STAPS.23(1990.11)
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R.クルテイ/J−P.ヘイロー/CH.ロンサン
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体育の定義は前世紀末の学校体系への体育導入以降、絶えず繰り返されている。まず肉体的ジムナスティークという定義、これが学校の中で周辺的地歩を占める。次にスポーツ的身体活動の分野での文化的陶冶機能の承認によって、体育は目覚まし教科の地位が与えられる。今日では体育は教科として承認され、この新しい制度的地位の価値づけと強化をめぐる議論の対象となっている。
体育分野の力(agents)の集合体全体が教育学的革新・刷新の過程とかかわり、またスポーツ的身体活動の教授学の研究過程とかかわるが故に、体育は指導された知識を評価する道具の役割を果たすまでになっている。
とりわけ運動性能力(efficience motrice)発達ならびに文化的陶冶という体育の目的は明確に定期的に再確認されている。〔この目的は〕肉体的社会的慣習(pratiques sociales corporelles)とりわけスポーツ的身体活動とのかかわりにおいて再確認されているが、この分野について体育は疎遠であることもまた確認されている。
そこで問題となるのは、獲得すべき能力(capacité)や資格と見合った実践活動全体の中からどんな活動を選択するのかという問題である。この問題は指導計画の問題であり、体育科は学校への体育の全体的位置づけを完成するにこの問題を担おうとする。
〔スポーツ的身体教育の指導計画の推敲を妨げているものは公衆ないし日常生活条件の不均一性といった技術的レベルの問題だとされている〕
〔教える対象の問題であると同時に認識論上の問題、とりわけスポーツ的身体教育の概念規定に関わる問題〕
〔学校教科成立の根拠は古典的には指導方法と指導内容の間の緊密な関係〕
〔今日にいたるまで学校体育の教科としての概念規定を妨げているものはどうやらこうした二つの方法・内容というものの緊密な関係にあるらしい〕
例えばジュール・フェリー時代の学校ジムナスティーク科の授業では体育を〈動作の教育学〉と含みのある規定をして対象を明確に指定していない。1967年の通達ではスポーツ的身体活動を特別扱いにして体育の社会文化的目標を実現させようとした。しかし指導方法を明確に指定せずスポーツ的形成の場としている。進歩の段階はスポーツ的技術と動作能力の工学のための形成段階と見なされる。そしてその延長上に学校スポーツクラブや社会スポーツクラブの実践の場を置く。
今日では「肉体的ジムナスティーク」も「スポーツ的形成」も「スポーツ的身体教育」も学校教科としての独自性を放棄し、肉体的実践分野(pratiques corporelles) の専門性を主張しようとしない。専ら教授学によって自己を定義づけようとしている。教科目的を〈運動行動の場面〉という一般的用語で規定しようとしている。このように定義づけよってスポーツ的身体教育はその論理整合性を失い、運動訓練の目標を推論によって導く演繹的領域となる。
スポーツ的身体教育は相互作用の論理の中で、その直接的関係としては目標と方法と課題の緊密さの結果のようなものとなる。その自立的思考と不確定性は教授学的考察の中で中断される。スポーツ的身体教育は科学・文化論争の狭間で自然科学と社会・文化的人類学と精神分析学的幻想と美学的表象に関する形式論的論議の中で相互作用関係の場に位置づく。決定論と偶然性はそこでは指導過程の力の場を醸成すると期待される新しいものを生産するために結合する。
スポーツ的身体教育は今日では機械学的パラダイムならびにその延長としてのサイバネティックスのパラダイムを放棄し、複雑性の多価値体系に移ろうとしているようだ。
還元主義的手法は方法論 (指導目標・内容) と価値論 (教育目的および対象) と教育学 (学習者の心理・生物学と学習過程) の三つの間の関係全体を認識できるものと考えている。
〔心理・生物学的学習理論〕は行動の場ならびに形成の場は複雑な現象として現れるが合理的論理、実験、評価によって完全に認識可能で予見可能なものと考えることになる。
そして体系化された分析的方法論によって専一的因果関係が立証できると信じる。
本稿の論題は実験科学の有効性を論難することではなく人間の営みとりわけ教育的営みを一義的関係のもとに規定できないということ(irréductibilité) を主張すること...
