STAPS, 2001, 56, p.19-32
William Charpier: Joseph Sansboeuf (1848-1938). Itinéraire d'un gymnaste alsacien engagé. (De l'AGA à la LNEP en passant par la LDP 1)
English Abstract
Joseph Sansboeuf (1848-1938) played a leading part in the mobilization movement in favor of physical exercises that speread in France since the advent of the third Republic. Alsattian, born in Guebwiller, he was trained to the gymnastics in the so called First Gymnastic Society of France. He had moved to Paris after the war of 1879 and he decided to stay in France definitly in 1872. Like many Alsatians, he took part in the parisian community excitement which had at stake in the re-establishment of the State and the cration of support movements to the Republicans. On the political side, so as Maurice Barrès, Sadi Carnot, Leon Gambetta, or as Paul Déroulède and personalities like George Demenÿ, Jean Macé, Paschal Grousset and Pierre de Coubertin, Joseph Sansboeuf could be considered as an hyphen character between the institutions and the men in competition. On a great truning-point of the physical exercises history in France, the Joseph Sansboeuf itinerary and the commitments that he had taken brought to light the role of the protester Alsatians installed in Paris and the influence of the movements that thy constituted so that the regeneration and the liberation of lost provinces of France took place.
Key words: gymnastic, third Republic, migrant Alsatians, republican movements, freemasonry.▽p.20
1998年11月に開催されたジョゼフ・サンブーフ生誕150年記念で、フランス体操団体の一人の先駆者であったにとどまらないこの人物のいくつかの仕事が報告された。このゲプヴィラーのアルザス人の公的な姿が現れるのは1880年代のことであるが、この時期、フランスの政治情勢は共和主義左派政府に支配されていた。しかし、この人は、フランスの身体活動史に興味をもつ人々には知られていない。彼の名は、しばしばポール・デルレードと結び付けられており、19世紀の最後の20年間には、主に愛国的軍事教育の宣伝、推進という分野に現れている。
いずれにせよ、19世紀さいごの四半期の体操とスポーツに関わった人物や運動を論考する研究は、ジョゼフ・サンブーフにわずかな評価しか与えていない。今日まで、彼についての人物研究は皆無である。しかしながら、彼の肩書きは多くを語っている。レジオン・ドヌール叙勲の司令官、公教育行政官、体育金メダル、身体活動・軍事・愛国など数多くの組織の創設者・会長である彼は、体操の対校競技会に関するパイオニアの一人でもある。さらに、彼の業績はフランス国内の体操の発展にとどまらず、フランス体操協会(USGF)代表として、ヨーロッパ体操連盟(FEG)の創設に貢献している。
