる。したがって、彼らの多くは、今日、教育者と呼ばれるよりも「APS教師」と呼ばれることを好んでいる。この呼び名の違いを通して、スポーツ専科教師からの距離が理解されるとともに、学校でのスポーツ支援指導者の正当性の学校的形態との非常に近い関係が理解される。これらの呼び名は間接的に、1984年につくられた地区職員養成国立センターと国民教育省との提携を思い出させる。この提携の方向と範囲は、学校における市のスポーツ支援に関して、一方で管理ないし制御、他方で促進という二義性を解消するものではない。いずれにせよ、この提携関係は地区職員と学校教師の関係を形成・定式化する仕事において強固である。1996年からはじまったAPS地区教師の学校支援にかかわる「資質の基準」は、彼らの職業的側面と行政的側面の双方を示している。一方では、学校におけるこの職員のスポーツ支援を全科原則に集約するかたちで固有の職能を規定することが問題となる。他方では、他のあらゆる専門職業化のプロセスに見られるように、この学校支援の独占を「エキスパート」にのみ与えることが問題となる。「結局、APSの枠付けを職務とする地区のAPS関係者のみが学校での指導の職務に参加することを認可されるであろう。」(Bayeux.1996, 111)
 
 こうして、仕事の法規と組織の両条件が同時に運用される。専門職への接近と養成の拘束、専門職に固有の権限と知識、つまり全体として、かくあるべしと認められる相対的自立性の追求が進められる。しかし事実上、このような専門職化の動向は雇用と協定に関する自治体のイニシャチブにかかっている。自治体は大学区視学官と連署して学校の分野の中に地域の職員が支援する分野を大きくしてやる。(Bayeux, Touchard.1996) 自治体職員が学校にいることは常にローカルな意志の産物であるとしても、各自治体間の格差は、自治体が学校制度によって今後認知される度合いに応じて歴然たるものとなる。

ま と め

 体育スポーツとスポーツ活動の関係に関する問題と深くかかわって、この分野での小学校教師の資質、彼らとスポーツ支援指導者の比較に関する論議は今日、決着がつくにはほど遠い。この論議は原則において、教える能力を証明する肩書きやディプロームよりも、むしろ専門職の資質によって規定される指導者の職業の顕著な発展から生じている。(Demailly.1987) ところが、この有効性にもかかわらず、この学校制度の正当性はそれ以上に基本的なことなのである。学校制度は小学校教師に対して体育指導を、義務として、はてしない厳命として課するばかりか、この分野での彼らの資質のいかんを問わず、権利として課しているのである。事実、スポーツ的身体活動(APS)の場の設定が、ますます大きくなる法規的拘束にしばられるかぎり、小学校教師への新たな拘束が生じてくるものと考えられる。これは、小学校教師に対する最近の語学指導の資格認定の強制を見れば明らかである。しがたって、学校における自治体のスポーツ支援指導の制度的承認と、地区職員の専門職化傾向とを同一視してはならない。資質・権限という点では、この二つは「エキスパート」に体育スポーツ指導を独占させる傾向を示している。評価という点では、この二つは指導者の特権に委ねられる。要するにそれは、小学校教師の全科担当制の限界であると同時に、制度的象徴的価値としての全科担当制の重みなのである。
 
 同時に、問題は学校カリキュラムの中での体育スポーツ科の位置づけと定義の問題でもある。教育学、認識論、認知論の側面とは別に、ここでどんな社会的側面がこの科目の正当化論理の中で重視されるのか、よく考えなければならない。中等教育では、この社会的側面は、この分野の専門指導者団体の存在を通して確認される。そうした団体が存在するだけで、スポーツ的身体活動(APS)の「学校での扱い」のあり方問題があるにしても、学校でのその固有の指導が正当化されている。ひるがえって、小学校では、体育スポーツ科の「学校の」専門家の不在が二つのリスクを示すのである。すなわち、ひとつはこの科目を学校で教えることの正統性が欠けていること、もうひとつは、教科専門性が欠けていることである。これらのリスクは、ジムナスティーク科の時代よりも少ないとはいえ、今日、スポーツを実施する場の設定の専門職化の完璧な作用により強まっている。同様に、「学校におけるスポーツ」ということをめぐるコンセンサスは、政治・文化・社会・経済などが標的として狙うさまざまな競合関係によって破壊されてはならない。体育スポーツについて「誰が教えるべきか?」と「何を教えるべきか」は不可分であるがゆえに、小学校教育において問い続けられてきたのである。

2002.07.26.S.Shimizu

注  釈


 Pascale Garnier: Enseigner l'éducation physique à l'école élémentaire. Maîtres et spécialistes des activités physiques: une collaboration en question (1880-2000), STAPS no.58, p.7-20

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