運動行動ならびに行為の形成は複合的現象である。
沢山の因果関係の網の目ないし定常性の作用が錯綜する現象... 予見しがたいが観察可能な現象... である。
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それ故、この分野を考える場合、個別的な現象について部分的関係性を追求する思想との対決において還元的全体的合理性を考えることは有益であると考える。
言い方をかえれば、本稿のめざすことは〈全体論と還元論の間の振幅〉の力学的バランス論を構築すること... これによって体育の指導計画と体育の戦略の双方を考えることができるであろう。
運動行動は社会・文化的事実であるとともに生物・物理学的事実である。運動行動は本質的に哲学の問題であると同時に科学の問題である。社会諸科学の問題であると同時に自然・生命科学の問題である。メールの表現を借りれば「厳密科学、行動科学... 疑い自問し構想する技能科学」...
物理学、生物学などの「厳密科学」ということから生じる側面に関して言えば、沢山の経験科学の知識が生産される方向が見られる。例えば動作力学、運動訓練の生理学、あるいは運動性行動のサイバネティックスなどがそれである。
人間科学の面では何よりも大学体育を承認させる願望と必要ということから新しい概念の借用ということが問題になっている。人類学は文化的事象としての肉体的実践活動の記述的側面に集中することが多い。こうして法則適用的記述に向かう方向に対して特異性(singularités)を解明する方向がある。
動作とか運動性とか行動(conduite)といった用語で示される運動成就(comportement)を研究の主要対象とする還元主義的な科学的アプローチによる形式的一般化に対して、人類学は肉体的技術という用語で示される特殊性の総体的アプローチを主張する。
確定された諸科学の概念の移植や借用で成り立っている論考と肉体的人類学の概念との対立は、前世紀に導入されたコント実証主義とラプラス機械論的決定論の影響のもとに哲学と還元主義的経験科学の分離の過程に認められるものだ。この二者は規範的認識論の影響力のもとで〈科学的秩序〉の確立に大いに貢献した。
運動性行動にかんする論考は多少なりとも秩序形式論との対立を経験し、その還元主義的絶対命令に服し、科学の分野から締め出されることはなかったにしても、自らの研究対象の独自性を主張する可能性が困難になっている。
知識社会学は人間の多様な真実理解の間の相互作用関係について明らかにしている。
つまりコントの分類法を持ち出すなら神話学、形而上学、理性の間の相互作用関係を明らかにしている。
言い換えれば、われわれ人間の「主観的」直截的表象と科学の「客観的」形式的抽象的な認識の構造化との間の相互作用関係であり、そこに懐疑と不確定性が生じる。
ジャック・アタリ、ルネ・パッセといった論者たちはこの点で、物質にかかわる観念の発展が社会・経済的組織(システム)の諸理論に及ぼす影響を指摘する。運動性行動のいろいろな理論モデルもこうした影響関係を免れ得ない。
運動性行動の理論モデルは教条的原理的主張に関係なく数多くの経験諸科学 (物理学、生理学、生物学、サイバネティックス等など) の相互作用関係に中で自ずからでき上がっていく。
しかし還元主義者たちの研究方法に結びつく分析的方法の利用にしても、実験科学と文化人類学の分離を出発点とする研究態度にしても、系統的分類学的ないし論理形式的記述化の中へ運動性行動の表象を閉じ込める傾向があり、こうした記述が教科の指導計画に持ち込まれ、体育・スポーツ分野でのいろいろな練習過程のダイナミズムと必ずしもしっくり整合していない。
しかしこのような方向は全体として〈スタプス〉分野の研究〔の独自性を宣言する〕知識を生産する可能性がある。〈スタプス〉は特にシステム的性格の研究に向かい、エドガー・モランが言う「観念の龍巻」のようなものに耳を傾ける傾向がある。
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「観念の龍巻」とは複雑性とか自己生成といった概念を導入することによって認識論の既成の秩序を転覆させるという意味であり、これによって認識科学の名のもとに広大な中間学術研究領域(インターディシプリナリ) ができあがる。