90年近い生涯のエピソードのいくつかを、とりわけ、ゲプヴィラー体操会に所属しアルザスで過ごした彼の生い立ちと修業時代から、愛国同盟(LDP)に所属し愛国的・共和主義的ミリタリズムの時期を経過し、全国体育同盟(LNEP)に関わる活動の時期 1 にわたって追跡することによって、フランス政治史の結節点、すなわち第三共和制成立期(Grévy, 1998)に展開された身体訓練をめぐる広範な推進運動におけるジョゼフ・サンブーフの貢献を強調したい。より広く見ると、サンブーフは、1870年の戦争のあとのアルザス併合抗議派の人たちによってパリで展開された社交的ネットワーク(体操会、マフィア集会所、アルザス・ロレーヌ連合会など)の中心に関わっているのである。
ジョゼフ・サンブーフは、比較的恵まれたカトリックの家庭の6番目の子どもとして、1848年11月6日ゲプヴィラーに生まれた。彼の母マリー=ユルジュル・サンブーフ(1818〜1894)は、1841年の結婚の頃、製造業の女工だった。父ジョゼフ・サンブーフ(1819〜1878)はモーゼルのミュンスター生まれで、旋盤工だった。二人は結婚して13人の子どもをもうけ、そのうち6人が幼児のうちに死亡した。1860年代の早い時期、彼は体操会(SG)がゲプヴィラーの子どもたち向けに開いていた訓練教室に、生徒として参加していた。彼の学業と職業修養の過程については、ジャン=ジャック・ジーグラー=シュルンベルガー土木工務店の住み込み店員として修業したことしか分かっていない。1870年以前、彼は重要な仕事の管理の仕事、とりわけ、ゲプヴィラー高地にあるラック・デュ・バロン水門システムの建設に関わっていた。
生徒たちのグループで体操の手ほどきを受けた後、ジョゼフ・サンブーフはSGの書記フリッツ・グレイナーによって1866年1月6日、正規会員として推挙された。▽p.21 ゲプヴィラーSGのスイス出身の教師フランソワ・バスラーによってスイス指揮に鍛えられたサンブーフは、たちまち、町や市のいろいろな競技会でよい成績をあげ名をあげた。1866年9月23日、彼は初めての競技会に出場する。翌年、1867年5月26日、彼は25名が参加したゲプヴィラーSG競技会で優勝する。1868年エピナルの競技会、1869年ストラスブールの競技会で彼は受賞者となる。(Sansboeuf, 1899)
サンブーフの体操会活動への参加は、技自慢の正規会員としての参加にとどまらなかった。18歳にならないうちに、彼は会の委員会の準委員の仕事に参加している。彼はまた、アルザス体操家協会(AGA)におけるゲプヴィラーの体操家代表に任命されている。この友好団体はゲプヴィラーSGの指導者たち、とりわけ、会長のエドゥアール・ウィンクラー(1829〜1905)とジャン=ジャック・ジーグラー(1825〜1888)の提唱で1860年代半ばに設立され、当初はアルザスにある6つの体操会を統合していた。(Charpier, 1996)
この頃、体操家たちの活動は体操という枠にとどまらなかった。彼らはブルカール一族、フェリー一族、シュルンベルガー一族といった市の名だたる大家族の人々の幾人かが参加する遠足なども催していた。大小のラッパを先頭にして行進し、体操の演技会を開くほか、食事どきになると、時には本格的な小宴会が開かれる。これはまさに、ひとつの身体的集団的経験であり、その影響は衛生・体力強化の面ばかりでなく社交・懇親・政治の面にまで及んだ。体操家=遠足家たちはこうした会に参加していたのである。ついには、市のエリートたちの党が山の中のテーブルの周りに集い、体操家たちの遠足の食事会は、あたかも政治結社の様相を呈した。こうした場面設定は共和派秘密結社の準備のようであった。(Ihl, 1996) エドゥアール・ウィンクラーとジャン・ジャック・ジーグラーが愛国的感情や共和的シンボルについて隠さなかったことは注目すべきである。(Charpier, 1996) フリーメイソンである彼らは、その頃の共和主義者のたまり場であった(Leuilliot, 1954, 364) 「ミュールーズ・完全調和」の館の所属であり、(Klenck, 1867,48) この館にはジャン・マセ弟(1866年の夏祭りから入会)などもいた。彼は熱心な共和主義者で、市立図書館の普及者であり、1866年秋の教育同盟の創始者である。(Macé, 1880-1881, 13)
体操会に入会したサンブーフは、体操の枠をはるかに越えて教育と形成の中に浸りきった。身体的な実技訓練の上に愛国的・政治的教育が重ねられ、彼の人生を方向づけることになる。
1871年からドイツに併合されたアルザスは、プロイセン帝国の汎ゲルマン教化の第一波を被る。アルザスの人々は団結して併合とその後に付いてくるゲルマン化に反対した。
