ドニス・パリゾ(Univ. de Nice)

STAPSの新しい職業の専門教養を求めて

 STAPSの専門性は交換の場、文化交雑にあるのではないか...
 そして丁度、この専門性の問題がスポーツと社会政策 (社会参入政策) の問題の上に乗っている...

交錯する盲目性

 今日でもまだ、雇用や家庭など別の教育政策が失敗している分野で、沢山のスポーツに期待がかけられている。ある人々はスポーツ・イデオロギーに染まって基礎的価値とか思考モデルとか模範的行動といったことのみに注目しようとしている。また別の人々は反スポーツ的立場から、悪意すらこめて、排除的行動、区別の形式、社会集団の類別、排除にもとづく価値、他者憎悪、ナショナリズム、地域中心主義、盲目的愛国主義などなどありとあらゆる事実を指摘する。前者は、個人や集団の混迷状態に対して腐敗しか認めない。スポーツ・イデオロギー論者たちにはスポーツ界の粗暴な現実が見えない。彼らはスポーツ哲学とやらを掲げようとしているが、その散漫さは後者に属するマルクス主義者の目にも自由主義者の目にも明らかである。社会的差別に関してスポーツ統計をやっている《社会弁証法の支持者たち》も、特定スポーツの普及過程を明らかにしようとするスポーツ行動民主化の支持者たちも、どちらもまったくの盲目状態に陥っている。
 同化政策の中でのスポーツの位置づけに関する論議も民主主義と社会主義の対立をめぐってなされている。大学人、専門学者、技術者などの間での論争の性質と活発さを見ればそのことが分かる。派閥抗争が無数にあり、純粋化の企て、分野独占の企て、覇権闘争などが学会の論議を支配している。
 こうした盲目的論議のどれもが、スポーツ奇跡(miracle sportif) の願望にどれほど支配されていることか。誰もが恵まれない若者たちの社会的参入ということを掲げる。スポーツが平和に役立つという神話は、こうしたことに無関係の人々にすら受け入れられる。
 恵まれない若者たちの社会的同化ということはスポーツ政策として通用するのか。それは正しいことなのか。メディアの裏で、あるスポーツ種目に参入する条件と年齢の問題、あるいはスポーツ拒絶の形態などを特に考える必要がある。家庭は肉体関係の趣味やモデルの変容の第一次的作用因子だとよく言われる。スポーツクラブもこれと同様の因子であり、第二の家庭であるとよく言われる。家庭因子からクラブ因子への移行様態を明らかに研究もわずかに見られる。スポーツ領域を経験する若者の軌跡の観察や個人・家庭の推移の分析など、一応、スポーツ行動を通しての社会化の働きを立証している。スポーツで獲得した力能を社会的力能に転移させ可能性ということがしばしば主張されているが、実現を見たためしがない。どんな社会的力能に転移させるのか、どんな社会集団のために転移させるのか。スポーツは暴力への本能的願望のはけ口であることが望まれることもある。スポーツ活動によって暴力的傾向をコントロールできるというわけである。しかし、高度スポーツ競技でも地方スポーツ競技でもその逆の例が沢山見られる。
 論議のこうした閉塞状況を打開するために個人の社会的スポーツ的推移を幼児期から成人期まで調べるのも有効であろう。特定のスポーツ種目を中心にした調査は偏ったものであり、推移の動きが分からない。その調査結果をもって全体的意義を論じるのは問題だ。社会的同化の軌跡を明らかにするものは時間の経過のみである。未来は変動性と交換の中にある。社会的同化は多面的因子の作用の結果である、というのが最も単純明快である。同化過程のいかなる時期も、スポーツ的要因ですら、全体的過程を理解するには十分ではない。いかなる種目も、いかなる科学的視点もそれのみでは、ある社会的地位に接近するあり様の全体像を把握できない。未来は近接領域の交換の中にある。地方政治家たちと一緒になって共通の研究目的を掲げ、集団的に参加することの中にある。地方政治家たちの知識は不可欠である。彼らの頭を科学的観察の規則になじませることが知識の進歩の条件となる。科学という文化をうまく共有することが肝心である。

 単純化のための種々の信仰形態は、原理的に、今日もなお、スポーツと社会的同化、社会的職能習得、人格発達、公民的生活感覚などなどの間の直接的絆を求めさせたり拒絶させたりする。スポーツによる教育は何ひとつ、チームとか練習方法とか遊びとか教育的進歩とかいったものの単純な因果関係を裏付けるものではない。時には考えの行き詰まりが、用いられる方法を生み出す科学的知識への反発の要因となることがある。社会化過程を立証する事実のリストを作ろうとして、誤って文化領域を余りにも単純化しすぎると、二つの間違いに陥ることになる。一つは正統主義とその文化的支配意志が、文化の外的諸関係に集中すること。もう一つは民衆文化をめぐる相対主義が民衆主義を曖昧なものにすること…。危険なことは社会化過程の全体像に一つの方向を与えることである。それは成功することもあるが失敗することもある。そこに民族中心主義の罠がある。