一方、スポーツ的身体活動の分析は長い間、運動成績(performance) の解剖学的形態的事象 (体勢・姿勢) の記述に基礎をおいてきた。また、生体力学系・生体エネルギー系の理論モデルができてからは、力能(compétences) (身体能力 qualités physiques)の代謝系要因の研究に基礎をおいてきた。しかし今日では〔スポーツ的身体活動の分析は〕情報理論やサイバネティックス理論、あるいはシステム理論を借用してその概念のすり替えを行っている。
スポーツ的身体活動の分析は機械系とエネルギー系ないし循環器系を結合する研究方法の系統分類的記述に反対して、運動行動(acte moteur) の定常化過程に示される生体情報学的理論モデルを立てている。そして大幅にフィードバック(rétroaction) のメカニズムを援用する。
これらの理論モデルは運動性機能の説明を可能としている。こうしたモデルは行動における文法の地位を得ている。
機械系理論モデルは行動のダイナミックスすなわち持続時間(キネマティックス)とのかかわりにおける動作幾何学とそれを生産する力(スタティックス) の関係を記述する。
代謝の理論モデルは筋運動のエネルギー源を記述する。そしてサイバネティクスの理論モデルは運動性行為(acte moteur) の導き機構を記述する。
こうして運動成績はひとつの運動性意志行為(conduite)として認識され、情報操作のプログラム用語・システムの用語によって記述されるのである。
これらの理論モデルの仮説は「ある生命系はサイバネティクス機械として機能する」というもので、運動性行動(action motrice)とりわけ安定的環境変化 (練習) は自己適応なのか「自己生成機能」の複合形式なのかというパラドックスに陥る。
言いかえれば
因果関係の論証ないし遡及の過程にしたがって記述された行動の決定要因の多様さから生まれる混成学術研究領域の上に、それを越える学術研究領域がさらに展開することを仮定するに至るのである。このような学術研究領域は決定論的展開と、片や論証的展開によって持ち込まれる偶然性の間の相互関係の問題に直面する。二局化の概念に対して自己生成の理論によって生じてくる批判的観点からの概念の間の相互関係の問題に直面する。
ここでは、本稿の論述はピエール・パルルバやジャック・パイヤールといった何人かの論者たちが体育スポーツの基本的研究対象であると考えている運動性行動の概念規定に見られる複雑性の概念の有効性を示すことを目指している。
まず第一に、体育の対象を規定しようとする言説が多少とも表向きにうまく支えを求めることができたいろいろなパラダイムの問題点を逐一考えていかなければならない。
以下にまずパラダイムとは何かということを明らかにし、その上で機械論、全体論、構造論、サイバネティクス論、システム論などのパラダイムを検討しよう。
パラダイムとは、観念表象(conceptions) 、価値、信念などを含む総体であり、ある個人がそれを採用して論述するその論を立ててくれる観念的モデルであり説明的システムである。
何かある一つの全体から実現されるアプローチによって、明確に異なる三つの大きな方向に分けることができる。
☆ 機械論的・一義的因果関係論的モデルは、単純なものから複雑なものを説明しようとする。すなわち、すべての現象は単純な事象 (事件) に還元しうるとする。
この観点は古典的な行動主義の理論図式(ブラックボックス)を思わせる観点であり、生徒は見通しを持つことができる存在だという根本的事実を長いこと隠蔽してきた。
☆ 全体論的モデルでは、こういう還元主義を逃れようとして逆に、われわれに欠くことのできない全体的なもの、構成要素の結合を生成させる全体的なものから複雑なものを説明しようとする。
心理学ならばそれはゲシュタルトであり、生物学ならばそれは生成の能力である。
したがって二つの事物 (二つのアトム、二人の人間、二つの集団など...)の間の関係を例とする場合、このモデルに従うならわれわれはこの関係は、現前する全体性(entités) が示す構成要素の総和ではなく、それ以上のものということを認めなければならない。
一個の全体のさまざまな構成要素の間の、またそれら個々の基本的属性の間の相互作用を現実に統合しているものこそが、構造主義の理論モデルである。
☆ 構造の概念。構造は当該の全体〔的調和〕(l'ensemble)の機能の生産物として現れている。そこにおいて生まれている相互作用の全体〔的調和〕の機能の生産物として現出する。手短かに言えば、これと類似の組織は最終的に三つの主要な理論特性に依存する。まず、何かある全体性はそれ自体で充足しており、予定通りに機能していることだ。この機能しているさまを観察しているという事実がわれわれをその第二の特性へと導く。この構造は静的システムではなむ活発に変動する一個の全体である。