同年輩の多くのアルザス人、とりわけ愛国団体所属の人々と同じく、(Sieffermann, 1910) サンブーフは、35歳までの未婚男性すべてを軍隊に召集するガンベッタの檄に応じた。1870年の戦いではライン軍の兵士であり、遊動国民軍第8中隊曹長のサンブーフは、1870年11月10日のNeuf-Brisach争奪戦で捕虜となる。ドイツのRastadtへ送られたサンブーフは翌年3月、釈放される。1871年、彼はパリに居を構え、そこでジャン・ジャック・ジーグラーと一緒に自分の仕事を遂行する。ジーグラーは1869年に建築事務所を開いていた。サンブーフは1872年8月27日付でフランス国籍を選び、他のアルザス人と一緒にパリの団体活動を活性化させ、フランスにおける体操制度・機構の基礎づくりに貢献する。▽p.22
パリに着いてすぐ、サンブーフは地方体操家の活動の再編成にかかわる。彼はSG「ラ・ナシオナル会」に入会し、数ヶ月の間、この会の監督・指導にあたる。この会はフランス体操に関するあらゆるイニシャチブが連合する場とみなされた。サンブーフはジーグラーと共に、1873年9月のフランス体操連盟(USGF)創立を決定した9団体19代表の中の一人である。ユジェーヌ・パス、ドワイアン、ド・ジャリーの後、ジーグラーが1877年、任期1年のUSGF会長となる。サンブーフは1876年、セーヌ体操県連合会(ASGS)を創設したばかりであったが、これは体操家の県連合としては初めてのものであった。彼はジーグラーに協力してUSGFの事務局長の職務を果たした。二人はまた、1876年下半期に創設されたSG「アルザス・ロレーヌ会」の創設に貢献している。(Flach, 1877) モーリス・ラルジェやミュラー兄弟フィリップとジャン=バプティスト、アンリ・ヴュエスト、あるいはジャン=バプティスト・シュルントといった他のアルザス人たちは1875年、SG「ピュトー会」を結成している。
ジーグラーとサンブーフは、併合抗議の大規模な団体であるパリのアルザス・ロレーヌ総連合会(AGAL)の会員でもある。この連合会は1871年夏に結成され、公然と共和主義の立場を表明し、特にレオン・ガンベッタの背後に結集する共和派連合と連携した。総連合(AGAL)と傘下団体は抗議声明を発表するたびに「祖国奪回のために団結しよう!」という同一の言葉を繰り返す。
この総連合(AGAL)と共に、フランス青年連盟(UFJ)とかフランス婦人連盟、あるいはアルザス・ロレーヌの家といったアルザス・ロレーヌの同郷者たちによって運営される組織が彼らの愛国的・共和主義的熱意を表明し、ガンベッタがこれらを支援する。1883年1月のガンベッタの死の直後、併合抗議派の人々は「恐ろしい終末、癒しえない苦悩」であるとし、彼の栄誉を称え、その遺影を永続化させるために、アルザス・ロレーヌの組織の主だったリーダーたちによって大規模な決起集会が開かれた。サンブーフはフランスと植民地のアルザス・ロレーヌ連盟(FSALFC)の創設会長として、1890年以降、ヴィル・ダブレイのガンベッタの死んだ家で毎年、愛国周回を開く。
パリに住むアルザスの体操家たちはフランスにおける体操の発展と組織化、とりわけ、USGFと連盟祭典の構築と発展に顕著な役割を果たしている。
体操運動の推進とその普及がわが国に及ぼす働きのすべてを公的に表明するために、USGFは1875年5月16・17日、「国民再生」の初めての大祭典を開催する。ジュール・シモンを会長とするこの祭典はフランス大東部会館(le salon du Grand Orient de France)での晩餐会で締めくくられた。この会の運営はジーグラーにゆだねられた。そして、その傍らでサンブーフは組織委員会事務局長の役目を果たす。この二人の呼びかけで、ミュルーズ、ストラスブール、コルマール、ゲプヴィラー出身のたくさんのアルザス体操家たちが招待され、プレ・カトランに集まり、この日のためにゲプヴィラー会から運ばれた三色旗を押し立てた行列に加わる。しかし、このことはドイツ当局による解散命令の脅しを生むのである。▽p.23
アルザスの人々はこの種の会合は不慣れではない。事実、ジーグラーはアルザスで数多くの体操祭を実現する機会に恵まれた。1861年5月12日、ゲプヴィラーでフランス初の体操祭の開催を担当したのは彼である。(Charpier, 1997, 78) アルザス体操家協会(AGA)会長として、ジーグラーは1867年、コルマールの複数の体操祭あるいは1869年6月のストラスブールの体操祭を成功に導いている。アルザスはある意味では第二帝政期における体操の実験室のようなもので、その経験が第三共和制期のフランスの体操の制度化の局面で活用されていったのである。
