朝日新聞2003.9.6.文化欄【天皇制論】

 脇田さんとは、2度ほど奈良でお会いしたことがある。状況がよく思い出せないのだが、たしか、放送大学の渡辺さん、奈良女子大の山本さん等と同席させてもらったことがきっかけだった。
 さすがに能という芸能の身体をしっかり持っている。それ故にこそ、あの自信に満ちた磊落さがあるのだろうと、人間的な魅力を感じたものだった。先日の日曜日の朝日の書評欄に、脇田さんの著書が出ていた。そんなこともあって、中世文化がどのように文化的権力形成を達成していったのか、そして、その頂点に天皇というものが制度として君臨することになったのか、興味深く記事を読ませてもらった。
 記事の大半は、池田記者による解説であり、要約するキーワードとしては「流行」とか「共通の基盤」が気になるところだが、脇田さんの言葉としても、文化の上から下への伝播の現象が指摘されており、神秘性とか宗教性といった観念的な天皇権力概念ではない新しい視点がありそうである。
 ちなみに、上記の日曜版の書評も参考までにここにリンクしておくことにする。


脇田晴子・滋賀県立大教授に聞く
お公家さんはしたたか…文化握り「天皇の権威」広める

 天皇制は、なぜ存続してきたのか。多くの歴史学者が考え続けているが、結論をみないこの大きな謎に、滋賀県立大教授(日本中世史)の脇田晴子さんが取り組んでいる。近著『天皇と中世文化』では、戦国期の文化を綿密に検討し、天皇の権威が大衆に浸透してゆく様子を探っている。 「戦国期に天皇制イデオロギーが大衆に広まった」という脇田さんに聞いた。 (池田洋一郎)


 戦国時代、天皇は政治や軍事などの権力を失い、生活にも困るほど無力になった。にもかかわらず、戦国大名の全国統一のシンボルとなり、江戸時代に入っても徳川幕府は天皇制を温存せざるをえなかった。戦後の歴史学では、その理由を、天皇の神秘性や宗教性に求めるのが一般的だった。
 これに対し、脇田さんは「中世から戦国期に芸能や文学、宗教などを、天皇や公家が掌握したからこそ、天皇の権威が民衆に浸透し、天皇制は存続し得た」とする。
 「戦後歴史学には、この時代の文化への視点が欠けていました」
 そんな問題意識を育んだのは、6歳から習い始めた能楽だった。「能楽には、天皇の治世を賛美する曲が多い。なぜか、と気になっていたんです」
 脇田さんによると、中世から戦国期にかけて、商品経済が発達し、庶民の生活もよくなった。その結果、能楽や狂言、連歌などの民衆の文化が生まれた。と同時に、貴族文化も一般にまで広がり、共通の基盤ができる。
 「主導権を握ったのは、平安以来の分厚い蓄積をもつ貴族文化。天皇を申心とする公家層が圧倒的に優位だったのです」
 観阿弥・世阿弥父子も、貴族文化の強い影響のもと、能楽を大成させた。 「彼らは、天皇の治世を神が守り、民は平和に暮らせるというメッセージを持つ曲を作つた。それを能楽師たちが、各地を巡業して民衆に浸透させていきました。天地開關の主の子孫として、天皇の絶対性を説く伊勢神道や吉田神道に沿っていたのです」
 一方、連歌も戦国大名から庶民にまで大流行する。武士の間では、元服や家督相続の儀礼として、連歌会を催すのがならわしになるほどだった。「連歌の指南役は、宮廷文人やそれにつながる宗祇ら連歌師たち。彼らは戦国諸大名などを回り、公家が主導する文化の体系をつくったのです」
 室町末期から戦国期にかけては、『源氏物語』も流行する。
 「源氏物語は好色性と政治性に富んでいる。あらすじを突きつめると、不義の子が家の当主になるというお家騒動。戦国大名の好む要素が盛り込まれている。都への志向が強い大名たちには、宮廷儀礼を知る手引にもなりました」
 ここでも流行の仕掛け人は公家だった。「宮廷文人たちが写本や注釈書を作って、大名たちに売り広めた。宮廷文化の大衆化が進んだわけです」
 宗教界も、天皇を中心とする統合が進んだ。中世後期になると、民衆の生活レベルが上がり、社寺へのお参りや祭りが盛んになる。
 「もともと延喜式以来、天皇は神官や僧官の任免権を握っていました。この時代、寺社が地方の寺々や地域の神々を組織していく。結果的に、天皇へと結集する構造が生まれたのです」
 伊勢神道や吉田神道の神官らが全国的に活動し、地域共同体の土着の神々を皇室祖先神へと習合していった。「その際、地域に伝わる縁起や神話も、皇室に関係するものに書き換えられる。公家がアルバイトとして、そうした新たな縁起を書いていたのです」
 戦国期から近世にかけては、天下統一だけでなく、芸能や宗教など文化全般が、ピラミッド状に統合されてゆく時代だった。その文化の頂点には天皇が位置した。そうあらしめたのは公家の手腕だ、と脇田さんはいう。
 「権力を失い、食い詰めた公家たちは、各地の戦国大名らを頼って、彼らに連歌や和歌を指導したり、『源氏物語』を講じたり、天皇の色紙や短冊を与えたりして生計を立てた。それが天皇の権威を広めることになりました」
 外交や政治の力にもたけていた公家たちは、生き残りをかけ、文化の商人として必死の努力をした、と脇田さんはいう。
 「やっぱりお公家さんはしたたかだった、と思いますね」