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そうは言ってもこの構造はその第三の特性を規定する自立的秩序機能(autoréglages)の存在から突如出現するものではない。
構造の観念は決定論を全面的に相対化することによって事物を流動的に読むことを可能にしたという意味で豊かな論拠を築いた。全体を構成する要素間の相互作用の事実全体が、その後新しい性質を獲得し、変化の基本的因子とされた。
一義的原因結果論としての決定論はピアジェに顕著に見られるような変成論モデル(transformationnel) に場を譲る。
ピアジェにとって全ての存在は変成(transformation)によって構築されるのであり、この変成がその度ごとに内部システムを統合する。〔この統合過程は〕同化と馴化〔適応〕という二つの第一次的機能を働かせて次第に複雑な弁証法的過程に沿って起こる。
生物学から心理学へと、諸構造は自ら複雑化し、生命的存在の真のロゴスを生む。
しかしピアジェはこうした構造生成(réalisation) を起こさせる力、その力の条件たるエネルギー系・情報系の変換の本源について何ら具体的なことは述べていない。そのため彼の〔発生的認識論〕の「エピステミーク」論は徹底して抽象的である。彼によれば、観察可能な構造としては三つのタイプがある。
できあがった構造 (論理タイプ) とストカスティーク (偶然の集まり) そして機能完結に必要な継起的再調整に対応する形成構造。〔????〕
このさいごの構造は真の構造であり、機能しながら自ら成り立っていく。われわれはこの構造に注意すべきである。
サイバネティック構造はこの構造に含まれ、自己規制を可能にするフィードバックによって補完された機械論の図式に対応している。
J.L.ルモアニュによれば、構造的パラダイムは、もしサイバネティックのバラダイムを併合すれば、閉鎖したシステムのモデル化の袋小路に迷いこむ。
☆システム的パラダイム
ベルトランフィは「開放システムの理論」を提起することで、この袋小路を出ることができた。具体的には生物学の〈機械論・生命論〉のアポリアの繰り返しを終らせた。
結論的にはそれ以来、事物〔対象〕は環境に向けて開いた表象であるとされることができたのである。
システム的パラダイムは基本的に二つのデカルト的概念を俎上に乗せたとされる。
因果関係の概念に対してこのパラダイムは究極目的(finalité)の概念を対置させる。還元主義の概念に対しては包含性の概念を対置させる。
このことが意味することは、われわれが対象を認識するのはその対象の振る舞いを決定づけている因子を捉えることによってではなく、対象に発展性(projets) を与えることによってであるということだ。
さらにこの知識は、対象が意味ある交換を保有する環境の中にあることを考慮することによって自から成立するのであって、単に対象を単一的要素に分解することによってではない。
社会システムも個々の働きの構成の結果であると考えることができる。プランとかプログラムを通して果たされる役割は究極性の働きと行為者の欲求の働きによって限定されざるをえない。しかしアナロジーの罠の裏をかきつつ、形成中のシステム的観念を利用することはたしかに有効であろう。
しばし開放システムの論理について考えながら教育家としてのわれわれの考察を育てるに必要な諸要素をそこに求めてみよう。開放システムは決定づけられた差異を拡大することによって自己主張を強める傾向がある。この差異はとりわけ相互作用(例えば運動性の相互作用)を基礎とする社会システムの中での人間相互の遭遇によって出てくる距離によって決まる。
開放システムは自分の中に非常に多様な構成要素を許容し、その構成要素が開放システムの不均質性と複雑性をもたらしている。内部の同種の多様性と複雑性は開放システムが外部環境(これまた複雑な)を支配できるようにし、この環境と開放システムはエネルギー系、情報系、象徴系において結合する。
言い換えれば、このシステムの構造と機能の大きな多様性は、潜在的非予見性の総和としてのある文脈の中で、システム自体の自律性を保証しているのである。システムの秩序は可能的応答の多様性によって保証されているということである。
この不均質性が欠けていると、システムやサブシステムの構成要素間のすべての接触が無くなり、直ちに発展能力は一切なくなる。システムはまとまりが良くなり、外部情報をもたらす別のシステムの働きを拒否する。