毎年、USGFの大会はアルザスの体操家たちのフランス人意識の表明と、彼らの地方のゲルマン化への反対行動を促した。ルーベ、ランス、クレルモンフェラン、あるいはラロシェルからアルザスの体操会へ向けての呼びかけが熱心に行われた。われわれと同じフランス人だった皆さん、来てください。国を失って泣いているアルザス・ロレーヌの息子たちよ、来なさい。皆さんは、拍手で迎えるわれわれ同志の中で、あなた方の悲惨の中の栄光を称える祖国の声を聞くでしょう。…1875年5月9日付ゲプヴィラーSG宛ジーグラーの手紙(Archives de la SG Guebviller) アルザスの体操家たちは、これらの体操祭ではアルザスを離れ祖国のない体操家たちとして扱われ、彼らの参加は、ある意味で愛国的感情、そして時としてはナショナリスト的感情を活気づけ高揚させた。
1870年の暮れ、フランスの体操団体の制度的基礎づくりができた。USGFは、社交集団型のその組織形態、軍隊形式の借用、あるいは連盟祭典でのその動員能力によって、大衆を政治的使命へと組織化する方向で政治的動員に関わった。別の言い方をすれば、大衆の国民化に手を貸すことで、体操の組織行動は共和国のパートナーであり、政治力となったのである。アルザスでは、ドイツ当局は扇動を繰り返す幾人かの体操家によってこれ見よがしに行われる示威行動を評価しない。1878年以降、優先される関係の枠組みは扇動と抑圧の弁証法となる。
この枠組みの中で、ジョゼフ・サンブーフの体操のために関与はより一層政治的・闘争的な次元へと向かう。彼の活動は1870年代、パリに結成されたいくつかのアルザス・ロレーヌ併合抗議団体を後ろ盾に、アルザス体操家協会とUSGFの間に道をつけていく。
1879年、ジュール・グレヴィーが大統領になると、国民再興をめざす文字通りの運動が見られる。少し後に、青年の身体・軍事訓練の推進を目指すイニシャチブが数多くでてくる。体育重視の義務教育、審議会やさまざまな制度の制定などが身体活動に有利な動きに新しい推進力をもたらす。(Arnaud, 1991)
こうした動向の仕掛け人たち、例えばピエール・ド・クーベルタンやジョルジュ・デムニー、ポール・デルデード、パシャル・グルッセ、あるいはジャン・マセといった人々と一緒に、ジョゼフ・サンブーフは、体操をはじめ広く身体活動・軍事活動一般が優先されるような、強い若者を形成することをめざす新しい構造をつくりあげるという野望を持つ。彼の闘争は精神を覚醒させ、アルザス・ロレーヌを解放することであり、そこに新しい協力者を見出していく。
ジョルジュ・デムニー(1850〜1917)は、1880年、フリーメーソンのエミール・コラと共に合理的体操互助学校をつくる。これは合理的体操研究サークル(1880〜1886)という名で通っているが、当初は小学校教師を対象としたものであった。これより前、デムニーは体操の実践者であり指導助手であった。(Collot-Laribe, 1985, 154) ▽p.24
トリアの弟子であり、後に「ラ・ナシオナル会」SGでの実技レッスンの責任者となったデムニーは、このパリの体操会の会長だったジョゼフ・サンブーフと親密な関係であった。建築家としてのジョゼフ・サンブーフは1881年にデムニーと協力して、ブローニュの森の中のプランス公園に設置されたエチエンヌ・ジュール・マレイの生理学実験室の設計・施工を担当する。(Mannomi, 1997) アルザス体操家協会が1880年に開催した指導者講習会をジョルジュ・デムニーが担当したのもサンブーフの仲介によるものである。(Thibault, 1972, 92) USGFとデムニーの間の強い絆は、世紀の変わり目からUSGF会長となったシャルル・カザレの勧めにしたがって、デムニーを1903年創設の体育高等コースの責任者にする。(Barrull, 1984, 215)
数人の人物が、同一の目的すなわち、フランクフルト条約の見直し、アルザス・ロレーヌの解放、フランス全体の再構築という目的に向けて、精神の覚醒と努力の集中のための運動の中核をつくるべく、(Hamel, 1931, 734) パリで示した態度は、ジョゼフ・サンブーフと彼のセーヌ県体操家たちによって1882年5月18日、開かれた式典の中で具体化される。
その日は、アルザス・ハイザー体育館で式典が開かれ、チエール夫人からASGSへ寄贈された旗の返還があり、まさに併合抗議派の人々の集いのようであった。体操家たちの演技と旗の返還式のあと、いくつかの演説が行われた。ジョゼフ・サンブーフが主張したことは、祖国再興にとって体育が重要だということであった。彼に続いて、ポール・デルレードがその大きな野心的計画の目的と期待について語る。それは、国防団体の連合の中にフランスの愛国者すべてを結ぶ友愛の絆を作り出し、いたるところ、全ての人々の心の中に、祖国を熱烈に愛させる愛国精神、その精神を忍耐強く勇敢に行使させる軍隊精神、そして、国民全体の要求と利益の確実かつ合理的な認識としての国民精神を高める(Déroulède, 1887, 5) ことである。ジョゼフ・サンブーフによれば、デルレードの話はすでに征服されている集合体を揺さぶり、ひとつの具体的行動に向かわせた。その行動とは、心の底に祖国愛を持つ善良なフランス人すべてを、現存する団体のまわりに結集させるような集団の創設ということである。(Hamel, 1931, 734) こうして愛国同盟(LDP)は誕生した。