 そこで、文化行動のアプローチ、支配関係と意味関係を同時に明らかにするような選択行動の起源へのアプローチを発明する必要がある。

 物的象徴的領域という概念は、スポーツと社会的参入政策の間の中間領域に考察を向かわせる枠組みとなる。この領域は土地の上の記された標識であると共に、集団の間に存在する帰属意識の世界の境界でもある。応用研究に求められる課題は、どのような局所的主観的客観的文脈の中で知るかということである。誰のために、どんなスポーツ集団、若者集団、家庭集団、教育者集団が社会化可能性の最良の形態を生み出させ得るかということである。沢山の接近ルートが可能である。
◇ スポーツ文化行動への接近の社会構造の分析。これによって、肉体の都市文化ならびに、町とか村など限定された空間での文化領域の形態と内容を明らかにできる。行政権力、認知の標識、青年の場がどのように配置され、どの程度の人口が一つの行動システムから別のシステムへと移動するか、一つの空間から別の空間へ、一つの権力から別の権力へと移動するかを解明する必要がある。
◇ 一つの町の特定の集団的行動がどんな条件下に、すでに別に意味を持っている排除的作用を再生させることなく、スポーツ政策を利用させることになるか。また、伝統的に代々の、しばしば抑圧的な政策の目標とされる人民のために、あらゆる方向での民族偏重主義を、どんな条件下に崩壊させることになるか。これは、地方的レベルの家族政策、教育政策、学校・社会スポーツ政策の間の動きの解明である。
◇ 若者の姿と行動の中に、スポーツはいかなる変容をもたらし得るか。この場合、スポーツがいかなるメディア作用、抑圧あるいは黙視によって、既存の価値体系を修正できるかを明らかにすることが肝心である。ボクサーは自分の種目についてどんな意見か、誰と試合しようとしているか。誰とトレーニングしようとしているか。沢山の質問が文化的行動と社会化機能の領域の間に存在する。

応用研究を通して社会的連携を作り直すこと

 研究=行動集団にリードされる地方レベルでの研究戦略を展開することは、社会参入過程の最良の理解のための可能な道である。ただし若干の方法論的条件を尊重する必要がある。現場の自生的知識から推敲される知識形態をほどんどそのまま解放しようとするのは間違いであるにしても、理論家と実践家の間の根本的なギャップは研究作業を無限定なものとしてしまい、それだけに (文化的) 距離が空いてしまうことになる。このギャップを縮めようとすれば、研究に関する教育学のようなものを企て、最も高度な世界観に適合させることになる。専門家の報告というものは、実践家の理解を越えた知識を駆使しているのであるから、無限定なものであるのは当然である。教育家とかスポーツ指導者、スポーツ選手など、いわゆる「現場の人間たち」が駆使する知識の基本的形態はよく言われるように知的なものと反するので、無視されたり軽蔑されたりすることすらある。

摩擦の削減は可能か

 スポーツ領域の研究はこうした知的人間と実践的人間の古いギャップの間で遂行されている。それは仕事と責任の分離の結果である。何らかの応用研究に成功するということはすなわち、ある意味で、こうした社会団体の傾向に抵抗して地方政治家の中の支持者と研究者の間の社会的紐帯をうまく結び合わせることを意味する。これに加えてSTAPS研究内の固有の摩擦を削減する必要もある。仕事や地位の取り合いといった内部的摩擦に疲れてしまうような学問分野に未来があるはずはない。学術の諸領域との連携を有する研究者たちは、一般に、知識の推敲過程全体をリードする。彼らは、科学的アプローチの保証者であると同時に教育者でもある。彼らは研究の各段階を活性化し、研究対象を構築し、調査手段を確立する。論文執筆の経験によって、実践家と一対一で話し合い、結論を整理してくれる。彼らはそこに、一つの研究対象を多面的に捉えるための沢山の視点を提供し、原理の移し替えと文化の多様な習得の原理を実現する。文化の変換過程を凍結させる彼らの能力は研究成果の適性化の能力に左右される。こうした視点から見ると、研究は研究のための研究ではなく新しい研究の準備の機会となる。
 さいごに、研究方法は量的アプローチと質的アプローチに分かれる。量的アプローチは都市空間の全貌を俯瞰する助けとなる。社会的職業分野の配置を観察することは、どんな地方政治のどんな権能の中にスポーツ政策が挿入されるかを明らかにしてくれる。社会化行動の場の実態を把握し、一方が他方を排除する場はどこかを知ることによって「スポーツからの侵入」がどのような忌避行動をおこさせているかを理解し、新しい配置を行わせることができる。質的アプローチはスポーツ文化行動の意味を構築する知識を提供する。家族と学校は調査対象の中に含めるべき社会化の契機である。スポーツ行動に入るということ、一つの行動をつづけるということ、一つのスポーツ行動から別のスポーツ行動へ移るということ、あるいは最終的にスポーツ行動から離れるということ、これらはスポーツ的な目では把握できない移行的価値として注目できる。おなじスポーツ行動がいろいろな意味を持つのは、それを言っている個人とか、その個人が経験した事情、獲得した人間関係などによるのである。
 応用研究はSTAPSという異分野の競合領域によって構成される研究分野の現実の限界を越えさせてくれる。分割は制度的領域、政治経済的領域あるいは異なる科学分野から生じる職業専門教養の論理的結果である。この問題において、応用研究は思考の集団的順化を可能にしてくれる手段である。業界の雇用形態を理解する必要もある。盲目関係のからみ合い、閉鎖的領域、対立的世界などに直面して、メディア機能を研究するとが、研究対象を再構築するために急がれる。これなしには、STAPSは東西分離と同じような運命におちいるだけだ。境界の再構築、領域の純化、覇権の確立などということは軍隊だけのすることだ。内部崩壊の危機をかかえる私たち自身が変動性を実行し文化交雑を主導することができるか。ひとえに戦略と手段と意志にかかっている。


1995.2.28. Trad. par Shimizu Shigeo
『私たちと近代体育』(1970)再考のために