このことが意味することは、例えば生徒たちの何かのグループ内部で運動性の経験との出会いを勇気づけという事象がグループの解体と再組織を生じさせる可能性があるということであり、グループ全体を越えるような行動の発展に必要な均衡の破綻を生じさせる可能性があるということである。
実際、突出した資質はまず何らかの秩序の混乱を生み、その結果秩序を生みだす。
逆に、行為者たちの振る舞いの可変性を極力制限すれば均一性と妥協性は高まるが、そのかわりシステムのダイナミックな組織化と新しい形式の発明ということがなくなる。
抽象的全体としてのシステムやシステム的観念は、教育的事象やその動きを把握するには有益であろう。
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先に述べた通り教育的事象の動き(dynamique) は多様性、差異性、不確実性すらも包含する。明らかにそれはシステムが閉じていないからであり、不確実であり、刷新のための余裕を持っているからである。
できあがった時計の仕組みを探索しようとする場合、その時計のイメージは開放システムのイメージであり、創造をつづけているシステム、自己規制された自己創造のシステムである。因果性の直線的関係の代わりに独立性と遡及性がある。
このような形成途上の思考世界の騒々しさが全ての教育者を問い詰めるに違いない。教育者の仕事はますます高まるばかりだ。
このためにこそ教育者は、複雑な可視的なものでわれわれを圧刹してくる還元主義の意図に対して、言い換えれば、当面、複合的不可視的なものと呼んでいるものに働きかけながらその意図を越えるべきなのだ。
複合性は今日流行の理論であり、科学論の中で曖昧な役割を果たしている。
しかし複合性という概念は還元主義に対する武器となるし、諸状況の中に新しいものが侵入してくるのを察知させてくれる。
この概念は複雑という意味ではない。(複雑は単純との対概念である。)
実際、機械論のパラダイムは、ある複雑な対象が単純な理論モデルと合理的論理によって理解可能であるという前提に立っている。それ故、充分に注意しなければならないことは、生徒の活動の中の定常性と独自性ということである。
学習活動の内部的論理によって設定された場の中での意志決定が行われる場合、生徒の主導性の徴候を保存し、自発性を助長するためにこの注意が必要である。
例えば、わたしは100m競走のスタートラインにつく競技者の状態について生物学的パラメーター(代謝とか神経反射など)を用いて説明することはできるが、競技者の行動を起こさせるものの総体の意味は理解できない。グランドの地面の状態は競技者自身の主体性、情動、感情にかかわる全く別の語彙と結びついており、競技者の成績を大幅に左右する。
活動中の状態では、競技者は偶然的なものの総体に支配され、その結果がどうなるか予め断定することはできない。したがって実践者の処方の適切さは彼の置かれた状況の独自性をまるごと把握する自らの能力の左右されるだけでなく、彼の技術学的分析や科学的知識の豊かさに左右されるのである。
われわれの計画はこの場合、行動状態にある行為者のまるごとの主体性を統合し理解する必要がある。
かくして望むべきことは、体育スポーツ科が発達プログラムと形成戦略の両面に目配りをすることである。
プログラムは行動成績の機械論モデル、代謝や神経学的モデルの知識に基づいて主体をサイバネティクス的機械と見なし、単なる〈パイロット〉に還元する。しかし運動性行動の状態にはこうした形式論では捉え得ない次元がある。
主体は課題の要点を理解し彼の行動の文脈を解釈するに留意する必要がある。
体育スポーツの中に行動の認識論の次元を配慮しようとする現実の意図は、もしこの意図が手のこんだ知性の理論モデルや情報操作システムの理論モデルだけしか考えていないのなら、行動のこの基本的側面を完全に曖昧なものにしてしまうだろう。
逆に、形成戦略はプログラムを越えて、一挙に力関係(dynamique) の理論モデルの中に主体を置き主導性と選択を迫る。
形成戦略は個人を人格として捉え、この人格の論理を表現できるようにする。ある態度を選択した個人が行為を生み出し、文脈の偶然に身を任せて情緒の端的な表現を行うのである。
言うなれば、形成戦略は生徒が作りだす意味的な豊かさをすべて保存する。それは主として象徴的なものである。このことによって、形成戦略は生徒の自由性と創造性の領域を保証する。
戦略は同時に偶然を統合しようとする。例えば、サッカーの試合の最もよい戦略は行動を混乱させる偶発事を当てにし相手チームの失策につけこむことである。ゲームの組み立てはおのずから相手のゲームの組み立てを壊すことによってなされる。