ひとつの国民的目的を有する団体のすべてを集結させることにより、デルレードによって筋金を入れられたこの新しい愛国組織は、道徳・身体力の発達、フランスの偉大さの再興、そして愛国心の鼓舞という目的に邁進する。セーヌ県体操家協会はデルレードの呼びかけにいち早く応じた団体のひとつである。1881年のAGALのクリスマス祭に先立つ数ヶ月前、真のアルザス魂を持つデルレードは、アルザス人が結成し所属する多様な団体の支援が当てにできるものと考えた。AGALのメンバーの他にも多くが、対独報復の時を告げ、そればかりか、とりわけフランスの大覚醒(Journal L'Alsacien-Lorrain, du 28/5/1882)を掲げるこの同盟の誕生に満足の意を表していた。
ある意味では、愛国同盟はジャン・マセが結成したフランス教育同盟と共通の基盤を持っていた。ともに共和主義の心を共有し、(Chambat, 11980, 151) フリーメーソンの支援、とりわけアルザス・ロレーヌの家の支援の恩恵にあずかっていた。二つの同盟は共に、1882年にポール・ベールがつくった軍事教育審議会の考え方を追求しており、ジュール・フェリーは数週間後にそれに着手することになる。
デルレードはサンブーフが開いた式典に参加したのは「偶然のこと」だと述べているが、(Déroulède, 1887, 166) その言葉とは裏腹に、すべてが愛国同盟の創設は気まぐれの仕業ではないことを裏付けている。(Joly, 1996, 282) ▽p.25
事実、愛国同盟という名を冠する愛国的運動の中核の創設が決まったのは、地方紙「ドラポー」の社屋の中で Louis d'Hurcourt のいる前で話されたデルレードの言葉の中でであったと、サンブーフは明言している。(Hamel, 1931, 734) そればかりか、式典の数日前、ポール・デルレードは「アルザス・ロレーヌ」紙に掲載された1882年5月7日の「悪しきフランス人へ」という記事の中で、彼の計画をもらしている。それによれば、いまやわれわれは、お前たちに対抗して、誠実な人間の結合である愛国同盟を結成する、となっている。
言い換えれば、サンブーフの会合は、デルレードや軍事教育審議会の面々、ポール・ベール、とりわけ副会長のフェリックス・フォールとアンリ・マルタンなど、ある程度、上のレベルの動きに呼応していたといえる。愛国同盟の創設は、公教育大臣ジュール・フェリーの態度を見た上で固められ、そして、サンブーフが開いた式典はデルレードがただちに会員の母体を手にすることができるものであっただけに、おあつらえ向きだったのである。
連盟や会の責任のほかに、サンブーフは1882年以来、愛国同盟のための強力なキャンペーンを起こしていた。パリでの彼の仕事は、アルザスへ定期的に戻る妨げとはならなかった。頻繁に戻るたびに、彼はアルザス体操会の委員の集まりに顔をだしていた。かれはこの会の在パリ通信員であり、また、ゲプヴィラーの体操会の通信員でもあった。この機会に、アルザスに留まった体操家たちの抗議運動を扇動し、彼らの関心の表明を愛国と共和の象徴に結びつけさせようとした。
1883年8月18日、ゲプヴィラーでのアルザス体操会の委員会の折、サンブーフはパリの体操家たちを代表して、アングレームでの体操祭の折に鋳造された記念メダルをいくつかと、メルシエの石膏像のほか、体操にまつわるいろいろな品物を委員会に寄贈して委員たちを喜ばせた。 1 翌日、彼は第8回アルザス体操祭に参加している。ドイツの当局は、この祭典が政治的示威の場とならないことを条件にしてのみ許可してきたのであり、このことを銘記すべきである。アルザス体操会会長ヴィクトール・ツーバーは、以前に何度かこのコンクールの組織委員長シャルル・ヴィッツに対して慎重を期するよう忠告していた。当局が定める政治秩序の遵守はもちろんのこと、体操場での体操家同志の親睦に限ってのみ適切に運営されるべきことは明らかである。 2 体操の連帯の背後に、ジョゼフ・サンブーフのアルザス訪問の意図が見える。アルザスの12の体操会がフランス語の号令にしたがって昔のアルザスのユニフォームで演技し、愛国同盟からのいくつかのメダルの授与が行われるのである。
愛国同盟によって促されるナショナリスト的報復主義的愛国情熱がフランス国内に拡大する時、ドイツ当局の心配と体操団体への監視の目は理解できる。愛国同盟のリーダーたちによれば、国民復興の主要な担い手たちを形成するのは体操家だと考えられていたのであるから…。
扇動された愛国主義の高まりの中で、ブーランジェ事件の右翼のような大衆運動は、アルザスではドイツ当局の抑圧的対応を生む。 ▽p.26