こうして展開は、攻撃側がボールを奪い、新しい作戦を考えることになる。その時偶然は積極的意味を有することになり、勝つために偶然が活用される。
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したがって形成戦略は行動の領域を操作するのであり、偶然は排除しなければならない単なる消極的事項ではない。それは今や統合すべきものとなる。
運動性行動はここではその全方位的なものとなる。何故ならそれは意志決定のための排除的二者択一的なものではなく、今後は課題であり選択である。集団スポーツにおける作戦家は皆、このような不確実性と結びつく鋭い危機意識を持っている。
行為の多義性を考えれば、差異の組み合わせを行い、各人の創造的行動の潜在性を保存することが戦術には許されもするのである。このような計画にしたがって、運動訓練ならびに状況の示範をシステム化することは著しくその適切性を失うことになる。
このように、生徒の提案を考慮することの重要性が理解できるし、活動の展開と無関係ではないにしても一見無意味と思われる〈瑣末なこと〉にも注意することの重要性が理解できる。
形成活動の適合性の要因の一つは、練習場の喧騒の中に、偶発的だが決定的な事柄を見分ける能力にかかっていると言える。
課題場面は教育学的戦略である。体育スポーツの伝統的教育学はつぎの三つの指導形態に大幅に支配されている。すなわちデモンストレーションを伴う説明、反復トレーニング、環境の調整の三つである。
特定の教科の中に現れる課題場面の教育学、特に失敗場面の中の生徒の課題場面の教育学は、今日では体育スポーツの実践家にとってかなりの魅力を感じさせる。
この教育学は実践家に対して認識の学問に影響された運動性行動の理論モデルの論理的延長を見せてくれる。それは学校体育スポーツの一般的形成的価値の理解に必要な実践を含んでいる。
しかし学校で教えられる公的教科としてスポーツ的身体活動を移行させることはすんなりとは行かない。これらの指導方法の全体は生徒の障害となり、指導された技術を獲得する努力を行うよう生徒に強要する。
その課題(tâche) が持っている逆らう性質 (困難性、障害、問題性) と学習者の行う努力のタイプ (注意、身体的努力、推論) などによってこれらの教育学が異なる。
−− 〈絶対的教示〉型教育学では生徒が直面する困難性は本当の課題とはならない。何故なら指導者が終始課題を実現するために尊重すべき処理方法を命令するからである。
生徒はまず試技と反復を繰り返す中で間違いの回数を減らすことができるよう注意を払わなければならない。
これは学習者の順応能力を当てにする応答型教育学である。
−− 環境を調整することによる教育学は試行錯誤の回数を減らしまごつかないようにして生徒に特殊な課題(contraintes) を与えることによって、行動中の感覚=運動性の自動的順応を用意にする。
運動性行動の場面は、ここでは一種の非言語の注入のようなもので、生徒にとってそれは克服すべき困難性ないし越えるべき障害物であって、〈直立二足歩行プログラム〉の柔軟性と可塑性を頼りとする解決すべき神経=運動性課題ではない。
たしかにそこには生物学的観点での課題解決活動があるけれども、解決へと導く情報操作は完全に生徒の意識から漏落ちてしまう。
活動は、J.パイヤールの言葉を借りれば「自動化された導き」の中で展開する。活動の中で認知機能や記憶機能が働いていることはいるが、学習者の解釈を促す精神的活動、認識活動から離れる方向に向かうことになる。課題解決活動はこの場合、神経=筋肉系情報の操作過程として理解される。
−− 計画の教育学もまた状況=課題を要求する。この場合、生徒を障害物に直面させることによって一つの練習の機会とする。しかしこのタイプの教育学は生徒の手段探しの行動を起こさせるけれども必ずしも生徒が課題解決に参加するとは限らない。
実際、結果への期待に心を奪われて、生徒は学ぶことを避け自己流に解決を求めようとする。それに、困難性は偶発的に生起するのであって、段階的複合性という面で生起するわけではないから、そこで課せられる課題は指導者を回答の教育学へとはしらせる可能性がある。
困難性とか障害物の存在は、状況=課題としては充分なものとは言えない。何故なら、状況=課題は先生の命令的介入によって解決されるか、あるいは生徒の感覚=運動性の適応活動によって解決されるからである。
課題解決場面で目標を決定するものは、課題(tâche) 達成に必要な能力獲得である。つまり解決すべき課題は、唯一の回答ないし学習なしには発見不可能な唯一の回答全体を前提とする解決を待っている現実の障害物であるべきである。
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学習者は自分が遂行しようとする過程とかけ離れた抵抗物の総体を経験させられる。彼は自分の原資を活用し戦略を練る。
技術=実践的経験を通しての概念推敲ならびにその言語化と取り組む具体的教育学は、小学校であれば半径とか表面積などの概念の同化の高度な成功の積み重ねの多寡を明らかにする。
それはこれらの概念が手の操作と言語的コミュニケーションを許す具体的課題によって提案された場合そのようになる。
課題はその時、言葉で几帳面に述べられたやり方としてではなく、生徒が完全には自分のものにしていない獲得し発達させるべき精神的過程の助けで克服すべき障害として理解される。
体育では大部分の課題は具体的な障害の形態で存在する。そして生徒は観察可能な運動性活動を逃れられない。
しかしとりわけ、生徒は知らず知らずのうちに場面から受け取る表象をもとに一連の知的操作のすべてを実行する。この知的操作は彼が成功すればそれが効果的だったということが分かるのである。
運動性行動の場面で生徒たちに課題解決活動をさせるということ。それはとりも直さず、成功しなかった生徒に対して、またそれ故、学習しなければならない生徒に対して、
適切な情報を組み立て、効果的な実行方法を気づかせ、そして最終的に自分独自の練習の戦略を作り上げることができるようにしてくれる素質を示してやることなのだ。
陸上競技のリレー走を例にとって見よう。これは通常いろいろな競争の方法から始めて、ゆっくりした速度でのバトンの受け渡しの技術練習を教え、それから陸上競技ルールの条件を設定して行う。それはしばしば小学校スポーツ連盟の競技会にもつながるルールである。
このような実践方法は遊戯的スポーツ(ludo-sportif)の運営計画の中でなら非常に効果的であることは明らかである。
しかしリレー走は課題解決の場面の教育学にも道を開いている。
リレーでは障害は物体(バトン) の受け渡し〔動作〕にある。これを課題として変形するということは、つまり生徒の目を彼の走りから背けさせ、バトンの移動という事実に注目させることだ。
かくして、本来の早く走ることは問題とされず、バトンのスピードを落とさないようにすうことが問題とされる。場合によっては時計で計る係の生徒がおり、走者は結局バトン運搬係となってしまう。
しかしこのレベルで明記すべきことは、体育スポーツの課題解決の場面の独自な難しさであり、これはまさにその発展的性格から生じるものなのである。
このことから要請されていることは先生の側の本当の意味での導きということであり、先生は複合性が段々と増すように難度が順々と高まるように導かなめればならない。
例えば、バトンを渡す生徒に最善のタイミングで、最高スピードで真っ直ぐな走りで手をさしのべること、これが一挙に出現する最大の困難性であり、必ずしも課題解決の教育学と関わらない。その反対に、バトンゾーンの範囲内で走りの行程の調整は、まごつきながら何度も試みることによって行われる。同時にそれは、一連の制御手順を理解する中で演繹的推論結果によって行われる。手の位置や待機姿勢を互いに打ち合わせたり約束する、バトンタッチの瞬間の互いの走りとタイミングを考える、前後の走者の能力に応じて行程を配分するなどの必要せいが理解される。
以上、人間が生産する全ての物は複合性を有するということを強調しつつ、体育スポーツ科は非常に込み入った技術学のようなものと考えられないかどうか検討を試みた。
体育スポーツが主として行動の神経=生物学的モデルに支えを求める教授学だとすれば、専らプログラムと結びつく形成計画の推敲に向かって導かれるであろう。
そのような〔教授学的体育スポーツ〕は活動の意味内容を空疎化することになるであろう。たしかにこのような教授学は一時的には教育的作用を持つが、表に現れた機能を保証するだけでは充分とはいえないのである。
表に現れた機能は、単なる知識との整合性を離れようとするとプログラムの厳密な適用ができなくなる。それは戦略的推論と矛盾する。課題解決場面の教育学はこの問題への回答となるであろう。但し、それは障害設定による刺激とか、感覚=運動性の自己適応とか、認識過程の自己組織化と混同されてはならない。
完
1991.6.19. trad. par Shigeo Shimizu