アルザス在住の愛国同盟会員名簿が、ひとりのパリの会員の手に入り、ドイツ当局は1887年2月の間に、アルザス・ロレーヌ諸都市における家宅捜索に踏み切る。その結果、2月14日、コルマールの予備判事が2人の警察官を伴ってジョゼフ・サンブーフの甥であるリシャール・ボレッカーの邸宅に踏み込んだ。4時間に及ぶ家宅捜索の末、愛国的文書・書簡、書籍、帳簿などすべてが差し押さえられた。ボレッカーは逮捕され、3ヶ月の拘禁の後、一時帰宅の機会をとらえて逃亡し、6月に予定されていたライプチッヒでの裁判を免れた。この裁判は、ドイツ国家の安全を脅かす愛国同盟と秘密関係を持った疑いのある多くのアルザス人を罰することを目的とするものであった。 (Wetterwald, 1948)
数日後の2月21日、ビスマルクの要請でドイツ軍兵員増強を問う選挙は、抗議派の勝利を示した。最も甘美な勝利は、ベンフェルトのシーフェルマン博士によって獲得された。この退役軍医は、1870年のリヨンのアルザス勲章受賞者で、ベンフェルトSG会長、アルザス体操会副会長でもあった。選挙の結果はアルザスに厳格な独裁体制が敷かれるきっかけとなった。それは、フランス偏重とみなされるいくつかの会の精神と活動を叩いて抑圧する意図をみれば明らかである。これにより、多くの会が消滅する。その中には、1860年代の半ばにフランス体操の先駆者たちによって創設されたアルザス体操会も含まれる。しばらくして、4月20日、パニー・シュル・モーゼルの警官ギヨーム・シュネベレが2人のドイツ警官によって逮捕される。フランスのスパイ容疑で拘留されたのだが、数日で釈放となる。要するに、このシュネブレー事件と呼ばれる事件は、6月のライプチッヒ裁判と並んで、両国の間ですでに低下していた関係をさらに悪化させる結果となった。たしかに、戦争は不可避と思われた。 (Mayeur, 1973, 169)
ジョゼフ・サンブーフが愛国同盟の会長の職につくのは、まさにアルザスにおけるこうした抑圧措置や逮捕劇で火がついた愛国心の強まりによって増大するフランス・ドイツ緊張関係の流れの中であった。
愛国同盟の評議員会でのさまざまな役職を果たした後、ジョゼフ・サンブーフはデルレードの要請により、1887年4月18日、全会一致で愛国同盟の会長に選出された。 (Chambat, 1980, 156) デルレードはその時、サンブーフに対してつぎのような感動的な祝辞を述べている。(Déroulède, 1887)
愛国同盟きっての、わが古き第一の協力者、勇敢な抗議派運動家、誠実なるフランス人、わが友、愛国同盟会長ジョゼフ・サンブーフ、あなたこそが私の仕事と思想を守り抜く人だ。至高の熱烈な親愛の思い出…。
サンブーフが愛国同盟会長をしていた8ヶ月の間に、たくさんのイベントがデルレードによってぶち上げられ、サンブーフの仕事は複雑化した。1884年のさいごの数ヶ月、デルレードはトンキン湾事件で動いていた。植民地政策に対する批判的陣営に立ち、時には公権力への敵意をにじませながら、デルレードは、サンブーフもろとも愛国同盟を政治の世界へ引きずり込む。国会議員選挙での落選を繰り返した後、デルレードは政府攻撃を繰り返し、ついに1887年6月、ブーランジェ支持の信仰告白を公にする。 (Girardet, 1958, 4)
急進派との同盟を破棄した共和派日和見主義モーリス・ルーヴィエによる5月末の新内閣の組閣とブーランジェ将軍の更迭は、デルレードの政界入りに影響する。ブーランジェ将軍はデルレードの周囲に不満分子・報復主義愛国者を集めて、内閣の不安定化を画策する。ブーランジェ派のキャンペーンが打たれる。デルレードはその主要なリーダーの一人だった。7月に入ると、デルレードはジュール・フェリー、外務大臣フレシネに向かって挑発的言辞を繰り返す。共和国大統領ジュール・グレヴィーもその標的となる。 ▽p.27
12月、共和国大統領をサジ・カルノーとする選挙の直後、ルイズ・ミシェルと共に国会前で繰り広げた大衆行動により、デルレードは警察にしょっ引かれる。
このデルレードのブーランジェ派への参入は、1887年後期の行事の折に公となったのだが、これがジョゼフ・サンブーフと愛国同盟の常任理事会の立場を世論と政府に対して悪いものにした (Hamel, 1931, 735) 12月の半ばに、愛国同盟は改組される。サンブーフは12月17日、会長を辞し、フェリー・デスクランが彼の後を襲う。
1888年は、ジョゼフ・サンブーフが自らの関心を新しい方向に向かわせる年である。愛国同盟での6年間の闘争行動の後、彼はデルレードが仕組んだ方向から離れ、最終的に愛国同盟を脱退する。この断絶により、サンブーフは自分が反ブーランジェ派であることを公然と示し、その具体的証として全国体育同盟(LNEP)へ加盟する。同じ頃、彼はUSGFの会長を引き受け、パリ第8区区長補佐として市の仕事に関わる。
1888年4月、デルレードのブーランジェ派への関与は、愛国同盟常任理事会内部に、また新しい活発な動きを生み出す。4月23日、愛国同盟の40人の代表者を選ぶ問題で、デルレードとその支持者たちは、はじめて少数派となる。この敗退にもめげず、デルレードは退陣を決意しない。彼は反論し、支持者に向かって、今や愛国同盟を代表するのはわれわれしかいない、と述べる。 (Journal La Frontière du Territoire de Belfort du 26/4/1888) デルレードは強引にも、愛国同盟での自分の指導力に気づき、選挙当日の夜、会長指名を強行して曰く、私の選出に反対する者はもう会員ではない、と。 (Journal La Frontière du Territoire de Belfort du 26/4/1888) 議会派と反ブーランジェ派である常任理事会の多数派は、サンブーフ、ドロンクルと共に解任された。 (Sternhell, 1997, 106)
分裂して数日後、デルレードは、過去の政治的無関心の破棄、内閣議会制の非難、共和国の改革など、新方針を発表する。 (Girardet, 1958, 5) 新しい常任理事会は、副会長をブーランジェ派のナケ、レザン、チュルケとし、愛国同盟はブーランジェ派の活発な力の源泉となる。
かつては、友愛と尊敬の関係で結ばれ公民と道徳の再興計画をめざし、熱烈な報復的愛国心をたぎらせていたデルレードとサンブーフは、数週間の後、互いに反対の陣営にいた。にもかかわらず、二人は定期的に、特にパリのストラスブール記念碑の前での式典で、会合していた。1910年代の初期に、二人は和解する。1914年2月3日のパリのサン・トーギュスタン教会での葬式で、サンブーフは感動的な共感を呼ぶデルレードへの弔辞を読む。そして、この日はわが生涯で、ガンベッタの死以来、もっとも悲しい日だと述べている。 (Joly, 1996, 1052)
USGFでのさまざまな役割、とりわけ1887年の副会長に続き、1888年5月21日サントで開催された第14回連盟祭の常任理事はジョゼフ・サンブーフをUSGF会長に選任する。
1880年代の終りごろ、身体運動のためのイニシャチブの叢生がUSGFの独占体制の消滅をまねく。それにもかかわらず、フランスの体操家たちの連合組織は、そうした後発の組織によって脅かされなかった。USGFは傘下の団体の数においても、会員数においても、またマスゲームの名声においても、この時期に身体活動のために創設された種々の動きの中で優勢な地位を保持していた。 ▽p.28
USGFの地歩を示すよい例は、1889年、ポリゴーヌ・ド・ヴァンサンヌでの第15回パリ連盟祭のときに受けた公的賛助を見れば分かる。この連盟祭には初めて共和国大統領サジ・カルノーが臨席し、830クラブから1万人余の体操家を集めたのだが、1875年、1878年についでパリで3度目のこの祭典は、ブーランジェ事件の後のフランス国家とUSGF体操家の間の同盟関係を公的に示している。USGFの主要なポストを占めるこの祭典の仕掛け人はジョゼフ・サンブーフである。
こうした状況においてジョゼフ・サンブーフのような人物とUSGFのような機構の利益と正当性が、後発の諸組織に対して示されることは有益であると考えられた。
USGF会長就任と愛国同盟脱退の数週間後に、ジョゼフ・サンブーフは、フリーメーソンのシャルル・フロケが署名した1888年7月24日付政令によって、パリ第8区助役に任命される。国会議長と内務大臣によるこの任命ははサンブーフの反ブーランジスムの立場を物語っている。事実、シャルル・フロケはサジ・カルノーによってブーランジストの動きを封じるために選任された人である。ブーランジェ将軍との決闘に勝った7月、フロケは、アルザス人である従兄弟アルフレッド・ケクラン第8区区長とその補佐カストラーを罷免した。1870年の戦争でのミュルーズの愛国的レジスタンス精神の持ち主のブーランジスムへの参与は、フロケにとっては致命的であった。 (Favre-Koechlin, 1992, 4) この趣旨において、サンブーフが第8区区長となったのであり、彼は死ぬまでの15年間その地位にあった。
10月、ジョゼフ・サンブーフは、フランス伝統遊戯の再興のもとづく身体教育なるものを推進しようとして組織づくりをしていたパシャル・グルッセの提案に対して、好意的な回答を与える。 (Lebecq, 1997) ピエール・ド・クーベルタンがジュール・シモンを長とする身体訓練振興のための委員会を創設した5ヶ月後の1888年10月31日、全国体育同盟は公式に創設され、愛国同盟の第一世代に属するデルレードのかつての協力者たちの幾人かが参加していた。
ジョルジュ・クレマンソー、アナトール・ド・ラ・フォルジュ、ジャン・マセ、アルフレッド・メジエール、それにジョゼフ・サンブーフといった人々が、この新しい組織の副会長として肩を並べ、マルスラン・ベルテロが会長である。このことは明らかに、まちがいなく、全国体育同盟というものが、1888年5月にデルレードが手直しした愛国同盟と対立するライバル関係であることを示している。 (Lebecq, 1997, 85)
反ブーランジスムの立場を掲げることにより、グルッセの全国体育同盟はフロケ内閣の後押しをする。この意味で、同盟はグラン・オリアン・ド・フランスが推進する運動を支援する。忘れてならないことは、全国体育同盟はフリーメーソン、とりわけベルテロ、クレマンソー、グルッセ、マセ、ド・ラ・フォルジュ、その他、バトルディ、ランク、スピュラーなどの人物の集まりだったということである。
最初のパリのランディ、すなわちフランスの学徒すべてに開かれた力と技の大コンクールは1889年6月16日から23日まで、全国体育同盟によって開催される。 (Lebecq, 1997, 130) 会場を分けて12種目で構成されたこの競技会は、開催者によれば、フランスの身体ルネサンスのウインド (Lebecq, 1997, 178) であり、ブローニュの森での対校競技会で締めくくられる。そこには共和国大統領サジ・カルノーが臨席する。ジョゼフ・サンブーフは、マルチル通りのハイザー体育館で行われる跳躍競技の運営を担当する。彼は1890年5月29日〜6月8日の第2回ランディでも同じ仕事をしている。
数日前の1890年5月18日、ジョゼフ・サンブーフはピエール・ド・クーベルタンの見守る中、パリとヴェルサイユのリセ、コレージュその他の学校の生徒のための最初の体操競技会を運営する。 (Barrull, 1984, 214) ▽p.29
ピエール・ド・クーベルタンが1889年1月31日にUSFSA(フランス・スポーツ競技連合会)をパシャル・グルッセの愛国同盟に対抗して創設したばかりであったこと (Arnaud, 1998, 293) は周知のとおりであるが、サンブーフがその両方に噛んでいたことは驚きとすべきである。いずれにせよ、この二人の関係は全国体育同盟ができた直後に生まれるのである。すなわちピエール・ド・クーベルタンが1888年11月、1889年の万国博覧会に乗じて身体訓練コングレスを開催する許可を政府から獲得した時に生じるのである。この件で、クーベルタンがグルッセの全国体育同盟の有力メンバー、会長ベルテロ、マレイ、サンブーフといった人々と近い関係だった。
身体訓練を目的とする試合が展開される場では、サンブーフの地位と力はライバル関係にある人物や組織をつなぎとめる絆となっていた。
1860年代のアルザス人たちによる体操から得られた経験を通して、サンブーフは、フランスの体操という世界に新たな動きをつくりだすイニシャチブと闘争に貢献している。
体操・軍事・愛国の活動のための彼の業績は、フランクフルト条約の直後にアルザス・ロレーヌ人たちがフランス再興と奪われた領土の解放をめざして企てた大きな政治的行動計画の中に入り込んでいる。ジョゼフ・サンブーフのその他多くの生活の側面、とりわけプラハのソコルが領土の外国支配に反対して戦う行動を促すことをめざして1889年以降フランス=チェコ関係の推進者としてのサンブーフの活動は、このパリへ逃れたアルザス人の一貫して変わらぬ態度を示している。
ジョゼフ・サンブーフは気管支炎で1938年4月17日、没する。パリのサン・トーギュスタンでの葬儀のあと、彼の遺体はアルザスに送られ、ゲプヴィラーに眠っている。
この論文はフランスにおけるジムナスティークの組織化の歴史における一人の人物ジョゼフ・サンブーフの役割とその行動の背景と特徴を明らかにしようとするものである。ジョゼフ・サンブーフはこれまでの体育史研究ではジムナスティークの世界だけの人物であったが、この研究はサンブーフをドイツ=フランス関係の緊迫していた時期の一人のアルザス人とし、その愛国的・軍事的行動の中でジムナスティーク活動が不可欠の手段であり活動の要であったことを教えている。ピエール・ド・クーベルタンとパシャル・グルッセの対立関係の中で両棲的つながりを持っていたとする部分については、さらに詳細に検討する必要がある。
論文の目的からすると、結論はあっけないものであり、もう少し明確に文脈の整理をすべきだろう。
翻訳作業において、原文中の gymnastique gymnste は「体操」「体操家」という訳語をあてた。この時期のフランスのジムナスティークは、まさにわが国の「体操」と意味・内容が直接つながっていると考えたからである。しかもそのように用語を置いて読むと、わが国の体操や運動遊戯と、この時期のフランスのジムナスティークやスポーツとの政治的・社会的役割の違いの大きさや緊張関係の異質さがよく理解できるであろう。
2002.3.3. trad. par Dr. S. Shimizu
『私たちと近代体育』(1970)再考のために